第31話 そして始まりの言葉へ。

「おー……」


 月夜が口を丸くしている。

 昼間と同じ場所に、登未と月夜は肩を並べていた。


「何もないね」

「そら、そうだ」


 予測通り、見える景色に何もない。

 走る船もなければ、対岸にある物流倉庫や鉄工所の灯りが見える程度だ。

 こんな風景を見て面白みなどあるはずもなく、周囲には誰の姿もない。

 夏場ならいざしらず、まだ風も冷たい梅雨前のこの時期だ。

 居るのは、物好きな変わり者だけである。

 それは登未と、月夜の二人だけだ。


「でも、貸し切りだね」


 月夜は登未を見て微笑んだ。

 登未は目を丸くして、月夜を見る。

 物は言い様だ。

 ポジティブに捉える月夜の考えは好ましい。

 せっかくなので、貸し切りの海を眺めるのも一興だ。

 登未は手元の缶コーヒーを握って、静かに音を立てる海を眺める。


「昼は、あんなに暖かかったのにね」


 両手で缶コーヒーを包みながら、月夜がぽつりと呟く。

 潮風が冷気をはらんでいる。

 手の中だけとはいえ、温かさがありがたい。

 そう思うくらいに肌寒かった。


「途中でコンビニに寄ったから、何かと思ったら」

「この時期に温かい缶コーヒーなんて、自販機に置いてねえし」


 五月の終わりに、温かい飲み物を売る自販機は希少だ。

 登未は予め、飲み物を買っておいた。

 ちょっとしたカイロ代わりだ。

 月夜が持つ缶コーヒーは、盛大に甘い味のロングボトルだ。

 暖を取る月夜が缶を頬に当てた。

 缶が長く見えるなぁと登未が見ていると、月夜は笑った。


「ほんとう、登未くんは気が回るね」


 どうせこうなると思っていた。昨夜、月夜と過ごしたベランダも寒くて室内に逃げたのだ。

 海など遮蔽物もなく、風通しの良すぎる場所など寒いと考えるのは当然だ。


「ちょっと考えて動いただけでしょ」

「うん、そうですねー」


 大したことではないと登未は鼻を鳴らし、月夜はくすりと笑った。

 登未をからかうように肘で小突いてくる。

 それくらいに、近い距離だ。

 体温を感じる距離で、温かい。

 登未は喉を鳴らすように笑い、月夜も笑いを堪え切れていない。

 不思議な空間に思えた。

 それでいて、心地が良い。


 言葉を発しなくとも、この空気は変わらない気がした。

 だから登未は、口を閉じる。

 月夜も同じなのか、静かにし始めた。

 沈黙が重たくなく、それでいて小気味よい。

 二人で同じように飲み物で喉を潤す。

 そして、揃ってほうと息を吐き、海を眺めた。


(まあ、何もないけど)


 潮騒と呼ぶには小さすぎるが、それでも何もない空間では耳に届く。

 ただ静かな波の音を聞こうと、登未はただ耳を傾けた。


(落ち着くなぁ)


 何も考えなくて良い。

 何を話せばいいのかなど考えなくて良かった。

 それどころか、思考をしなくても良い。

 隣に座る月夜のことを考えずに、ただ座っているだけで満足できてしまう。

 考えることを忘れてしまうと、登未は不思議な穏やかさに包まれる。

 こうなれば、他のことすら考えたくなくなる。

 仕事や、自分の抱える問題。思い出したくない過去や、先の見えない未来。

 普段から、頭を駆け巡り止まらない、そんな雑念を忘れることができた。


(何もない、というのは悪くないもんだね)


 それは、はたして風景のことか、それとも自分のことか。

 後者なら、間違いなく良くないのだが、それでも今の時間は心地よい。

 もう少し、このままで居たいと思った。

 しかし、そうであれば気に掛かることがある。


「ほれ」

「わ」


 登未は上着を脱ぎ、月夜の上に載せる。

 二人の顔を撫でるのは夜風、ましてや潮風だ。座っていれば次第に冷えるだろう。


「被ってな。多少はマシだろ」


 新入社員に風邪を召されては困るし、体調を崩した状態で会社に来られても迷惑なだけだ。

 閉門までこの場に居るかは不明だが、少しでも暖を取っておくべきだろう。


「ん、と。ありがと」

「煙草臭いし、汗臭いのは勘弁な」


 洗濯はしているが、今日のあれこれで臭くなっているはずだ。申し訳なさはあったが、寒さに震えるよりは良いだろう。登未が苦笑を浮かべる前で、月夜は頭に乗った登未の上着に鼻を寄せた。


「そうでもないよ? 嫌いじゃないかな」

「……それは、どうかしてんぞ」


 せっかく良い香りを保っている髪に、登未の匂いが移ってしまう。それは勿体ないと、登未は自分が載せた上着をずらし、月夜の肩に掛ける。


「登未くんは、寒くないの?」

「別に、これくらい」


 肌寒さを多少は感じるが、我慢ができないほどではない。

 このまま長時間座っていたとしても、問題はないと思っていた。

 直ぐ脇から伝わる温もりだけで充分すぎる。


「……体温、高いんだな」

「そっかな? でも暖かいよ」


 肩に羽織った上着を寄せて、月夜は登未を見上げて微笑んだ。

 風邪を引きそうな様子はない。登未は漏らすように息を吐き、そして口の端を上げる。


「それは、ようござんした」


 目を逸らしたくなった。自分の感覚に従い、登未は海を眺める。

 普段なら、波の端が白く見えるだろうに、夜では波の変化もわからない。

 鉄工所の灯りを返す海を黙って見ていた。


「ほんと、静かだね」

「そりゃあ、日曜の夜だからな」


 平日の前の日の夜だ。

 休みを惜しみつつ、明日の仕事、あるいは学校に備えるのが普通だろう。


「……明日、もう仕事かあ」

「休みが、もうちょっと欲しいわな」

「ん。でもこの土日は楽しかったね」


 月夜がくすくすと笑い出した。登未も空を見上げて思い返す。

 確かに、普段とは違う休日だった。

 月夜と紅葉に誘われて飲み、なんやかんやと深い話を月夜と語り合い、泊まってしまった。

 続く今日は、朝からずっと月夜と共に過ごしている。

 なんとまあ、おかしな休日だろうか。

 誰かに話したとしても信じてもらえない土日だった。


「……なんだかな」

「うん。なんだかな、だね」


 月夜が再度笑い始めたので、登未は意趣返しでもしてみようと唇を歪める。


「あと12時間後には、満員電車だぞ」

「……そういう嫌なことを言わないでよ」

「どうせ、お前さんは楽しているだろうに」

「お陰さまで。明日も頑張ってね」

「へいへい」


 何故だろう。仕返しをされてしまった。

 明日も、満員電車の中で月夜を支えることになるようだ。

 唇をへの字に変えて、登未が黙り込むと、月夜もひとしきり笑った後、喋るのを止めた。


 どれくらい時間が経っただろう。


「…………ねえ、登未くん?」


 ぼんやりとした口調で、月夜が訊ねてきた。

 横目で月夜を確認するが、海を見たままだ。

 沈黙が続く。登未の返答を待っている様子はなかった。

 どこか、声をかけるのが憚られる。

 登未は沈黙し、そして視線を向けずに月夜の言葉を待った。


「……今日さ、実は、色々考えてたんだ」


 そんなことは知っている。

 歩いているときも、昼間海を眺めているときも、カラオケに入っても最初のうちも。

 月夜が何かを考えているのは、登未はわかっていた。

 そして何か観察するように登未を見ていたことを知っていた。

 どうやら、答えが聞けそうだ。


「……えっとね。わたし、悩んでたんだ」

「……悩んでいる、の間違いじゃ?」


 月夜が問題を抱えているのは、昨夜聞いた。すぐに解決することがない問題と理解している

 悩んだとして、すぐに解決などできない問題だったはずだ。


「ううん。悩んでいた、だよ」


 しかし月夜は首を振った。悩みについて決着したと言わんばかりだ。

 月夜が考えていたのは、異性への悩みではなく、違う何かのようだ。

 予測がつかない。登未は月夜に顔を向けた。

 ちょうど、月夜も登未へと顔を動かす途中だった。


「ね。確認したいんだけど」

「うん?」

「登未くんの抱える問題だけど」


 月夜の瞳が、登未を射貫く。

 誤魔化しや冗談の類は許さないと雄弁に語っている。

 月夜の強い眼差しに、そして問われた言葉に登未は身構えた。


「治したいって、思っている、の?」


 登未が抱える問題、それは女性に対しての感情だ。

 欲情しない。それどころか、相対していれば虚しさを覚える。

 昨夜、月夜と話した際には、諦めていると告げた。

 その気持ちに変わりはない。


「そう、だな……」


 手段がない。だから諦めている。

 しかし月夜に求められている言葉、そして登未が答える言葉は、きっと違う。

 手段の有無について、ではない。

 登未の意思はどちらにあるのか、と問われている。


「……治せるもんなら、治したいよ」


 空を見上げながら登未は呟く。

 彼女も欲しければ、結婚もしたい。

 昼間見た、無邪気にはしゃぐ子供のように、自分の子供がはしゃぐ姿が見たい。


「……だよね」


 月夜も呟いた。どこか気の抜けたような言葉だ。

 聞こえようによっては、安堵したようにも聞こえる。

 目だけを動かして、月夜を見れば、同じように空を見ていた。


「考えてたんだ。登未くんの問題、あとわたしの問題を解決する方法ってないのかなって」

「……あんのかね、そんな画期的な方法」


 あるとは思えない。充分検討し、精一杯自分なりの努力をした上での諦念だ。

 登未は嘆息しながら、顔を月夜に向けた。


「昨夜から、ずっと考えてたんだよ」


 月夜は登未を見て、笑っている。

 微笑んでいるのではない。どこか悪戯を思いついた子供のような笑みだ。

 表情の意味が掴めず、言葉を詰まらせる登未の前で、月夜は自分の顔を指さした。


「知ってる? わたし企画だよ?」


 登未の勤める部署は、企画だ。新製品の企画を立てることを主目的とする。

 従来製品の問題点や、市場要求から新しい製品の企画を立てる。

 それが本来の仕事だ。

 製品知識を有していないと勤まらない部署であり、それ故に問い合わせも多い。

 

「企画は、企画だけどよ……」


 しかし製品の問題と、自分たちが抱える問題は大きく異なる。

 部署が企画だからといって、問題の解決とは何ら関係がない。

 登未は否定の言葉を告げようとして、だが口を閉じる。


 月夜の目を見ては、否定の言葉が出なかった。

 夜であるのに、輝くような瞳だ。

 どんな妙案を思いついているのか、少々気にかかるほどだ。


「……じゃ、聞きましょうか。新米の企画ってのを」


 登未は苦笑を浮かべたつもりだった。

 実際はどんな表情を浮かべているのだろう。

 月夜から帰ってきた微笑みから、登未は自分がどんな顔をしているのか見たかった。

 鏡が欲しいが、そんなものは持ち歩いていない。

 月夜の瞳に、自分の顔が反射していないかと、ただ月夜を見つめる。



「うん……。じゃ、話す。……けど」


 月夜は咳払いを一つして、胸に右手を当てた。

 左手は登未の上着を掴んでいる。

 ぎゅっと握り、力が入っているように見えた。


「その前に、もう一つだけ、確認しても良い?」


 緊張した面持ちだ。

 今から月夜が話す内容は、これほど覚悟しなければ話せないのだろうか。

 とても大事な内容なのかもしれない。


「ああ、別に。なんでも聞きなよ」


 登未は頷き、そして安心させようと笑顔を向ける。

 気持ちは伝わったのだろう。

 月夜は表情を和らげた。

 だが代わりに少しだけ恥ずかしそうにして、月夜は言葉を紡ぐため口を開く。

 それは、始まりの言葉だ。

 月夜の考えた妙案のプレゼンテーションの始まりを告げる言葉であり、


 そしておそらく、登未と月夜の物語の始まりの言葉だ。


 だが、しかし、と登未は思う。

 後にこの日のことを思い返したとき、何度でも同じことを思うだろうと、確信する。


 なんて、酷い始まりの言葉なんだろうかと。


「登未くんの、その、お、……が不能なのって、なんでなの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る