何でもあり

@Tairano-Kiyomori

第1話 蛭巻氏

一人の紳士が、道を歩いている。

暑い夏の陽に打たれ、夕暮れ時の風に吹かれ、よろめくような覚束ない足取りで、歩いている。

彼の額には、大粒の汗の玉がいくつも浮かんでおり、彼はしきりにハンカチでそれを拭いていた。よほどの汗っかきと見える。いくら真夏とは言え、すでにハンカチはグッショリと濡れており、それを入れるポケットのあたりにすら、うっすら汗の染みが浮かび上がっている。

彼は、どうにもそれをバツが悪いことと思っていたようだ。どことなく控えめな仕草で、毎度毎度恥ずかしそうに拭く。今ひとつ曖昧な、困ったような表情を浮かべながら。彼とすれ違ったある青年は、その表情を見て吹き出しそうになってしまった。まるでこってりと叱られたあとの悪戯小僧のような、情けない表情を、皺だらけの紳士が浮かべていたからである。

この如何にもうだつの上がらなげな紳士は、名を蛭巻と言った。職業は教師。趣味は、自分が言うには読書と音楽鑑賞。しかし周りの人間からすると、「日陰にいること」が趣味なのではないか。そう思えてくるくらい、彼は自分を発露することの少ない人間だった。臆病で気弱な、石の下の虫粒のような、人間であった。



そんなつまらない蛭巻氏にも、たまには日常の起伏が生まれる。例えばこの前、こんなことがあった。

「もしもし、蛭巻先生。お久しぶりです」

ジリリリと鳴る黒電話を、アクビをしながら取ると、相手はかつての教え子であった。

「オオ、中野君か」

蛭巻氏はこの、愛弟子からの知らせをたいそう喜んだ。というのも、この中野青年は珍しく、蛭巻氏によく懐いていた生徒だったのだ。彼の教え子の多くは、蛭巻氏のことを塵芥程度にしか思ってなかったというのに。

「いやあ、仕事の方はどうだい?まあ君なら、ラクラクこなすことが出来るだろうけど……」

「まさかまさか。学生の頃とはまるで違う、厳しい毎日です。」

「おや、ソイツは大変だねえ」

蛭巻氏は、受話器と電話をつなぐ線を、クルクルと指に絡ませながらしきりにうなづいた。

「はい。ただ、それでも頑張るつもりですよ。というのも、僕は今度結婚するつもりなんです」

「なんだって!」

蛭巻氏は飛び上がらんほどに驚いたが、すぐに納得した。言われてみれば、彼みたいな好青年に、良い相手の一人や二人、いない方がおかしくはある。

「ソイツはおめでとう。結婚式とかも開くのかい?」

「ああ、いえ、それはしないつもりなんです。事実婚で留めておくつもりです。色々と、事情がありまして……」

「そうかそうか。まあ事情は人それぞれだろう。それで、ヨメさんはどんな娘なんだい?君のことだ。さぞかしいい人を見つけてきたのだろう」

「まさか…と言いたいところですが、本当に僕なんかにはもったいない人です。いつもあの人は僕に対し思いやりをもって接してくれます。だから僕も自然と、彼女のために精一杯尽くそうという気分になってくる……」

「オイオイ、惚気か?」

「あっ、すみません」

気恥ずかしそうな感じが、電話口からも伝わってくる。やはり、よっぽど好き合っているのだろう。どうにも鈍い蛭巻氏にも、それがよく伝わってきた。

「フフ、本当にいい子なのだろうね。一眼見てみたいよ」

「ああ、それならば次の日曜日、うちにいらっしゃいますか? 彼女と一緒に、引っ越すことにしたんです。借家ですが、中々雰囲気のいいところが見つかったんですよ」

「本当かい!?ありがとう。是非とも訪問させてもらうよ」

「ええ、こちらこそ、またお会いしたいと思っていたので。夜の七時くらいにおいで下さい。僕と彼女で、手料理を作って待っていますよ」

こうして、通話は終わった。

「いやあ…ついにアイツも家庭人か……」

電話を切った後も、蛭巻氏はしばらくの間しみじみとした余韻に浸っていた。



蛭巻氏が中野青年と出会ったのは、7年ほど前、彼が大学で教鞭を取っていた時のことである。

(どうしてこう、学生って奴らは遊んでばっかりなのかね…)

昔っから彼は、生徒から尊敬されるということが無かった。その如何にも情けない顔つきに、下手くそな授業のせいである。彼は見くびられていた。そしてそれは、この大学においても変わらなかった。

「どうも、よろしくお願いします。中野といいます」

しかし、中野青年だけは例外だった。彼は誰にでも分け隔てなく、その柔和な笑みを振りまいた。もちろん、蛭巻氏に対しても。

(おや……)

 この好青年は、蛭巻氏の寵愛を一身に集めた。こういった経験の乏しい彼は、少しでも丁重に扱われると、すぐ感じ入ってしまうのだ。そして聖人君子の中野青年もまた、蛭巻氏の好意によく答えた。こうして二人の間には友情めいたものが芽生えていった。近すぎず疎すぎず、どうもこれくらいの距離の方が、人間心地よいようである。


そして中野君が大学を卒業した後も、二人の関係はポツポツと続いた。そして今日久方振りに、件の電話がかかってきたのである。

「よし、こうなったらお祝いに、よほどいいものを送ってやろう。彼みたいに素直な子が幸せになるのは、いいことだからね」

蛭巻氏は日曜の日を楽しみにしながら、何を贈り物にするか、あれこれ考え始めた。どうにも彼のような人物は、自分の幸せにはあれこれ含むところがあるが、他人の幸せについては、気楽に考えられるようである。気楽に祝えるようである。だからこそ彼は、本気になって贈り物を吟味した。

「やはり、細君の喜ぶようなものがいいだろう。女性、それも若い人が好むものといったら、やはり服飾だろうか……」

しかし、蛭巻氏はまだ彼女を見たこともなく、背格好も分からない。中野青年に訊くのもいいが、それはどこか気がひける。この時の彼は、プレゼントというものはサプライズにてなされねばならぬという、盲信を患っていた。

「よし、ではネックレスにしようか。あれなら、体型は関係あるまい。早速明日頃店に行って、見繕ってこよう」

そして翌日、氏は意気揚々と店に向かった。彼は店員に事情を説明し、予算の中で、良さげなものを探してもらった。

「おお、これなんかいいねえ。随分と落ち着いた、上品なデザインだ」

彼は展示品の一つを見て感嘆の声を上げた。それは翡翠をあしらった、美しい翠色の首飾りだった。

「お気に召しましたか?ただこちら、多少値の張るものでして……」

「いくらくらいだね?」

「それが……」

提示された値段は、薄給の彼にとって決して安いものではなかった。それどころか、ゆうに月収を超えていた。

「いかがなされますか」

「むむ……」

蛭巻氏は腕組みをし、眉間に皺をよせ、首を傾け、あれこれ考えた。

(確かに、高い。しかし、何かここで値段の高さの圧力に負け、妥協するのもバツが悪い……。どこか、気持ちの悪い……)

「うむ、構わぬ。買おう」

蛭巻氏は言い切ってしまった。

「分かりました。では、どうぞ」

ガラスケースから取り出されたそれは、眩い輝きを放っていた。普段宝石に興味など持たない彼も、この時ばかしはその光に魅せられた。本物の宝石というものが、これほどにも美しかったとは。そしてまた手に持ってみると、ズッシリとした量感がある。しげしげと見つめるほど、煌めく星のような美しさを感じさせた。

「ううむ、やはり素晴らしいね」

値に負け妥協していれば、こんな綺麗なものを手には取れなかっただろう。そしてもう一つ、決断の果てのものだからこそ、その輝きはより一層のものと感ぜられるのだ。

そして蛭巻氏は、ネックレスを丁重に包装してもらったのち、店の外に出た。

「いや、いい買い物をしたぞ!」

繁華街の夜には、星のような明かりがポツポツと瞬いている。普段は、虚飾の象徴のように思われたそれも、今の彼にとっては味方のように思えた。花より団子だの、そんな言葉で誤魔化して、食わず嫌いしていただけで、結局彼もまたそういう虚栄に関心はあったのだ。気恥ずかしくて、自分から手出しはできぬが、機会さえあれば……凡庸なる一般人たる彼は、無意識のうちにそんな通俗的な野望を、隠し持っていたのかもしれぬ。

ともあれ、彼は素晴らしいプレゼントを得た。これだけは、確かであった。



そして、日曜日の日が来た。

愛弟子との久方振りの再会だというのに、蛭巻氏は少々緊張していた。中野青年だけならばなんでもないが、彼の細君の存在が蛭巻氏の繊細な心を揺らしていた。

(どんな人なのだろうか)

あの人の出来た彼の娶る女だ。きっと初対面の自分にも優しくしてくれるだろう。蛭巻氏はそう思っていたが、いかんせん彼は臆病で、その上魯鈍なのだ。分かっていても、不安は尽きぬ。

しかし、そんなことで約束を反故には出来ぬ。彼は常識人である。彼は定刻通りに、二人のマンションの前まで来ていた。

「おお、言っていた通りだ。いいところに住んでいる」

郊外にそびえ立つそのマンションは、ピカピカの新築であった。混じりのない白の壁、滑らかな曲線から成るシルエット、中々に瀟洒な印象を受ける。新婚の夫婦の住まいとしては、決して悪くない場所だ。

「いやあ、流石は中野君だねえ」

蛭巻氏はしきりに感心しながら、二人の住む一室へと向かった。

「ごめんください」

そう言ってインターホンを鳴らすと、すぐに返事が来た。

「蛭巻先生!待っていましたよ。すぐにお通しします」

嬉々とした声に、蛭巻氏はどこかホッとした。そして扉が開き、中野青年が姿を現わす。

「おお、久しぶり!」

蛭巻氏ははにかみ、彼と握手をした。

「こちらこそご無沙汰しておりました。どうぞ中に入ってください」

青年は丁重に蛭巻氏を迎え入れた。

(むっ?)

しかし、玄関に足を踏み入れた蛭巻氏は、妙なものを見つけてしまった。

――一本の杖が、傘を入れる籠の中に、入っていたのである。

(まさか、杖の要るような妙齢の女性と? ……いやいや。細君が山歩きを趣味にしているとか、そういうことだろう)

蛭巻氏は思わず、ヨボヨボのお婆さんと、中野青年が仲睦まじく手を握り合う様を想像し、ギョッとしてしまった。

「おや、先生。何か気になるのですか?」

その様子を見た中野青年が、問いを投げかける。

「ああ、いや……どうして杖があるのかなと……」

蛭巻氏がおそるおそる尋ねると、中野青年は一瞬、不意を突かれたような表情をした。しかし、すぐに落ち着き払い答えた。

「……妻の使うものです」

「ああ、やっぱりね。そうだと思ったんだよ!」

やはり、山歩きかなんかだ。そう合点した蛭巻氏は、小さく安堵の溜息を漏らした。

そしてそのまま蛭巻氏はリビングに入った。テーブルの上には、料理の盛られた皿がいくつもいくつも載っていた。

「おや、こんなに張り切って準備してくれたのかい」

蛭巻氏は満面の笑みを浮かべて言った。

「ええ、妻と二人で作ったんです。来客の時くらいは、張り切らないと」

中野青年もまた、屈託のない笑みを浮かべて答えた。

「いやあ、ありがたいねえ。そうだ、お返しといってはなんだが僕もね、贈り物を持ってきたんだよ」

「贈り物?ありがとうございます」

「こういったものなんだがね」

蛭巻氏は自信たっぷりに、贈り物のネックレスを取り出した。

「これは……」

「どうだい。お気に召してくれたかい?細君への贈り物として買ったんだ」

「……」

(むっ?)

この時の中野青年はなんとも言えぬ曖昧な、複雑怪奇な表情を浮かべた。明らかに彼は、言葉に困っていた。この状況に、困惑していたのである。

「いや、いや、どうもありがとうございます。すぐに、妻を呼んできます。そしたら、食事にしましょう」

数瞬の沈黙の後、中野青年は愛想笑いを浮かべながら言った。そしてリビングからそそくさと出ていった。

(お気に召してくれなかったのか……?)

一人残された蛭巻氏の心に、たちまち不安の霧が立ち込める。彼はこういったことについて、殊更に繊細であった。すぐにあらん限りの、悪い方向への想像が煙みたいに立ち込めて、彼の脳裏を煤で汚した。

しかし、そんな時間はまもなく終わった。細君が、彼の前に姿を見せた。

(ああっ!!)

中野青年の連れてきた細君を見て、蛭巻氏は叫び声を上げそうになった。

「どうも先生。こちらが妻です」

妙に堅い笑みを浮かべながら、中野青年は彼の愛おしい妻を紹介した。

(そ、それは予想外だ!)

夫に手を引かれやってきた、その貴婦人は確かに素晴らしい人だった。しっとりと落ち着いた、上品な美しさを感じさせた。しかし今の蛭巻氏にとっては、一点恐ろしいところがあった。――堅く閉ざされた、その双眸である。そう、この美しい細君は、盲人であった。

(う、うううむ)

口中に、得体の知れぬ苦味のようなものが広がった。彼は自分の好意が、空回ったことを理解した。彼女は光を、色を解することが出来ぬのだ。それなのに、あの翡翠の輝きを、どうして楽しめよう。あの時の中野青年の微妙な表情は、細君の、装飾の意味を解せぬことより来ていたのだ。そして、思えばあの玄関先の杖、あれは盲目の細君が、外出の時に使うためのものだったのだ!


別に、仕方のないことではある。元はと言えば、蛭巻氏が細君のことについて何も知らないのに、勝手に贈り物を選んだのが悪いのである。また、非は中野青年にもある。彼が一言、彼の細君について付け加えておけば、蛭巻氏はもっと適した贈り物を選べただろう。いたずらに高い金を払うこともなく。まあ中野青年は、妻の障害を誰かに伝えるたび、場の雰囲気の気まずくなるのを幾度も経験していた。障害とは一種のタブーである。故に相手はどうにも気を遣おうとする。そしてこのことが、人の好い中野青年には多少心苦しくあった。出来ることならば、あまり言いたくなかった。しかし今回はそれが裏目に出たというわけだ。

ともかく、蛭巻氏はプレゼントを選ぶのに失敗した。先天的な盲人である彼女は、視覚的美というものを解せぬ。あのネックレスをつけた彼女が、どれほど美しく、清楚か解せぬ。奮発して高価なものを買ったというのに、後悔の残る選択となってしまったわけだ。


さて、この後は予定通りディナーが続けられた。蛭巻氏は表向き平静を装いながら、美味な料理に舌鼓を打った。そのうち酒も入ると、多少は饒舌になってくる。中野青年と、細君との人が好いのもあり、会話も中々に弾む。失敗の後の割には、中々楽しい夕食となってきた。

しかし、ふとした拍子で、どうしても蛭巻氏は思い出してしまった。夕食の、ほんの直前の時のこと――

「ほら、ミドリ。先生が贈り物をくれたんだ」

「贈り物?あら、何でしょう」

「ほら、ネックレスだ」

そう言って、中野青年は優しい手つきで、細君の首を飾った。

「ああ、ネックレスね。ありがとうございます。どうですか、私、綺麗に見えるでしょうか?」

――この時、蛭巻氏は絶句でもしたい気分になった。細君の表情にたたえられた笑みは、完璧なものだった。無欠であり、一切の隙というものを感じさせなかった。

せめて、目が本当に笑っているかどうか、それだけでも確かめたいと氏は思った。しかしそれは同然ながら出来ない。細君の双眸は、前述の通り、貝殻のように堅く閉ざされているのだ。


この後も中野夫婦と、蛭巻氏との関係は良好なまま続いていった。しかし、随分と付き合いの続いても、未だに蛭巻氏は細君のことが分からない。彼女が、自分の盲目についてどのようなことを考えているか、尻尾も掴めなかった。それくらい彼女は、完璧な、上品な貴婦人として、振る舞い続けたからである。





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