第12話

僕は文学がなんだか好きだ、何故かは解らない、昔から自分の世界を欲しがり攻撃を受けずらい世界を持ちたがる、これは本能的なもので建前としての趣味なんかは全く無いので趣味を聞かれると困ってしまう、

ただし僕の好む物に関しては話せる人が少なく話してもきっと意味わかんないでしょう、

だからこそ建前の僕はすかすかでその隙間から本来の姿を見られる事を拒む、

昔僕は嫌な事を飲み込んで心の底に落とす想像をして建前としての自分を健全に保とうとした、これは自我とイドにそっくりなイメージだった、何故か僕の想像や思考は何らかの本に既に書かれている事に気付きだした、

ただ自分が教科書に乗ってる人物の思考と同じ事を思うなど馬鹿らしく思い引き寄せの法則として受け入れようとした。

ただ僕が存在するがゆえにそれは実存したんだと。

フロイトを読んで自分がただの物忘れでは無いような気がした、

なぜ僕が多重人格と思うのかもフロイトには答えが合った、

フロイトの考え方は世間じゃ言い訳ととらえられるだろうし、本来無意識に嫌な物を意識して矯正しているのだからそれで無意識が伝わってしまったら社会性は失われるだろう、

実際超自我はなにを恐れて居るのだろう、

同じカルチャーの中でも無意識で君臨する者もいれば努力を積み重ねる者も居るだろう

多数はただならぬ努力の上、回りに認められる。その関係の上で努力の者に無意識をひけらかせば努力の者に取っては劣等感になるだろう。

劣等感を抱いた人間は自分の存在を認識出来なくなり、また自分を認識するために自己の認識の邪魔になるものを排除しようとする。

これを無意識の者の超自我は恐れ、無意識を守り社会性においての問題を極力排除する。

それが超自我の役割だろう、

努力の者からして彼らに無意識は有るのだろうか、僕なりに考えてみようと思う。

彼らに取っての無意識は社会性そのものだろう。だから無意識の内に同じカルチャー、同じ装い、流行を集団となり追う、

彼らは一人が一個体ではない、

同じ向きにみなが向かい集団から離れての思考は用意されていない、

群れではあるが、整った教育のおかげにて統治の容易い大きな一個体に過ぎないのだろう。僕に取っての社会性は超自我にて用意される、赤ん坊は欲望の塊であるが僕は挫折の度に我慢は多いにしてきているので既に抜けたと思いたい、欲望は強いがこれこそSが用意してくれた生命の情動だと思いたい。

事実人間は精神のカルチャーが無くして七情を統べて的確な愛を発する事は出来ないだろう、心が七情にて揺さぶれてもそれを統括出来るだけの精神のカルチャーがなければ人間は破綻していく、無意識に社会性が用意されていないのは現在の僕の問題だろう

基本的には無意識に存在するということはそれは早いうちから育まれていく要因、つまり教育が用意されていたと推測されるが、

悪質な環境で育った僕には用意されて居なかった可能性も要るんだろうか。

きっと自己形成がなされていないがために

無意識に自我同一性が育まれなかったのだろう、自分の才の何もかも認められない、自分の姿の理解を進めることの出来ない、

一体今の僕がどうすれば社会性を用意出来るんだろうか。

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