第2章 シガミの一族

黒い天使

 どれくらい走ったか、聴こえていた雨の音もやみ、今は雨そのものも降っていない。

 空は、曇り空だ。

 

 実際のところ十分も走り続けるのも容易ではなかった。乗せられる限りの老人を馬に乗せても、体力のない者から遅れていく。列は伸び、それでも騎士は最後尾の者を励まし、馬の後ろがいっぱいなら背負いまでした。

 道は雨でぬかるんでいる。つまずき転びそうになりながら、走れなくなったら歩き、また少しでも走り、少しでも前へ前へ進んだ。進み続けたのだった。雨を逃れて……。

 

「方角はこっちで……正解だったみたいだな」

 ミートは、レクイカの斜め後ろへ馬を寄せ呼びかける。ミートの背には、無言でまだしがみついたままの老婆。

 今は全ての者が、疲れた様子でゆっくりと、歩んでいる。

「……幸いでした」

 少し遅れてレクイカが返す。

 他の騎士達も、言葉少なだ。

 隊長のレクイカ自身も後ろに子供二人を乗せ、まだ騎士皆が老人や子供や怪我した者を馬の後ろや自分の前に乗せている。誰も皆ぐったりとしている。

 空模様を映しているように、歩く人々の表情もどんよりとして晴れない。

 

 道は傾斜になり、小高い丘を上り始める。

 丘を上りきると、目の前には森が広がっていた。国境帯の森だ。

 曇り空はさきよりも薄く幾許かの明るさを含み、怪物の姿は見られなかった。森は、幾つかの小さな虫の鳴き声が聴こえるくらいで、しんとして佇んでいる。

 

 丘の上から、元来た方角を見渡せば、その土地一帯が線の雨に包まれていた。

 

 銀の糸のように、天から地上へ一直線に、数多の線として降り注ぐ雨。きら、きら、と輝きながら。

 数時間前に発った休息所、その後通った街道、林……国の中心部の方からそこに至るまでの数キロ程の範囲。

 雨はその一帯に範囲を定めたように、そこから動くことはないようだった。そこにある全てのものを白い影に変え、やがては降りやんでいくだろう。怪物達が、白い影を食べる。後には何も、残らない。

 おそらくいずれまた、この辺りも雨に包まれる。そして、線の雨が来る。逃げ続けるしか、ない……。

 

 誰も、言葉もなく、呆然と見つめるしかなかった。

 帰る場所もなくしてしまった。

 家族と別れ別れになってしまった人もいるだろう。逃れられなかった人達は今頃、線の雨の下で白い影になってしまっているだろう。

 

「私達は……」

 レクイカが、誰に対してともなく口を開いた。

「線の雨を逃れることができたのです。脱落者もなく、これだけの民の方が無事でした」

 民達は線の雨をただ見つめながら、それを聞いている。

「私達は、生きましょう。……そう、残ったのが私達だけとは思いたくないですが、もしかしたら他の方角でも、同じように国の外へ逃れた人達は、助かっているかもしれません。そう、思いましょう」

 

 ある者は無言でそのまま立ち尽くし、ある者はその場にしゃがみ込み、涙し、子供達は抱き合い、雨を逃れたことに喜びの声を上げる者もいた。馬に乗せられてきた老人達は、騎士の前で跪き手を合わせた。行商人はレクイカの前に来て、詫びを述べ、レクイカはあなた方が人を乗せてくれなければ助からなかった者もいたかもしれないと丁重に礼を述べた。

 

 

 *

 

 もう、時刻は夕刻になる。野宿にするなら、森に入る前だ。

 皆の体力も、限界だ。騎士も、馬も、消耗しきっている。

 線の雨は、一度降り、やめば、しばらくは降らないとされている。数日か、数週間かは薄曇りの日が続く。怪物もその間は姿を現さない。

 

「レクイカ様、ともあれ、よかったです」

 ミカーがレクイカの傍へ来て、

「民を助け、安全な場所まで連れて行くのは私達の役目ということはわかります。が」

 レクイカの近くで座っているミートを見ながら、はっきりした声で言う。

「あの男も、やっぱりまだ一緒に連れていくのですか?」

 

「……」

 ミートは、さきの苦難を共にして絆もできたかと思いきや、一難去ればやはりこうなのか、と少し心へこませた。――あいつ、本当におれが嫌いなんだな?

 

「あ、ええ。……」

 レクイカもそっと、ミートの方を横目に見て、言う。ミートは少しどきりとして――まさかレクイカもあの状況下だったから協力しただけで本当は……

「連れていく、というか……今はこの成り行きなのだから、皆で一緒に行くのはそれより他にしようがないのではない?」

「しかしあのような、騎士を辞めて、というか、落ちこぼれて、吟遊詩人なんぞを気取っている男など。胡散臭いです」

「まあ、まあ。……吟遊詩人はまあ、としても」

 

 ミートは俯き、何だか散々な気分だと思った。

 さき、レクイカに再会したときは特別な再会のように思ったけれど、こうして状況が落ち着いてみると、歓迎されているとも思えないのだった。

 

「我々はこれからどこへ行けばいいのでしょう。もう、本隊もいないですし、おそらく国の中心部付近で救助活動を行っていた本隊は、もう」

 ミカーはレクイカと、話を続けている。

「とにかく、民を安全なところへ届けねば。私達の処遇は、それからね」

「雨が降るほど、怪物は増えるばかり。安全な場所自体が、線の雨に消されて、行き場所さえなくなってきています……」

「それでも、行くしかない……」

 やはり、話題も暗いところに落ち着いてしまう。

 ミートも、ともあれ今は余計なことを考えている余裕すらないのだ、と思った。

 

「レクイカ様、あちらを」

 騎士のシトエが指差す、木の枝に止まっているのは、黒い一匹の小さな天使だ。

 目も開いていない、人の赤子程の大きさの、しかし真っ黒な体色に小さな羽の生えた天使。

 

「天使……雨と天使の関係については、はっきりとはしていません。線の雨が降るようになる前後から、こういう天使は見られるようになったとも聞く。雨は天使が連れてくる、という説を唱える学者もいましたね」

「ならば、殺してしまいましょうか?」

 シトエは表情なくふとそう言い剣の柄に手を乗せる。

 

 天使はまるで、困っている迷い子犬のように枝の上で、きょろきょろと、辺りを見渡している。

 

 レクイカはそれを制して、

「あくまで、一つの説だし……一匹天使を殺したところで、雨が来ないということにもならないでしょう。逆に、天使を怒らせてはいけない、という話も、ある……とにかく」

 今は、休みましょう。と言った。

「いずれにせよ、ここもやがて雨が来るでしょう。明朝には早々、発たねば」

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