第10話 クイーン

 作業員はエリザベスの指示でP-51Bのエンジンのカウルを取り外しにかかった。ほどなく、パッカード社が製造したV1650エンジンがむき出しになった。

「操縦席に誰か乗ってくれます?」

「ユア・マジェスティ!」

 基地で機付き長を務める軍曹が威勢よく返事をすると、左の主翼の付け根から操縦席の横に登り、狭いキャノピーの中に入り込んだ。

 「女王陛下!」という意味の相手の返事に対し、彼女は軽く頭を横に降ってから、以後別にそれを気にするでもなく、エンジンの各部の点検に入った。

 胴体の防火壁から伸びる支持架とエンジンの間のゴムを挟んだマウントをしげしげと覗き、シリンダーブロックをぐいぐいと押してゆらぎがないか確かめた。

 ゼウスとユングは特にすることもないので、P-51Bの左の主翼の端のあたりまで来て彼女を眺めた。二人の整備員が両翼のパネルを開けて武装を確認していた。一人は尾翼回りの点検を始めた。

「陛下、50口径は4挺揃っていますが、装弾はどうしましょうか?」

 彼女は振り向くと、大げさに手を横に降った。

「基地を機銃掃射するつもりはないわ。特に何もなければパネルを閉めて。燃料タンクの漏れだけは確認してちょうだい。翼内タンクの燃料も見て。300マイルも飛べれば十分だから、足りないようだったら足して。この機体はサドルタンクはないはずよ」

「ユア・マジェスティ!」


「彼女は一体何者なんだ?」

 ゼウスは、脚立を運んできた整備兵をつかまえて聞いた。

「知りませんでしたか? パッカード社の『クイーン』を。他の基地では評判ですよ。ついにうちの基地にも来たっていうんで、みんなハイになってるんです」

 そう話すと、彼はエンジンの脇に脚立を置き、よじ登ってプラグコードの確認を始めた。

「『クイーン』か…」

 ゼウスは、たいそうなニックネームで呼ばれるのが自分だけではないと分かり、同類を見るような気分で彼女を眺めた。

「燃料はまだ十分あるみたいだから、エンジンをかけちゃってください!」

 むき出しのエンジンを細かいところまで眺め回した彼女は、操縦席に大声で伝えた。エンジンをかけると聞いて、プラグコードを覗いていた整備員は脚立とともに退散した。

「仰せのままに!」

 シュバッ!

 整備員がボタンを押したのだろう。スターターの白煙が排気管から噴出し、次にプロペラが回った。まだ冷え切っていないエンジンは程なく安定したアイドリングを始めた。

 いったん離れていた彼女はエンジンのすぐ横に行き、支持架に触れて振動の様子を確かめた。それからエプロンの舗装を覗いてオイルが漏れ落ちていないことを確認した。

 彼女はまた操縦席を見上げると、ハンドサインを送った。左の拳をぐいぐい押し上げるのを見て、整備員はエンジンのスロットルを開けた。『クイーン』はうなずいて、エンジン方を向き直った。

 エンジンの音はけたたましく鳴り、プロペラが力強く機体の周囲の空気を後方に押し流した。プロペラの推進力はブレーキのかかった主車輪が受け止め、機体が振動に震えた。

 彼女はまたエンジンの支持架に触れ、目を閉じてやや上を向いた。排気の臭いを嗅いでいるようにゼウスには見えた。

 続いて機体から離れ、プロペラの真横に立って回転の様子を眺めた。

 パイロットの経験の長いゼウスは、そこが危険な位置であることを知っていた。彼女は数秒の間プロペラの回転面を真横から観察し、納得したように頷いて、横に移動した。息を止めて見ていたゼウスは、それでようやくほっとした。

 彼女は操縦席の方を向き、整備員とまた目を合わせると、左の拳を下に下げるハンドサインを出し、さらに手のひらを押し下げる動作でエンジンの停止を指示した。整備員はそれにすぐ従った。

 エンジンとプロペラの轟音がやみ、惰性で何回転かしてプロペラが止まった。静けさを取り戻した基地に、チリチリという金属の熱変形に伴う音が響いた。


「問題ありません。すぐ飛ばします。カウル組み付けちゃってください!」

 クイーンはそう指示を出し、格納庫の方へ歩いていった。もうP-51Bをどこかに運ぶらしい。ブリテン島のどこかであれば暗くなる前に着陸できるだろう。

 P-51Bの機首は整備員がとりつき、ほどなくカウルを組み付けた。元のようにしゅっとした機首のラインを取り戻した機体を眺めていると、クイーンが雑嚢と飛行帽を抱えて格納庫の方から歩いてきた。

「この機体は誰が運ぶのかな? お嬢さん」

 周囲にパイロットといえば自分とユングしかいないのを改めて確認し、ゼウスはクイーンの歩く前に立って聞いた。彼の部下にP-51Bの空輸を依頼された者はいない。基地の人員でないのは彼女だけだ。もう飛ばすならパイロットがいないとおかしい。

「え?」

 彼女は戸惑った顔でゼウスを見上げた。

「機体を運ぶ操縦士はどうした!?」

「あー、それですか」

 ちょうど歩みが止まり時間ができたとみて、赤毛の上に飛行帽をかぶりながら彼女は答えた。

「私ですよ?」

「君が?」

 ゼウスは驚いて聞き返した。

「他に余分なパイロットがいるんですか?」

「いや、確かにパイロットを出せと言われたらすぐは工面できないが…」

「こういう状況ですから、私はイギリス人の女性パイロットに相談しました。すぐに操縦を習えということになりました。ですから、この機体は私が飛ばして会社の整備拠点の基地まで運びます」

「本気なのか?!」

「本気です!」

 彼女は姿勢を正して答えた。

 ゼウスは脇にどいて彼女に道をゆずった。

 クイーンは機体を一周りして点検し、操縦席によじ登った。小さい体で難なく潜り込み、座席に座った。計器盤を一通りチェックし、やがてエンジンを始動した。

 咽頭マイクで管制塔と何かの通信をして、彼女は機体の左右に立つ整備員を交互に向いた。次に両手で合図をすると、整備員は翼の下に潜ってタイヤ止めを外した。翼の先で、両手にタイヤ止めを持つ整備員を認めると、手のひらを右と左の整備員に振って見せ、彼女は機体を発進させた。

 ゼウスは機体が無事に離陸するのかを訝しみつつ、その行方を追った。


 その時、頭の上を影がよぎったことに気がついた。滑走路となる草地の上を2機、2機と2組のP-51Dのペアが飛んでいった。

 7時間近い今日の爆撃機の護衛任務から戻ったところだった。

 クイーンの操るP-51Bは飛行場の端へと進み、機体を停止させた。

 4機の戦闘機は飛行場の先で左に旋回すると、旋回のタイミングで位置を調節し、1機ずつ縦に並び替え、やがて脚を降ろした。

 その頃にはまた2機、2機の2組4機のP-51が通過した。

 程なくして、最初の4機が1機ずつ着陸した。4機目が着陸する頃合いで、さらに2機が基地の上空を通過した。

 それ以後、基地に戻る機体はなかった。

 10機目の戦闘機が着陸するのを待ってから、クイーンの機体は滑走路に進み、草地を蹴って離陸した。そして視界から消えた。

 離陸の動作に全く危うさがなく、ゼウスはもはや何の感慨もなかった。


「今日の出撃は12機だったな?」

 彼の心は、もうメーカーの技術者が女でパイロットだったことなど、どうでもよかった。基地に戻ってきた機体の数と、朝出撃した数が合わないことの方がよほど重要だった。

 ゼウスは自分の記憶を確認するように、近くにいた機付きの軍曹に訪ねた。

「間違いありません。ホワイト、イエロー、ブルーの3個小隊、12機です」

「不具合で引き返した機体はないか?」

「ありません」

 真剣な顔で彼は答えた。

 ゼウスは血の気が引く思いで飛行場の方に向き直し、1機ずつジグザグに進みながら戻ってくるムスタングを見つめた。

 それから、彼の方を見ているユングの青白い顔に気がついた。

「2機……、戻らないんですか?」

「そうだ。とにかく確認が先だ。君のように大陸に不時着したのかもしれない」

「だといいんですが…」

 ゼウスと同じく血の気の引いた顔で、ユングは戻ってくるムスタングを見つめていた。

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