第8話 一発屋、量子コンピュータについて講義する

 彼女の言う研究室はこの家の地下室にあった。


 廊下の一角に下り階段があり、そこを降りると重厚な雰囲気の黒い扉が待ちかまえていた。花咲はナンバーキーを解除してその扉を開けて見せる。


「さあ。入りたまえ」

「すごいな」


 そこに鎮座していたのは幅と高さが数メートルに及ぶ黒い大きな箱である。起動ランプが鈍く輝き、容量からして普通ではないことがうかがわれる。それとは別に三台ほどのパソコンとディスプレイ。それに何かの英語や日本語の資料が詰め込まれた本棚が壁際に並べられていた。


「これが量子コンピュータなのか。素人目にはよく分からないが」

「そうだ。演算速度に関しては世界最速レベルだと思うよ。公的な学会に正式に発表しているわけじゃあないけれどね」


 僕はしばらく沈黙してから、すこし気まずい気分で口を開く。


「ちなみにさ。量子コンピュータってどういう原理なんだ? ここまで来て今更聞くのもなんなんだが」


 だが、彼女はそんなピントのずれた質問をする僕に呆れるでもなく、ただ微笑する。


「なに。わかったふりをするより、素直に聞ける人間の方が好ましいさ」と前置きをして説明を始めた。






「現代物理学の一つに量子力学という分野がある。それに登場するのが量子という考え方だ。これは簡単に言うと『物理量の最小単位』だ」

「物理量の最小単位。要はあれか、原子とか電子のことなのか?」

「そういうものも含んではいるが、それだけじゃあない。もちろん水や金属ならその考えであっている。しかしじゃあこれが光のようなエネルギーだったらどうだろう? これを最小単位であらわすとどうなると思う?」

「光って……物質じゃないから測れないんじゃないか?」

「それは光を運動力そのもののような『波』だとかんがえるからだ。だが実は光は『波』であり『粒子』でもある光子、フォトンという『質量を持たない素粒子』で出来ている」

「よく分からないが、ものすごいミクロな世界ってことか」


 光が何かの物質で構成されているなんて考えていなかった。厳密には物質じゃないかもしれないが。


「そのとおり。だがこれくらい小さな世界だともう、位置と運動量を同時に測定できないんだ」

「そりゃそうだろ。光って世界で一番速く動く存在なんだろ?」

「うん。仮に位置を測定するとしたら、運動量を止めないといかん。運動量を測ろうとすると今度は位置が測定できない。というかそもそも人間は光がないと何も見えないんだ。つまり観測するのにも光が必要だ。光子の動きを観測するのに光子で出来た光を当てたらもう自然な状態で観測することはできない」


 観測する行為そのものが観測する対象に影響を与えてしまう状態か。


「この間、果部にも話していた不確定性原理とかってやつだな」

「そう、まさにその話さ。だから便宜上『波であり粒子でもある』と考えて、という考え方が生まれたんだ。測定されるまで『二つの状態が重ねあっている』というわけだ」


 僕の物理のこの間の中間テストは四十点である。彼女の話も半分理解できるかどうかという所だが、感覚的に理解できる部分もある。


 水波や音にしろ電流にしろ、エネルギーつまり波動というのはおおよそ「伝達する物質」がなければ成立しないのだ。しかしこの波動の単位を細かく分断し極小まで小さいレベルで考えた時、つまり「水波で言う水の粒」「音で言う空気中の分子」という単位で考えた時、伝達物質と波動そのものの違いはあいまいになってしまうのではないのだろうか。


 つまり伝達する物質そのものに着目すれば粒子、動きそのものを意識するなら波動になる。


「この『二つの状態が重ねあっている』という発想。前置きが長くなったが、この考え方をコンピュータのシステムに応用したのが量子コンピュータだよ」


 花咲はここで十円玉を取り出して、右手の指で表にしたり裏にしたりして見せた。


「いいか? 従来のコンピュータは二進法で成り立っている。つまり一かゼロかの一ビットを情報単位として演算をするんだ」


 そう言いながら今度は彼女は十円玉を見えないように手の中に握りこんでしまう。


「しかし量子コンピュータは観測するまで二つの可能性が存在しているから、一かゼロかが重ねあっているものとして考えることができる。つまりコインで言うと表になるか裏になるかがまだ決まっていない状態なんだ。この情報単位を量子ビット。キュービットという」


 縁結びをしてくれそうな名前だな。


「それって、そんなにすごいことなのか?」

「すごいとも。例えばだ。ある場所に行くのに分かれ道や交通方法に四つの二択、つまり組み合わせとして十六通りの行き方があるとして、どれが最短のルートなのかを演算させたとする。従来のコンピュータでは一ビットは一かゼロかのどちらかしか表示できない。つまり四ビットでようやく一つの結果を表示できる」

「うん」

「だが量子ビットを四つ組み合わせたコンピュータなら、それぞれに二つの可能性がランダムに存在しているから二×二×二×二で十六の結果を一度に表示できるんだ」

「つまりあれか? ……従来のコンピュータだと一台の車を走らせた結果をそれぞれのルートで十六回の演算を繰り返さないと最適なルートはわからない。だが量子コンピュータなら十六台の車をそれぞれのルートに同時に走らせた場合の計算ができる。最適なルートを一瞬で出せるということか」

「そういうことだ。まあ今のはたとえ話であって現在のコンピュータでもたかがルート検索くらいならそんなに大差はない。だが、演算速度においてこれくらいの差があるということさ」


 なるほど、と僕は納得しかけてふと思う。


「待てよ。『四つ』の量子ビットで従来のコンピュータの『十六倍』の性能が出せるなら『五つ』にすれば」

「二の五乗で三十二倍だ」

「じゃあ、十の量子ビットを搭載すれば」

「一〇二四倍になる。……ちなみにアメリカのとある有名企業は七十二量子ビットを搭載したコンピュータを開発している」


 それだと二の七十二乗ということになる。


「もう気が遠くなるような領域だな」

「だが、話はそう簡単じゃあないんだ。例えば、ある種の量子ビットはリン原子をシリコンに打ち込んで作る」

「へえ」

「それからシリコン盤の上から電力を加えて電子を引き上げて、リン原子をプラスの状態にする。そうすると電力を下げれば電子はもどる。これを一かゼロかの量子状態に見立てて演算を行うわけだ。……だが、これがマイナス二百度以下の極低温下でないと上手くいかない」

「でも、それなら低温を保てばいい訳だろう? いくらでも方法はありそうだけど」

「それだけじゃあない。さっきも言ったとおり量子は外部から観測できない。観測しようとすると結果に影響を与えるからな。だから観測するために別の量子ビットを使用するんだ」

「つまり、より多くの量子ビットが必要になる、と」

「そうだ。だから私のコンピュータには一万の量子ビットを組み込んである」


 もはや技術の次元が違いすぎてなんといったらいいのか、わからないが。


「だが、最大の問題はエラーの発生だ。量子コンピュータは確かに圧倒的な演算速度を誇る。しかし代わりに計算結果も膨大な数が出てくる。この中から最適な回答を選び出さないといけない。これをどう解決するかが問題なわけだ」

「そう聞くと問題だらけにしか見えないが。……どうやって解決するんだ?」


 ここで彼女は指を二本立てて見せた。


「量子コンピュータは二つの方式がある。一つは汎用的な量子ゲート方式。もう一つは組み合わせの最適化のみに特化した量子アニーリング方式だ。前者は量子の不安定さゆえに、回路計算ができるように実用的なマシンとして組みあげるのが困難とされている。だが後者はさっきも言った低温状態の超電導を利用して既に一部の企業で実際に作られている。ただし、前者に比べると使い方は限定されるがね。……私はこの二つを組み合わせたのさ」

「うーん。どういう事なんだ? その二つは量子コンピュータと言っても別ものなんだろ?」


 例えとして適切かはわからないが、おそらくは「プログラミングもできてイラストも描けるパソコン」と「通信に特化した携帯電話」並みに違うものなのではなかろうか。


「君はここまで量子というものの性質を聞いていて、何かに似ているとは思わないか?」


 彼女は思わせぶりにそう切り出した。


 似ている? 何かに?


 ここまでの話にでてきた量子の特徴といえば……。


 安定しているようで、波のように揺れ動く。


 こちらが観察する時には、意識しているかのように態度を変える。


 本音と建前のように表裏があるが、直接的に当たってみないとどっちが正解かわからない。


「女心か!」

「…………君は時々よく分からないやつだな」


 花咲は左手にコーヒーカップを持ったまま、胡乱な目で僕を見た。


「だが、当たらずとも遠からずといっておこう。私が近いと思ったのは人間の脳なんだ。まあ、脳科学者をしていた父の影響もあったかもしれないが」


 人間の脳、か。


 確かに脳というのは、現存するコンピュータで再現すると数億ビットもの超高性能AIと同様の代物だと聞いたことがあるが。


「え? じゃあつまり」

「ああ。脳細胞はニューロンという神経細胞とシナプスという電気信号を化学物質にかえる結合部で成り立っている。じゃあニューロンを量子ビットに、シナプスをアニーリング方式の量子コンピュータに置き換えて、組み上げて結合させればいいんじゃないかと考えたんだ。あとは人間の脳組織という見本を元に基本設計と配置を作ればいいわけさ」

「そういや、リン原子が量子ビットを再現するのに使われるんだっけ。リンって人体にも含まれているんだよな?」

「良いところに気づいたな。……いかにも。実は人間の脳内では生化学的な量子計算が行われているんじゃないかという説もあるくらいだ」

「それで、これってどんなことができるんだ?」

「よく言われるのは新薬の開発だな。目的の効果を持つ物質を作るのに必要な化学物質を逆算し必要な組み合わせを割り出すわけだ。私のコンピュータに至っては個人レベルで効果を発する惚れ薬も開発可能だ」


 そういえば、柳田にそんなものを作って渡していたな。


「他にも、データさえあれば数値の推移を予想することもできる。株価みたいにね。ヒットする音楽や災害予測も可能だ。勿論、そのためのビッグデータがあるのが前提だが。……普通のパソコンのようにネット通信にも使えるぞ。それだけのために使うにはもったいなさすぎるがね」


 花咲はコーヒーを飲み干しつつ、冷めた表情で答える。


 僕は、ただため息をつくことしかできなかった。


「凄いんだってことは判ったけれど、大きな画用紙と百色くらいのクレヨンを渡された幼稚園児の気分だ」

「何を描こうかワクワクしているってわけかい?」

「逆だよ。絵心がないから、使いこなす自信がなくて途方に暮れているんだ。……この場合は僕の発想力じゃあ、高性能のコンピュータも大きめのパソコンと大差ないって意味」

「目新しいものってのは、最初はどんな使い方をすればいいのか判らないものさ。人とこんなに話をしたのは久しぶりだ。……君さえ良ければまた遊びに来てくれ」


 その後、僕は花咲と少しばかり雑談をしてから家を後にした。

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