雪にナイフ
一
夢はあまり見ない性質だ。将来の、ではなく寝て見る方、の。ただ、夢というものは目覚めてからどんどん記憶から消えていくものらしいので、実際は見ていないのではなく覚えていないだけなのかもしれないが。いずれにせよ私は眠りから覚めて、夢を見たと実感することがあまりない。その理由はよく分からないが、逆に目が覚めてすぐ「夢を見たな」とはっきり分かる時は決まって、彼女が夢に現れているのだ。その度にまだ未練を断ち切れていない自分に嫌気が差して、夢見心地からガンと突き落とされたような気分に襲われる。ちょうど、今朝のように。
ぬるいシャワーがユニットバスを叩く音の向こうから、スマートフォンが今日も午前七時を高らかに知らせる声が聞こえた。毎日毎日こちらの事情もお構いなしに、自らに与えられた使命を律儀に務めてくれている。たまには休んでもいいんじゃないのと思う時もあるけれど、そういう時に限って布団から跳ね起きて寝癖頭のまま部屋を飛び出さないといけない羽目になるので、あえて毎日休まずにお勤めしてもらっている。
シャワー後に身体と壁や天井の水滴を拭い取って重たくなったバスタオルを、脱ぎ散らかしていた服と一緒に洗濯機に放り込んでタイマーをセットした。夕方帰宅予定の時間に洗濯が完了するよう、時間を合わせておく。どうせ部屋干しなので昼に干すのも夜に干すのも関係ない。
物干しにかけたままだったパンツとブラジャーを身に付けてから、着替えを探す。タンスの前にジーンズとパーカーが適当に畳まれて置いてあったのでそれを着ることにした。洗い過ぎて色あせたジーンズはダメージ加工しているわけでもないのに、右膝の部分が薄く破れていた。
ドライヤーで髪を乾かす間に、朝食用に買っている六枚切り食パン一枚に噛り付く。賞味期限を二日過ぎていたのでパサパサだった。冷凍しておけばしばらくは保つが、残り一枚だったのと解凍するのが面倒だったのでそのままにしておいたのだ。ジャムもバターも無いので味気ない。
念入りに歯をみがき、毛先・二の腕・胸元に鼻先を近付て昨夜の煙草の臭いが残っていないか確認する。シャワーを浴びた時も全身の表皮を削り落とすつもりで身体を洗った。昨夜の客がヘビースモーカーで、全身に煙草の臭いが染みついていたからだ。煙草の残り香を覆い隠すくらいの石鹸の匂いがかえって気分を悪くさせた。
ニタニタという音が聞こえてきそうな笑い方をする男だった。別の女の子の常連客だったが、たまたまその子が昨夜は急病で欠勤していたので、その代わりとして私に回ってきたのだった。筆下ろし目当ての童貞を相手にするよりは行為に慣れているのでその点では楽だったが、胸の内を見透かすような視線とか、訳知り顔な話し方が癇に障って仕方なかった。
「君は〝サービス〟してくれないのかい? チップならはずむよ?」
ブランド物に詳しくない私でも一目で分かるくらいに高級感を醸し出した革の長財布を弄りながらそう言ってきた時は一瞬カッと頭に血が上ったが、あえて店で一番安いコース通りに相手をした。反抗されるとは思っていなかったらしく、少し目を丸くして驚きの顔を見せた時は少し胸がスッとしたが、その後またすぐニタニタ笑いに戻った。ずっと煙草臭さを我慢するので精一杯だった。
一限目が始まる一時間近く前に大学に着いた。案の定、講義室に入るとまだ他に誰もいなかった。中央の後ろから二列目の席に腰を下ろし、テキストを開き二限目の英語の予習をする。本当なら昨夜帰宅してからするつもりだったが、ヘトヘトでそこまでの気力が残っていなかった。今日は小テストがあるというのに。
始業二十分前からぱらぱらと人が来始めた。十五分前になると廊下がにわかに騒がしくなる。駅からの直通バスに乗ってきた学生達だろう。続々と講義室にも人が入ってくる。その中に見知った顔があった。目が合うと、まっすぐこちらに近付いてきて隣の席に鞄をどかっと置いた。
「おはよう」「おはよう、早いね」「次の英語の準備をね」「ああ、そっちのクラスは小テストだったっけ」他愛ない会話を交わしながら、英文を書き写している私の横で彼女はテキストとノートを出すと、スマートフォンを何度か操作してから鞄にしまった。
彼女――
彼女は
彼女が人外病に関心を持つようになったきっかけは、過去に人外病患者と関わった事があるからなのだという。そして私もかつて、人外を理由にと世間から迫害されていた人と、関わりを持ったことがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます