古いかまぼこ板に金釘でイシャと書きますと、家の表に吊るします。すると早速、

 ごめんくださいまし、ごめんくださいまし。

 ……どなたです? 米屋さんなら来月まで待ってもらえませんかね。

 いえ、米屋ではございませんが。

 なら八百屋さん? 荒物屋さん? それとも……あっ、酒屋さんでしょう。今駄目なんですよ。

 ……なんだか方々に借りがあるんだな、この家は。……こちらはお医者様ではございませんか?

 お医者? ……あ、そうだ。忘れてた。へへへっ、いらっしゃいまし。まだ成り立てなんでねえ、ええ。で、なんですか。

 手前は日本橋の越前屋四郎兵衛と申します店の、手代でございます。この度は主人が長病でございますので、色々と手を尽くしましたが思わしくございません。大変当たる辻占の易者があるというのでみてもらいましたところ、これから辰巳の方角にあたり、最初に見つけたお医者様にお願いすればたちまち快方すると言うのでこちらに参りました次第。是非ともお願いをしたいのでございますが……。

 ああ、なるほど。よろしゅうがす。行きましょう。

 いや、先生にお取次を……。

 ……へへっ。わたしがその先生なんで。

 手代ははぁ、とため息をついて、黙ってしまいます。いや、どうにも見窄らしいなりをして、とんでもない奴を頼んでしまったと思ったが今更いけませんてぇわけにもいかず……。


「おはよう。あなたがこんな時間に珍しいわね。今日は朝練なかったの?」

 菊花寮から出て、校舎に入るまでの道すがら。登校中の生徒の中にふと前を歩くクラスメイトを見つけて、雲母は小走りで近寄ると、その肩をぽんと叩いた。

「ああ、あんたか。おはよう。朝練は、あったんだけど……ね」

 眠そうに欠伸を噛み殺しながら、空手部一年のホープである——他校の生徒からはそのあまりの強さに、畏敬を込めて〝暴君タイラント〟と恐れられている——少女が答えた。

「じゃあ、サボりだ。悪い人ね」

「別にこっちだってサボりたくてサボったわけじゃない」

 暴君は苦笑して、

「ただ、今回はちょっと……いつもよりもあの子の出血がひどくてさ」

 と言った。

 雲母はハッとして、周囲を見回した。何を隠そう暴君は、黒雪のルームメイトである。なのに、この時間になっても一緒に登校してきていない。それを今このときになって、雲母は改めて気づいたのだ。

「黒雪、怪我……してるの?」

 問いかける雲母の声が震えている。まさか暴君が黒雪に手を挙げたとは思っていないが、……でも、昨日は部活が終わって別れるまで、特に変わった様子はなかった。それなのに。

「怪我なんかじゃないよ」

「じゃあ、……なに?」

 暴君は渋い顔をしたまま黙っている。

「あなたが何かしたわけでは、ないのでしょう?」

「当たり前だ。見損なうな」

「なら教えてよっ」

 思わず声を荒げてしまい、二人は衆目を浴びることとなる。暴君はさらにバツの悪そうな表情を浮かべて、

「……あの子、生理が重いんだよ」

 声を潜めて、苦虫を噛み潰したようにそう言った。

「今朝も血だらけで。だからわたしがシーツを取り替えてあげたんだ。ヘル……なんとか、なんだっけ、パド……パラドックス? よくわかんないけどそんな名前の病気なんだって。あの子みたいな子にたまに先天的に現れるんだって聞いたけど……。ていうか、あんただってあの子と同じ部活だろう? どうしてあんたが把握してないんだよ?」

 病気? 黒雪が……? 確かに生まれつき紫外線に弱くて、目も悪いって、聞いているけれど。でも……

「ったく、……わたしがバラしたって言うなよな。あの子に睨まれると、わたしでさえ正直肝が冷えるんだから」

 立ち尽くす雲母を置いて、暴君が足早に去っていく。

 雲母はその後ろ姿を、茫然と見送っていた。


 案内をされて病人の部屋に入りますと、ウンウンと唸っている病人の足元に死神が座っているのが見えたものですから、

 ふふっ、しめた。

 え? 今なにかおっしゃいましたか。

 あ、いえなに、あの……そう、わたしが入ってきて、襖をこう、閉めたと、そう言っただけで。ああ、なるほど……よっぽど長く患ってらっしゃるようで。

 長病でございまして。いろいろな先生にお願いをいたしましたのでございますが、どうも思わしくございませんで。

 で、どんな先生に。

 最初は稚内終点先生に診ていただきまして、もう先がない、と。

 ああ、稚内で終点だから、先がない……。

 そのほかにも数多先生に診ていただいたのですが、お診立ては皆同じで……。

 いけないってんですか? ふーん。そんな事ぁないでしょう。治りますよ、この患者は、ええ。で……その、お礼の方は?

 それはもう、いかようとも。

 へ? へー、それはよろしゅうございます。あたくしはね、医者もやりますが、ちょいとこう、呪いの方もやりましてね。ええ。では、そっちを一つやらせていただきます。……あじゃらかもくれん、ゆりのはな、てけれっつのぱぁ。

 男がそうやってぽんぽんと二っつ手を叩きますと、死神がすっと離れていく。すると今まで唸っていた病人が、

 おいおい、……ごほっ、……お茶を一杯持ってきておくれ。なんだか夢から覚めたようだよ。頭からすっと雲が晴れたようで……。


 結局その日、黒雪は学校に来なかった。生理痛がひどいのか、それとも貧血を起こして横になっているのか。雲母の奥歯に物が挟まったような説明ではよくわからなかったのだけれど、ともかく放課後に部活のない日だったので、わたしたちはみなで集まって、寮にお見舞いに行こうかどうか……と思案している最中だった。すると、……あの、と消え入りそうな小さな声が、わたしたちの背後から不意にかけられたのである。

 一斉に振り返ってみると、そこに立っていたのはかの白い王子様だった。相変わらず頭の先からつま先まで体を構成するすべてが純白で、まつ毛さえも雪の結晶のように白く輝いていた。

「あ、すみません。あの……落研の先輩方、ですよね。今日、お昼休みに燈さ……いえ、常世野とこよの先輩にお会いする予定だったんですけど、いつまで待っていてもいらっしゃらなくて、メールも返ってこなくて、それで……ん、どうしたのかなって、心配で」

 おどおどした表情と、そのしゃべり方は、なんだか今にも消え入りそうだ。そんな彼女の様子を見ていると、黒雪が語った活発で歌と踊りが得意で……という白い王子様の姿は、やはりわたしたちには想像できなかった。

「あの……?」

 わたしたちが誰も返事をしないので、白い王子様はさらに困惑の度合いを強めてしまったようだった。

「ううん。ごめんなさいね。今日、黒雪……燈は学校を休んだの。貧血なのかな。ちょっと体の具合が悪いみたいで……」

 そう答えたのは、枢李だった。

「ねえ、これからお見舞いに行こうかって話してたんだけど、あなたも一緒にどう? ええと……」

「あ、いえ、……わたしは、ん、……ご遠慮しておきます。お大事にって、それだけお伝えください」

 ぺこりと頭をさげると、彼女は足早に廊下を去っていこうとする。それを止めたのは雲母だった。

「ねえ、ちょっと待って。……あなたは黒雪の病気のこと、何か知っているの?」

 真剣な雲母の表情に、黄蝶も枢李もきょとんとしながら。二人をただ見つめていた。いったい何の話だろうと、首を傾げていた。

「知っています」

 白い王子様は小さな声で、

「……わたしと似て……ん、違いますね、わたしと同じ、ですから」

 視線を逸らせた。

 似ている、ではなくて、同じ。

 去っていく背中を見つめながら、それがいったい何を意味しているのか、雲母はじっと考え続けている。

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