第5話 少年、一発屋に誘惑される
あれから数日が過ぎたある日。
僕は学校近くの繁華街を一人、歩いていた。
普段は学校まで電車と歩きで通学しているのだが、先日から陰鬱な気分が続いていて気晴らしがしたかったので途中下車したのである。
別にあてがあったわけではない。
ただ人ごみの中をぼんやりと歩きながら、この間の出来事を考えていたのだ。
あの後、勢いに任せて行動したものの、今度は僕が花咲に代わって標的になるのではないかと心の片隅で危惧していた。しかし実際には何も起こらず、ただでさえ少なかった僕に話しかけてくる人間がさらに減った程度である。
けれども、僕の思考を占めていたのはそのことに対する安堵よりも自己嫌悪がほとんどだった。
そう。僕は改めて気持ちを見つめ直した結果、自分を突き動かしたものの正体が何だったのかだんだん自覚してきたのだ。
結局のところ、僕が花咲に詰め寄っていた連中から彼女をかばったのは義憤でもなければ正義感からくるものでもない。
嫉妬と羨望だったのだ。
僕には子供のころから人に何かを褒めてもらえた記憶がない。
これなら自信があると思える分野が何一つなかった。
だから花咲に頼んで一発当ててもらおうと思うような夢や希望そのものがないのである。
夢や希望というのは、それを手に入れられる自分を想像できるだけの人生経験に裏打ちされたものだ。だが僕にはそれがない。
それがゆえに傷つけられた相手に復讐しようと思えるほどの自尊心もない。
たとえ大金が転がり込んできても、それで贅沢に暮らしている自分というものが想像できないし「何かを達成して周りから承認される」なんて人生のメニュー欄に最初から表示されてすらいないのだ。
そんな僕からすれば果部や宇田のように「叶えたい夢や願望があって実際にある程度達成したのに、その状況が続かなかったから不満がある」なんて心理は到底理解の及ぶものではない。
いや、理屈では理解できても感情移入はできないのである。
例えていうならば。
女性に全くモテない男が、恋人がいる友人から「いや彼女ができたらできたで、プレゼントとかデートとか大変なんだよ」と苦労を語られる気分。
あるいは飢餓に苦しんでいるアフリカの子供が、豊かな国の人間に「ハンバーガーは美味しいけど、食べ過ぎると太ってしまうんだ」と健康問題を語られる気分。
そんな「持っている者の苦悩」を「持たざる者」が聞かされた時に覚えるあのどうしようもない感情。
つまりは自分とは隔絶したレベルの人生経験と希望を持っていながら、そのことに不満を漏らしている様子に、そんな価値観を有していること自体に無性に腹が立ってしまったのだ。
ふざけるな。
僕なんか、叶えたい夢や希望を持てるだけの自信さえもないんだ。そんな次元にすら達していないんだ。
周囲からそれなりに認められて人生を謳歌してきたくせに、被害者を気取りやがって。
そう言い返したかったのが僕のあの時の本心だ。
醜い、とても醜くて無様な本心だった。
だが彼らが特別なのではなく、むしろ僕のようなタイプの人間こそが少数派でありアブノーマルなのだろう。
考えれば考えるほど、自分が惨めな存在に思えてくる。
僕はため息をつきながら、知らず知らずのうちに人気の少ない方へ足を向けていた。
と、その時だ。
誰かに見られている気がして、僕は思わず落ち着かない気分になって立ち止まる。
周囲の様子を伺っていると、今度はかすかに誰かが呼び止める声がした。
「…………くん」
「? ……誰だ?」
「草壁くん。待ってくれ」
振り返るとそこに立っていたのは、長い髪を後ろで結び、短めのスカートに上品なデザインのブラウスを身にまとった少女だった。
身体は細身だがボディラインは肉感的な丸みを帯びていて、大きめの瞳がきらりと僕を見つめている。顔立ちはまあ美人と言って良い部類だ。
「どちら様ですか?」
「わからないのか? 私だよ、私」
そう言いながら目の前の美少女は黒縁メガネをかけた。
「え? まさか、花咲?」
「いかにも」
そう言って彼女は少し得意げに髪をかき上げて見せる。
いつものボサボサの髪の毛と白衣姿とは違っていたが、確かにそこにいるのはあの「一発屋」こと花咲美空のようだ。
「君に話があったのだけれどね。周りに知られたくなかったものだから、こうして変装して周りの目がないところで声をかけさせてもらった」
「話? 僕に?」
「ああ。この間は君に助けてもらっただろう。だからお礼がしたくてね」
僕としては必ずしも善意から出た行動ではないので、わざわざ礼をされるとは何とも複雑な気分だ。
「僕は別に礼なんて……」
「遠慮は無用だ。私は君に借りができてしまったからね」
彼女は僕に否が応でも恩を返すつもりのようだ。
「それは嬉しいけれど、何をしてくれるつもりなんだ?」
彼女はミステリアスな笑みを浮かべつつ答える。
「何、せっかくだから。君にタダで一発やらせてあげようと思ってね」
「えっ!?」
僕は思わずすぐ横にある建物に目をやった。
僕がちょうど歩いていたのは、よくある「休憩にならないご休憩」などもできる安ホテルの前だったのだ。
「いや、あのう」
「何だ?」
「き、気持ちは嬉しいんだけど。そういうことは、もう少しお互いのことを知り合ってからの方が」
「……君は何の話を」
彼女は途中まで言いかけて、僕の目線が建物の看板に向いていることに気がついたらしい。
「違う! 違う! そういう意味じゃあない!」
いつも超然とした態度をしている彼女からすれば非常に珍しいことだが、花咲は耳まで真っ赤にして取り乱していた。
照れ隠しをするようにコホンと咳ばらいをしてから話を続ける。
「つまりだな。君がもし人生を変えるような『一発』を願うなら私が叶えてやる、と言っているんだ」
「一発を?」
「そうだ」と彼女はここで僕に何かの芝居のように優雅に手を差し伸べる。
「金持ちになりたいというのならそれも可能だし、意中の女子がいるのならその子を君の思うがままにしてやる。あるいは何かやりたいことや復讐したい相手があるのならそれを叶えることだってできるんだ」
「いや、急に言われても」
僕は唐突な申し出に困惑して口ごもった。
「どんなことでも叶えてやれるぞ。……とは言え、すぐには思いつかないか。まあ、今じゃなくてもいいさ。一か月待とう。その間に叶えてほしい願いを決めて私に声をかけてくれ。それじゃあ」
彼女はほとんど一方的に僕に向かって告げると、踵を返して街の雑踏の中に消えて行ってしまった。
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