第1章 雨を逃れて

休息所

 一行が出立する幾らか前にさかのぼる。

 

 *

 

 国境からシトラ砦までの間にある休息所。

 宿泊施設にもなっている三階建て石造りの建物に、広い池やあずまやを有する庭園もある。

 旅人達が足を休めるための場所だが、今は警備兵もおらず幾分荒れ果て、どこか暗い、沈痛な面持ちをした人々がめいめいに座り込んだり寝転んだりある者はただおろおろとしている。

 

 空は、どんより重たい曇り空だ。

 

 長旅の後なのか些か汚れたマントを羽織った男。

 建物一階のテラスから庭園の池を眺めている。

 

 冷たげな水の中を、どす黒い影ばかりの鯉が泳いでいる。池の周りにはフラン樹、ナバナナの草木といった夏の植物が生い茂り水面を覗きこむように重たい首を垂らしている。

 濃い生の気配がある。

 だけどもうすぐにここにも死が訪れようとしている。


 ――おれは、騎士のミート。いや、騎士だった。今は何かですらない。

 ここまでなのか。どうして。どこでだめになったのだろう。

 

 夏の草花と一緒に、首を垂れて、池を覗き込む。まだ年若い青年のミート。ミートは、幾許かの絶望を抱いて故郷に戻ってきた。それは若者特有の挫折の一つに過ぎなかったが、そのことに自分なりの答えを見いだせないまま、彼は雨を迎えようとしていた。

 

 雨だけではない。

 雨に引き寄せられて、怪物達も来ている。あの、馬鹿にでかい、妙に悲しげな顔をした怪物達。さき、三階の尖塔から見たところ、遠くの森から夏の木々よりも大きな頭を樹冠の上に覗かせて、この休息所の方へゆっくりと向かってきていた。四方、八方からだ。

 

 既に集ってきた怪物はめいめいに、休息所の周囲に距離を置いて、物憂げに、頭を抱え膝を抱え、木立の間や物陰にしゃがみ込んだり、ただ突っ立ったりしている。

 

 あいつらはなんでああ物憂げなのだろう。あんなでかい図体をして、あんな間抜け面で、一体何がそう悩ましいのか。ミートはいたたまれずに苛々を募らせた。

 ――人間のおれが悩むのはわかる。だけど、おまえら、怪物じゃないか! こっちはこれから、消えていこうとしているんだ。おまえたちはただ雨と一緒にやって来て、消えることもなくそのでかい図体をひっさげて雨がやめばどこかへ行ってしまうのだろう。全てを食らい尽くして、どこへ行く? どうして、世界を消していく。

 ……

 

 

 静かな池に、一つ、二つ、と、小さな波紋が浮かんでは、消えた。

 

 雨………… 手のひらを差し出すと、そこにも雨粒がぽつっと落ちた。

 雨が、来た。

 

 池を隔てた木立の影に、怪物が頭をもたげているのが見える。わずかに見える横顔には、目は閉じられてるが口元に笑みが浮かんでいる。

 あんなやつに……食べられはするものか。

 

 ミートは、テラスから建物の中へ走り、階段を駆け上がった。

 

 雨はどの方向から来ているのだろう。雨から逃れて、逃げてやる。こんなところで怪物なんかに食べられるものか。雨に消されるものか。

 

 建物の中にはあちこちに、周辺の民だろう人々やあるいは他の地域から雨を逃れてきた旅人もいるのか、その皆全てが既に諦めたようにうずくまっていた。

 気の毒だが……とミートは思った。子供や老人は、どうしようもないだろう。旅人も、どこへ逃げても雨、雨、そして怪物……気力を失ったのかもしれない。でも、おれは、どこまででも、切り抜けてやる。

 

 尖塔の頂に出た。

 頭の上には一面の重たい曇り空。

 

 【線の雨】は、四方を注意深く見渡しても、どの方角にもまだ見えていない。

 次に建物を囲む木立を見やる。木立に隠れているものや、木立よりも大きなもの、怪物達の数は確認できるだけで十数。どの怪物もぴったりと動く気配はない。でも、雨が強くなってくればそうもいかないだろう。

 

 新たに、ここへ集ってくる怪物の姿はもうないようだが……

 

 見渡していると、一方の地平の向こうから、馬で駆けて来る者達がある。十騎程はいるようだ。少ないが、まとまった動きをしている。

 それに、シトラ砦のある方角からだ。国の騎士の一隊かもしれない。

 

「あいつら……これだけ集まった怪物を避けて、ここへ来れるだろうか」

 

 それに、騎士……か。

 ミートは自分のおんぼろなマントを二三度はたいて、階下へ足を向けた。

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