雨の夜は

すいま

雨の夜は

梅雨に入りしばらくが経った。

長引く豪雨がどこそこで土砂崩れを引き起こしたと、一日中同じニュースが流れ出す時期だ。とはいえ、整備された市内に住む男には、自分のことのようには思えなかった。

もちろん、店の外は豪雨だし、蒸し暑い日々にはうんざりしていたが、やることはかわらない。

客がいない間にハサミの整備をする。最近、切れ味が悪くなったような気がした。すーっと砥石を刃に沿わせる。必要以上に研ぐことはしない。

櫛を並べ、蒸しタオルを用意し、床に散らばった髪の毛を掃く。


職業病だろうか。少しハサミを手放すだけでも心もとない気分になり、気づけばハサミを手に持ち、サクッ、サクッ、と空切りする。前に美容師仲間にその話をしたときは流石に病気だと言われた。

昔から、何かを切ることが好きだった。ハサミで紙を切る感覚は小さな悩みをも切り落としてくれるようだった。

そう考えると、男は天職に就いていたのだろう。


今日は雨のせいか、最後の予約枠に客はいなかった。

商売人としては失格かもしれないが、その時間が好きで、店のテレビを点けてぼーっと流れるニュースを観ていた。雨音に邪魔されぬよう、テレビの音量を少し上げたときだった。


カランコロンとレトロな音を立てて店のドアが開いた。傘を下ろすとミディアムほどの髪の長さの女が店に入ってくる。


「今から、いいかしら?」


二十代前半と思しき女は落ち着き払った声で尋ねる。


「普段は予約制なのですが」


女はそれでも引き受けてくれると確信しているような微笑みを見せていた。


「今日は髪を切り足りない気分だったのです。どうぞこちらへ」


男に促され、女は更に奥へと進む。

コートを脱ぎ、男に手渡すと男は丁寧にハンガーに掛けた。

その間に、女は準備万端と椅子へ腰掛けた。


「お名前を伺っても?」

「言わなきゃダメかしら。一期一会の客は切らないタイプ?」

「いえ、構いませんとも。今日はどのように?」

「髪を切ったら失敗してしまって、どうにか切り揃えていただきたいのだけど。」


女は自分の髪の毛を一つまみし、男へと見せつけた。

綺麗な髪がさらりと落ちると、確かにガタガタと、まるで震えた手で切ったかのように毛先が揃わない。


「これはひどい」

「あら、これでも女性の髪なのよ。ひどいことは言わないで」


男はしまった、とギョッとしたが、その女のニュアンスはどこかいたずらっぽく、十は歳下だろうという女に弄ばれた心地がしていたたまれなかった。


「それでは、お任せいただけるとのことでよろしいですか?」

「ええ、お願い」


女は鏡越しに男を見つめていた。少しニヒルで酔狂なところがあるが、悪い人ではないらしい。ひどい男にばかり当たってきた女には、その男が良い男に見えた。

男の手が女の髪を梳く。櫛で掻き上げ、髪の束をピンで止める。

女はその手付きを見届けると、目を閉じた。


男の指が女の髪を一束挟み上げると、すぅ、と息を吸う音が聞こえ、サクッ、と音がした。雨音が店内にも響く中、パサリと床に落ちる髪の音がはっきりと聞こえる。


女は髪の毛を撫でられるのは好きだった。髪を撫でられると、すべてが許せる気がした。女が付き合ってきた男性はいつも髪をなでてくれた。キスをしては髪を撫で、殴っては髪を撫で。髪を撫でることは男たちにとってリセットボタンのようなものだったのだ。


「髪の毛、丁寧にケアされているんですね」

「やっぱり、プロの人にはわかりますか?」

「プロじゃなくてもわかりますよ。それにしては、切り方が可哀想ですね。どうしてこうなったんです?」

「ムラがある人なのよ。そういうところも嫌いじゃなかったけれど。私っていつもそうなの。長続きしないのよね。」


男は言葉に詰まる。一見さんに立ち入りすぎてしまった自負があった。距離感というものは、何年生きてきても測るのが難しい。


「お兄さんは、髪を切るのが好きなんですね」

「え?」

「だって、さっきから髪を切るときすごく嬉しそうなんですもの」

「目を閉じていらしたので気づかれていないと思ったのですが、失礼しました。どうにも顔に出てしまうと、美容師仲間からもお叱りを受けている悪い癖でして」

「いえ、いいと思いますよ。自分の仕事が好きな人は信頼できますから。それに、髪は女の命ですから、預ける相手はそういう人がいいですもの」


男は心が震えるのをなんとか抑え込んだ。性的興奮にも似た電気が体を走り、ハサミを止めてしまう。ひとつ呼吸を置き、落ち着きを取り戻そうと努力した。


女はまた目を閉じる。それを合図に、男はまたハサミを動かす。

相変わらず店内には雨音とハサミの音、髪が床に落ちる音が響き渡る。


『それでは8時のニュースです。』


二人だけの空間で、はじめて第三者の声を聞いた気がした。今までずっと点いていたはずなのに存在感すら無かったテレビから、ニュースキャスターの声が届いた。

ニュースキャスターがひとしきり、この豪雨の被害を無感情に言い伝えると、ローカルニュースへと切り替わった。


『続いてのニュースです。昨夜未明、高山市の住宅で女性が死亡しているのを近所の住人が発見し警察に通報しました。警察は殺人事件として捜査しているとのことです。同市では3ヶ月前に男性が殺害された事件が発生しており、警察は同一犯の犯行ではないかとの見解を示しています。』


「物騒ね」

「そうですね。昨晩の事件現場、ここからすぐそこなんですよ。あなたも気をつけたほうがいい。」

「そんな事言われると、怖いわ?」

「もう少しでカットも終わります。まだ早い時間ですが、タクシーでお帰りなさい」

「でも、怖い話嫌いじゃないの。スリルは必要でしょう?」


女はいたずらっぽく笑った。男は呆れたようにため息をつくと、カットする手を休めた。


「こういう仕事をしていると、様々なお客様がいらっしゃるんですがね?こんな田舎の街で起きた連続殺人事件ということで、話題は持ちきりなんですよ。そうすると、根も葉もない噂が集まってきます。」

「へぇ、どんな噂?」

「警察が、なぜこの事件を連続殺人事件としているかわかりますか?」


男はカットを再開する。


「同じ市で殺人事件が連続して発生していたら、法則性があると考えるのはしかたないと思うけど」

「そうですね、そう考えるのもいいでしょう。しかし、まだ2件目です。法則と言うには母数が乏しい。ということは、より確実な証拠を警察は掴んでいるというもっぱらの噂です。」

「噂が好きなのね」

「まぁ、こういう商売ですから、聞いてください。ヒントは、その手口にあります。ただ人を殺した、というだけでは同一人物の犯行だなんて見当はつきません。今回の事件は、その異常な手口こそが共通項だったのです。」

「異常な手口?凶器や死因については報道されていなかったと思うけど、まるで観てきたことのように話すのね」

「いえいえ、知り合いの業者に、ハサミを扱う方がいらっしゃるんですがね。私もこの仕事柄よくお世話になるんですが、その方が言うには、1件目の事件が起こったとき、警察がハサミの切り跡の照合をしたいとかで、連絡があったそうなんです。」

「つまり、ハサミで切り殺された、と?」

「それだけではありません。現場には大量の切り落とされた髪の毛が落ちていたそうです。」

「髪の毛が。それはたしかに異常ね。そんな事件が続けば、誰だって同一犯の犯行だと疑わないわ。でもどうしてそんなことを知っているの?」

「それはもちろん、警察が美容師を疑って市内の美容室に聞き込みに回っているからですよ。現場の髪の件は、そのうちの一人が聞いたらしいです。狭い界隈ですからね、噂はすぐに広まります。」


男は話し終えると、女性の髪を整え、鏡を差し出す。


「素敵に揃えてくれてありがとう。これで平然と街を歩けるわ。ところで、あなたも髪を切る人ならば、その犯人の気持ちもわかるのかしら」

「そうですね。髪を切ることが好き、という点は理解できます。ただ、そこに殺人が含まれると私なんぞには理解も及びません」


女は男の顔を観察するようにじっと見つめた。男は見透かされないよう視線をそらす。


「なるほどね。私も髪を切られるのは好きなの。昔ね、付き合っていた男がいたの。そいつは浮気グセがひどくてね。ある日、家に帰ると平然と隣に女が寝ていたことがあったわ。」


男は無言で立ちすくんでいる。女はその姿を鏡越しにみてほくそ笑んだ。


「当然問い質したけど、男は逆上するばかりで謝罪の言葉すら出てこなかった。それどころか、私の髪の毛を掴んで床を引きずり回したわ。そこにいた女はケラケラと笑うだけだった。そのうち、男はハサミを持ち出してきて、私のこの髪の毛を切り落としたの。私は泣いて懇願したわ。お願いやめてって。すると、浮気相手の女もケラケラ笑いながら私の頭を押さえつけてきた。気づいたときには二人はそのまま家を出て、私一人になっていたわ。まぁ、もう半年も前の話だけどね。」


男は言葉もなかった。一見さんとはいえ、他人のプライベートを叩きつけられる恐ろしさを感じたのは初めてだった。

しばらくの沈黙の後、男は仕事を思い出した。


「さて、カットの方は終わりました。シャンプーしますね」

「いえ、シャンプーは結構よ」

「ご不快な思いをさせてしまいましたか」

「いえ、そうではないわ。スリルがあって面白いお話だった。でも、今日は私にとっても予定にない時間だったのよ。それに、そんな異常者がそのへんにいるとなれば、早く帰るのは懸命でしょう?」

「そうですか、それは残念です。」


男はハサミを持ったまま女の髪を名残惜しそうにひと撫でする。

髪を切られるのが好き?女はたしかにそう言った。しかし、その物語はとても幸せなものではなかった。なんなら、髪を触られることさえトラウマになりそうなエピソードだ。


女は会計を済ますとコートを羽織り、入り口へと向かう。

カランコロンと音を立てて、ドアが開いた。


「あの、最後だと思ってひとつ聞いてもいいですか?」

「ええ」

「そんな事があったのに、なぜ髪を切られるのが好きだと言ったんですか?」


女は傘を開いて振り返ると口を開いた。


「さっきの事件の話で、面白い噂を教えてあげるわ。現場に落ちていた髪の毛はね、被害者のものじゃなかったそうよ。」


男は考えた。被害者のものではなかった、ということは。


「ガタガタと震える手で殺さないでと懇願しながら犯人の髪を切る被害者は、どんな気持ちだったのかしらね。」


女は最後に男の目を見つめると、ひらりと踵を返し、雨の中へと消えていった。

男は、女のガタガタの毛先を思い出しながら、ハサミを手に取り、ひとつ空を切った。

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雨の夜は すいま @SuimA7

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