短編集

timary

第一幕 こうかんこ

 暗くて静かで何も無い。ただ何かに包まれている気がする。

 どんよりとした空気が酸素を少なくさせる。

 じわじわと何かが這い上がってくるような不快感。

 目を開けているのか閉じているのか、自分の指と闇の境界線すらわからない。

 ああ、駆け出したい。振り払いたい。思い切り大きな声で誰かに気づいてほしい。

 たすけての言葉すら音が出ない。

 動かない。動けない。


 どうして。


『……そうた……』


 薄れていく意識の中で誰かの呼ぶ声が聞こえた。


────……


「……ゲッホッ! ゴホ、ガハ……はぁ、は……」

 じわじわじわじわ

 ……夏の虫の鳴き声がする。

 ちりりりん

 ……続いて風に揺れる風鈴の音。


 い草の臭いとじいちゃんちの布団の臭い。震える腕に熱を感じる。畳から続く縁側の外を見ると、痛いくらいに眩しくて、さっきの暗闇との差に瞬きを繰り返した。

 大きく息をして、ゆっくりと吐く。ばあちゃんがよく落ち着きなさいとお母さんに言っていたのを思い出す。

 ……あぁ、夏休みだからじいちゃんち来てたんだっけ。

ふと今何をしているのかがわかった。なんだか随分と寝ていたみたいでもうお昼すぎみたいだ。

 僕はふらふらと起き上がって、くしゃくしゃになった布団もそのままに玄関に向かう。

 じいちゃんちは夏になると玄関の引き戸が開けっ放しだから音がしない。お腹も空いてないから僕はそのまま外に遊びに行く事にした。

 おじいちゃんがこっちを見たので僕はにこっと笑った。そろそろ玄関から出ると同時にパタパタと音がする。

「爽太、どこいったん?」

 お母さんの声がすぐ後ろから聞こえて肩が跳ねる。

「あ、お母さん」

 気まずい気持ちで後ろを振り返ると、居間でクロスワードをしているじいちゃんに話しかけていたみたいで幸いこっちをみてなかった。

「爽太は遊びいきやったよ」

 じいちゃん僕のが代わりに答えてくれたので、お母さんに気づかれないうちに僕は駆け出した。


 とりあえず外に出てきたけど、そこで初めて様子がおかしいことに気づいた。

 みんな僕がどれだけ目の前で手を振ったり飛び跳ねても無視するんだ。肩を触るとびっくりはするのに、やっぱり僕のことはまるで見えてないみたいな反応ばかり。

 今この辺で流行っている新しい遊びかもしれないけど、急に仲間外れにされたみたいでなんだかすごく面白くなかった。だからか、あんまり人の来ない所に自然と歩いていたんだ。

「あーそーぼ?」

 一人で遊ぶ気にもなれず、綺麗な川の側でぼんやり川の流れを見ていたら誰かを遊びに誘う声がした。そんなに大きな声でもないのに心臓が飛び出るくらいびっくりしてしまった。

 声がした場所を探すと、すぐ後ろにあるあぜ道に僕と同じ年くらいの2人を見つけた。知らない男の子が、見覚えのある女の子を遊びに誘っている。

 僕は一瞬ほっとしたんだ。けどすぐに間違いだと背筋に走る寒気が教えてくる。

 知らない男の子なんかじゃない。

 あれは【僕】だ。

 顔も声も背格好も服装も全部。

 あまりに異様なその光景に僕の視界にある景色がじんわり滲んでいく。僕が【僕】から目を離せないでいると、【僕】はこちらを見て、にこりと笑った。

「あ、そうたちゃん。ごめんね、今日はママとお買いものなの。また遊ぼうね〜」

 僕の友達の筈の女の子は空々しい程にはっきりと【僕】に僕の名前を呼んで手を振って離れていく。

 なに、これ。どうなってるの

  【僕】は女の子に手を振って僕に視点をあわせる。

 目覚めて初めて僕は認識される。その途端さっきまでとは違う世界のように、音も景色も滲んでいく。耳がどくどくと五月蝿い。喉が息をするなと言うように締まる。身体はどうしようもない程に、寒い。

【僕】は今までしたことも見たこともない、ニタァと気味の悪い笑顔をしてこちらに近づいてくる。

『おはよう、そうた?』

 途端、頭の奥で一筋の冷たい水が流れた気がした。目の前のイキモノが怖くて、怖くて怖くて、今すぐ走り出したいのに体中が震えて上手く動けない。手が伸ばされてようやく動いた足で後ずさると、足元のぬかるみに足を滑らせた。

 襲いかかる浮遊感に自分が川の側にいたことを思い出す。ぎゅっと目を閉じて息を止めて、落ちる寸前。僕は思いっきり前に腕をひっぱられた。

『また、おちちゃうよ?』

 至近距離で【僕】が声を出す。反射的に目を開いた僕はそのいつも見慣れたはずの僕の眼を思いっきり見てしまった。

 その瞳には僕が写っていた。

 ぐらぐらと視線が泳ぐ。その視線の先、【僕】が握っている僕の手は。

 僕は。

 だいだいいろのはずのそこは緑とか赤とか茶色のぐちゃぐちゃで、滑らかなはずのそこは異様にぶくぶくと膨れ上がっていて、五本の指はあっちこっち向いて、殆どない爪。

 髪の毛なんか全部なくて、ちょっと骨の見える頭、ところどころめくれ上がった皮膚。落ちてしまいそうなほど膨れ上がった、つぶらで可愛いと言われていた筈の僕の目。

「あ……」

 喉から出したはずの声はしわがれたとんど音にもならなかった。今日何故か初めて出した声は、聞いたこともないおじいちゃんのような声で、【僕】とはまったく違う今の僕の声。

 思わず触れた頬からは何かがぷつんと破れた音がする。そこからぐじゅりと出たのはどろりとしていて酷い臭いで、真夏のゴミ捨て場なんて否じゃないくらい臭くて赤い血じゃ、なくて。

「あ、あぁあ……」

 僕。僕。僕。ぼく。僕は。僕は。

 意味もなくただ垂れ流す言葉にもならない声は、なに。

 怖い、怖い、怖い。僕、何、何で?

 目線の先の生き物に、唯一僕が見える僕の姿をした【僕】を見上げる。

 助けて、嘘だと、夢だと言って。言葉にならない声で、必死に僕は【僕】に助けを求めた。

 【僕】は笑顔だった。

『そうた。川の側で暴れたら危ないよ? ほんとね、すぐ死んじゃうんだよー』

 「そんな風にさ」 と、けらけら笑う。

 何を言っているのか、何を笑っているのか、僕には分からなかった。

 ただただ、自分と目の前にいる【僕】が怖かった。

 ひとしきり笑ったあとに、思い出したように【僕】が呟いた。

『まぁ、あの時死んだのは僕なんだけどね』

 にこっと笑われ、思い当たる事を思い出した。

 そうだ。数年前、お母さんと二人で歩いていたら川の側のお墓を見つけたんだ。

 小さなお墓で、僕が 「子供のお墓かな」 って言ったら、 「拝んでいきましょうか」 ってお母さんは言った。

「この川はね、随分昔に爽太とおんなじ名前の男の子が雨の日にお母さんと歩いてたら足を踏み外して、そのまま川に飲まれてしまったんですって。絶対にこの川では遊ばないようにお母さんが小さいときから言われているの」

 お母さんはちらりと僕を見てから悲しそうな顔をしていた。

「その子のお母さんは?」

「……ずぅっと探していたみたいなんだけどね」

 言ったままお母さんはしばらく川を見てから、気を取り直してにこっと僕に笑いかけた。

「そろそろ帰ろう。おじいちゃんとおばあちゃんが待ってるよ」

 僕の手をひいて家に帰ったのを思い出した。

 ……彼の名前は、そうだ。

「そうた、くん?」

 口をパクパクとしただけで声にならなかったのに、【僕】は手を叩いて喜んだ。

『そうだよ! そうた。思い出してもらえて良かった。そうじゃないとうまくいかないとこだったよ』

 そうたくんは僕のぐじゅぐじゅの両手を、綺麗な手で包み込む様にそっと握った。

『まぁ、昨日のことだしすぐには忘れないよね。昨日お母さんと喧嘩したの覚えてる?』

 昨日、昨日は、そう。滲んでいた頭がはっきりしてくる。思い出した。

「友達と遊んで、ちょっと遅くなっただけなのにすっごく怒ってくるから」

うんうん、とそうたくんは頷いてとても嬉しそうな、うっとりと僕を見て口を開く。

『そうだよねぇ、あれくらいであんなに怒るなんて。だから言ったんだよね』


────……


 ざあざあと、昨日はすごい雨だった。

 いつもは門限の五時には帰るのに、久しぶりに会う友達と遊ぶのが楽しくて、気づいたら七時になっていた。

 急いで走って帰ったけど、玄関の前で待ち構えていたお母さんがすごい勢いでビンタしてきたんだ。

「何時だと思ってるの!! 雨の日はおじいちゃんの家では遊びに行っちゃだめっていつも言ってるでしょう!!」

 お母さんは泣きながら怒鳴っていた。なんでか叩かれた僕じゃなくておじいちゃんもおばあちゃんもお母さんを慰めるように撫でていた。

「川に連れて行かれたんじゃないかって!! みなさんに協力してもらって探していたのよ!!」

 お母さんはいつもうるさいけど、今日は格段にうるさい。いくら川で死んじゃった男の子が今の僕と同い年だからってちょっとやりすぎだ。すごくイライラする。

 お母さんもおばあちゃんもおじいちゃんも。川で死んじゃった男の子が見つけられなかったからこんな事に? そんなのすっごく昔の話だし、叩かれて膨れ上がってほっぺたがジンジンする。なんだよ、なんだよ皆して!

「なんだよ川の男の子の事ばっかり! そんなに川の爽太が可哀相なら交代してあげるよ! 迎えに行ってあげれば!?」

 僕はそう言い残して部屋に駆け上がったんだ。


────……


「ねぇ、そうた? 水の中は暗くて苦しくて冷たくて、すごくすごく怖かったよ。何度も何度ももがいて、助けを探したけど。聞こえてくるのはゴボゴボ、ゴォゴォ」

 にこにこと僕は石ころを蹴り飛ばした。ぽちゃんと落ちる音がする。

「爽太と同じ名前で、同じ年齢で。しかも雨の日っていうのが良かったんだろうなぁ」

 手を伸ばしたら肌が張って、緩めたら戻る。それだけの事でも嬉しくて僕は頬が緩んだ。

「上手に《こうかんこ》できたよ」

 ちらりと川の方を見た。僕にはもう綺麗な川の流れしか見えない。

 もう僕にすら認識してもらえない可哀想な可哀想な馬鹿な【爽太】。

生きたくて生きたくて堪らなかった奴にね、《交代してあげる》なんて言うから。

ありがたく《交代》されるのさ。

『ーーーーーッッ!!』

 何か聞こえた気がした。ああ、もしかしたらあっちの【そうた】のお母さんが迎えに来たのかな? 

僕が見つからなくなって心を壊した母は周りの目を盗んで川に飛び込んでからずぅーーっと探してたらしいし。

 血しか繋がってない何もできない依存心の強いハハオヤ。

 あの人から逃げて落ちた川の底。声を必死で殺した僕と違って、必死で助けを求める君はきっとすぐ見つかって。多分もう離してもらえないけど、もう僕には関係ないよね。

「そうたーーー? 何してんのー?」

 遠くから買い物帰りであろう僕の新しいお母さんの声が聞こえた。ああ、青空が眩しい。

「おかあさーん! 一緒にかえろー」

 僕は後ろを振り返る事なく、笑顔で手を振って母の元に駆け寄った。


おしまい


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