第12話 少年、失恋する
味気ない白い天井が僕を見下ろしている。
帰宅した僕は自室のベッドに寝そべりながら思索にふけっていた。
この先、僕はどうすればいいのだろう。今のまま、友人としての関係を続けながら彼女と付き合い続ける?
耐えられるだろうか。こんな気持ちを抱えたまま彼女のそばにいるなんて。
それに、今のところ花咲はこうも言っていた。「恋愛というものに幸せを見出すことができない」「そんなものは必要ない」と。
いや、だが待てよ。
彼女は僕に人生を変える一発を叶えてくれると約束している。
例えば、彼女自身が欲しいと願えばいいのではないだろうか。
そこまで考えて僕は「それはできない」と自分の考えを取り消した。
それでは助けた恩につけこんで、自分と付き合えと要求していることになる。
しかも、あれは純粋に彼女を助けようと思ったというよりも、彼女を責めていた連中に対する反発心が主なところで、どちらかといえば自分のために行動した結果だ。
しかしその時、僕の心の中で何かが囁いた。
『恩に付け込んで何がいけないんだ?』
『世間の何人もの女と付き合っている男どもは、強引に声をかけるナンパは勿論、相手の話に合わせるために嘘だって平気でつける。それに比べればましなはずだ』
『それにこの数か月、自分と彼女はなんだかんだ言って自宅で一緒に遊ぶほどの中になっている。これはもう、恋人になる一歩手前くらいまで親しくなっていると言って良いんじゃあないか?』
それは、若干後ろ向きで自分のエゴを正当化しているとも言えたが、僕に行動させる原動力にはなりつつあった。
そうだ。例の約束をこれに使うかどうかはともかく、まず正直に彼女に気持ちを伝えよう。もしかしたら、上手くいく可能性だってきっとあるはずだ。
僕はベッドから起き上がって胸の前でこぶしを握り締めた。
数日後の日曜日、僕はいつものように花咲の家を訪ねていた。
西洋風の両開きの門の前で呼び鈴を鳴らすが、彼女はどういう訳か出てこない。
一応、遊びに行くと連絡はしていたはずなのだが。
不審に思って僕がドアノブに手をかけようとしたとき、中で物音がして玄関の扉が開かれた。
何かあったのかと声をかけようとしたが、僕は黙り込む。
現れたのは見知らぬ人物だったのだ。
髪を茶色く染めて、センターで分けた整った顔立ちの男だ。年齢は僕よりも何歳か上のようである。
彼はたいていの人間にさわやかな好印象を与えるであろう、微笑を浮かべつつ話しかけてくる。
「やあ。美空ちゃんの友達かな?」
美空ちゃん。花咲のことを下の名前で呼んでいる。
「……えっと」
僕が反応に困っていると目の前の青年の背後から花咲の声が聞こえてくる。
「ああ、済まない! 今日は遊びに来ることになっていたのだったな。見ての通り、事前の来客があってちょっと話し込んでいたんだ」
玄関先に花咲が姿を現した。
「……来客」
「こちらは、
「いやいや、違うよ。僕自身はまだ大学生だ。勿論いずれ勤務するつもりではあるけれどね」
話を聞けば彼は都内の某有名大学の四年生だが、すでに製薬会社に内定が決まっているらしい。そして、その製薬会社でかつて活躍していたという花咲のお父さんの話を聞くために家を訪ね、自分の考えている新薬のプランについて花咲に相談していたそうだ。
「人の役に立つ薬を作るのが僕の夢でね。そのために彼女の量子コンピュータをぜひ活用したくて、この間から相談しに来ていたんだ」
この間から。
今日が初めてではなく、既に何度か花咲の家を訪れていたらしい。
それに量子コンピュータのことまで彼に話していたのか。
「君は美空ちゃんの友達なのかな? 彼女は長い間一人暮らしをしていて寂しいこともあるだろうから、ぜひ仲良くしてあげてくれ。友人としてね」
友人として、か。
僕は彼の自信にあふれた堂々とした態度に、別のものを感じ取ってしまう。……それともこれは僕の邪推だろうか。
「それじゃあ、僕は失礼させてもらうよ」
「帰ってしまうんですか? 智志さん。もう少しゆっくりしてもいいのに」
そう言う花咲の表情はどこか熱に浮かされたようにほんのりと赤らみ、潤むような目で彼を見つめていた。
初めて見る表情だった。
こんな表情もするんだな、花咲は。
そういえば、僕が彼女の家から帰るときにはこんなふうに名残惜しそうに引き止められたことなど一度もなかった。
「彼が遊びに来ることになっていたんだろ? 邪魔したら悪いよ。それじゃあね」
そう言って茂手木は僕の横を通り過ぎて行く。ふと観察すると鞄のポケットに独特の形の小瓶が入っているのが見えた。
かすかに彼から匂いが漂ってきたところからすると、どうやら香水の瓶か何からしい。
身だしなみに気を配る大学生はこういうものなのか。
僕とは何かもが違う。一流大学に通い、ルックスも優れ、将来性も抜群。
対して僕は彼に勝てる要素が何もない。
「ああ。それじゃあどうする? 今日は何か話があると言っていなかったか?」
どこか力が抜けたような声と調子で花崎は僕に声をかける。
その呆然自失といった表情はまるで「僕などどうでもいい」といっているかのようにすら見えてしまった。
「……いや、悪い。遊びに来てなんだけど急用を思い出したよ」
僕は彼女に背を向けた。
昨日までの決意が情けない敗北感と共に崩れていくのがわかった。
心の中で僕は考える。
まだ茂手木と花咲が自分の思うような関係だと決まってはいない。ただ、ちょっと今日は出鼻をくじかれた。一度出直そう。
だが、もう一人の僕が弱々しく呟く。
『本気でそう思っているのか?』
『下の名前で呼ぶ仲になっていて、しかも花咲はもっといてほしいと言いたげに引き留めようとしていたんだぞ』
『僕が家に来るまでの間、二人がしていたのは本当にただの打ち合わせだけか?』
そんなことを考えながら駅までの道を歩いているうちに、彼女に対して嫉妬とも悔しさともいえない感情が芽生えてきた。
だが僕はそこで自分がますます情けなくなる。
この間は、僕は彼女が幸せになることを考えていたんじゃなかったか?
そもそも別に僕と彼女は付き合っているわけじゃない。彼女が何か悪いことをしたわけではないはずだ。
ただ僕が勝手に好きになって勝手に失恋していた、というだけの話だ。
だがもう花咲の家に遊びに行くのはやめよう。路傍の草が高嶺の花に焦がれたところで隣にいることすらできないのだ。
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