第29話 腹の探り合い
扉の前に戻ってきた登未は、腕を駆使してグラスを持ったまま扉を開けて、中に入る。
月夜は座っていた。
ぼんやりと壁を見ていた。
「……もしかして、疲れた?」
登未は月夜の対面に座り、ドリンクバーの脇に置いてあったストローの包装袋を破り、中身をグラスに挿した。月夜の目の前にグラスを置きつつ表情を窺うと、やはり考え込んでいるような顔で、しかし登未を見ていた。
「……ううん。たしかにいっぱい歩いたけど、疲れてはないかな?」
「そっか」
月夜はグラスに手を伸ばし、片手でストローを摘まみながら飲み始めた。
登未も月夜に倣い、グラスに口をつける。
備え付けられたモニタとスピーカーからは宣伝が流れ続けていた。
どこか煩わしい。しかし曲を流して歌うような雰囲気にも思えなかった。
(……なんだかな)
居心地が悪い。気を紛らわせるためにも、煙草に火を付けたいと思い始めた。しかし、喫煙部屋であろうとも、こうも沈む者を前に煙を吸うのは、些か無遠慮が過ぎるように思い躊躇う。
登未はポケットの中に手を入れ、中の煙草の箱やライターを手の中で弄びながら、月夜に合わせてぼんやりしていた。
「……ね、登未くん」
モニタをぼんやりと見ていた月夜が、ぽつりと漏らした。
小さな声だったが、聞こえないわけではない。
月夜に顔を向け、言葉の続きを待った。
「あのさ」
「ん」
「隣に座ってもいいかな?」
「……いつも何も言わなくても座るんだし、ご自由に」
敢えて断りを入れてから座る方が珍しいと思った。
深く考え込んでいるので、何かとおもっていたが、拍子抜けだった。
登未は肩をすくめて、ソファーの端に身体を動かす。
月夜は帽子を脱ぎ、テーブルに置いて立ち上がった。
そして登未の左横に座る。
いつもと違い、距離が少し離れた位置だ。
本来なら、知人の関係では適切な距離である。
違和感を覚えてしまう辺り、変な慣れを起こしたなと登未は苦笑を浮かべた。
「……ん」
しばらく経って、月夜が腰を浮かせる。
距離を詰めてきた。
意図は何だろう?
顔色を窺うが、月夜の顔は真剣そのものだ。
胸に手を当て、慎重に何かを確認している。
何かとは何だろうか。
考えても登未には見当も付かない。
見守ることしかできない。
月夜は動いては止まり、そして動く。
腕一つ分の距離。
それが半分になった。
更に半分になり。
拳一つ分離れた程度の距離に月夜はいる。
確認作業のようだ。
本人しかわからないような、何かを確認している。
登未は声を出さずに、ただ月夜のしたいようにと、視線を外しぼんやりと壁を見る。
ポケットに手を入れたまま、呆けていると、聞き覚えのある宣伝が耳に聞こえてきた。
どうやら広告映像が一周したようだ。
(そろそろ、何らかの結論が出ただろうか)
登未は見飽きてきた壁から、月夜へと視線を動かす。
すぐに目が合った。月夜が登未を見上げていたからだ。
登未は言葉を詰まらせる。目が合ったことよりも、月夜の表情に意識が向かった。
(……何を驚いてんだろうな)
目を大きくして、登未を見上げていた。
どれくらい前から、驚いているのだろうか。目が合ったことへ動揺する素振りが見えない。
「…………なあ」
月夜の考えがわからなかった。無駄な時間を続けることを咎めればいいのか、歌わなくていいのかと確認すべきか。考えた結果、登未はこう言うことにした。
「煙草、吸ってもいいかな?」
「……あ、うん。いいよ」
「あんがと」
月夜は一度瞬いた後、頷いた。登未は煙草を咥えて、月夜の顔を見る。
やはり驚いている様子だった。胸に手を当てたまま、登未を見ている。
唇を動かし、煙草をぴょこぴょこ動かしてみた。
瞳が動いている。先端を追っているようだ。
何がしたいのかわからない。
「リアクションに困るんで、言いたいこととかあるなら、どうぞ」
「……、わたしも今、なにをどうしたら良いのかなって」
混乱に近い、驚きに身を投じているようだ。
月夜は困ったように眉尻を下げている。
登未はライターを取り出しながら、月夜から視線を外した。
「5分だ」
「え?」
何を延々と考えているかわからないが、考え込む月夜の事情を知らない登未が言えることは限られている。
「5分悩んで、答えがでない問題は、既に答えが出ているか」
ライターの蓋を開けて、フリントホイールを回す。
じっと音が鳴り、火が灯る。
「もしくは」
咥えた煙草の先端を火に近づけ、息を吸う。煙草に火が付き、オイルの臭いが微かに混じった煙の香りが口に広がる。一度肺に満たした煙を、天井に向けて一息に吐く。
「基本的には外因抜きに解決しねえよ」
月夜の検討が何かは、ついにわからないが、長い時間悩むことはない。
自分だけで解決する問題ならば、悩む時間は不要だ。
概ね、出た答えに納得できないだけで、心に落とし込むのに難儀しているだけだ。
さもなくば、自分1人で解決できない問題に直面しているかである。
後者ならば相談するべきで、相談を躊躇うならば解がでない。
どれほど重たい問題かによるが、何にせよ鬱ぎ込んで考えることは得策ではない。
「で、悩み続けて答えは出そう?」
月夜は首を横に振った。登未は月夜の頭を、ノックするように軽く小突く。
中身が入っているのかと問うような行動だ。月夜は頭を押さえて登未に視線を向ける。
「なら、1人で悩むのを諦めて。相談をする。または考えるのを止める、かだね」
「……もし、相談したらどうなるんだろ?」
月夜が登未を見上げて訊いてきた。真剣な眼差しだ。誤魔化しも冗談も求めていないのだろう。登未は息を鼻から漏らすように、そして口元を緩めた。
「さて。どうなるかは、相談内容によるんじゃないかな?」
問題がわからない以上、登未に言えることはそれだけだ。
しかし、どんな相談が来たとしても、全力で考える気はある。
登未は月夜の頭に手を載せた。
「できることなら、俺の思考の範囲内の悩みであってくれや。それなら解決策をいくつか提示しよう」
月夜の頭を撫でながら、登未は苦笑を浮かべた。
登未の手の動きに合わせて猫のように月夜は目を細めていた。
いや、犬のようにかもしれない。
柴犬が丸まった尻尾を弛めている、そんな気がした。
「……登未くんの思考を超えるのって、難しそうかも」
目を細めつつ、月夜は笑顔を登未に向けた。
人をなんだと思っているのだろう。何でもできる、何でもわかると勘違いしてそうだ。
登未は呆れたように鼻を鳴らすと、月夜の頭から手をずらし額へと動かす。
親指と小指が月夜のこめかみに当たる。驚くほど顔が小さいなぁと思い、力を込める。
「いたたたたたた!?」
「やあ、顔が小さいとアイアンクローが楽だ」
登未の握力は常人のそれだ。痛みは然程ないだろう。月夜は悲鳴を上げるが、抵抗は少ない。
犬がじゃれ合って甘噛みするようなものだ。
登未は唇を歪める。柴犬に喩えたついでに思い出した。
程良く研がれた牙に甘噛みされると、はっきり言って痛い。
痛みに反発する弱い手下か、平然と耐えることができる同等の存在か。
良好な関係を築けるかが決まる。
(ここで、そもそも噛み癖が生じないように躾けるなんて、つまらん選択はない)
幸いにも狼狽えているし、情けない声を挙げているが、月夜はきちんと耐えきった。
登未は月夜の額から手を離し、そして今度は額に指を突きつける。
「ところで、忘れてないか? 俺たちゃ歌いに来たんだぞ」
「……そう、だね」
「じゃあ、歌え歌え。答えの出ない問題に悩んで沈むなら、代わりに大声出せ」
「そう、だね」
登未は部屋に備えていたマイクを月夜に突きつける。
そしてデンモクを合わせて渡す。
「世間では、ストレス発散にカラオケが使われるらしいし」
「そんな言い方じゃ、登未くんはストレス発散してないみたいだよ?」
デンモクは二つある。登未も自分の歌う曲を選びながら、鼻で笑う。
「そりゃそうだ。こちとら、歌が下手なんだ。そもそも高音域がでない」
「ああ、最近の歌って高いよね」
「高いはとても、とても魅力的で、格好良くて、それでも無敵じゃない」
「良いこと言ってる気がするけど、何か違うかな?」
「別にいいじゃんな。オクターブ下で歌ったって」
「そうだそうだ」
「しゃくり? ビブラート? テンポにあってないビブラート効けば高得点ってなんだ」
「あ。それ、わかる。適当に揺らすと加点されるのって、もやもやする」
登未が愚痴るように文句を口にすると、月夜はくすくす笑いながら話を合わせてくる。
悩むことは、一旦止めたようだ。
すわ重たい相談が来るかと思ったが、問題を先送りにしたのか。
(それとも、答えが出ていたのかな?)
人間とは優秀だ。
認める認めないは別にして、直感は侮れない。
登未はカラオケの選曲画面から目を離し、月夜の顔を見る。
笑う月夜に、影は見えない。
(そうそう、そうじゃないとね)
可愛い人間に影は似合わない。憂いのある表情が似合うのは美人で、そして場所が限られる。
悩む姿よりは笑っている顔を見ている方が、保養としては有用だ。
より明るい顔を見てみたい。それならば、何をするべきか。
(熱唱系か、最近のポップスにそんな歌は無いなぁ。アニメ系かな)
かと言って、初手からアニメソングを歌う勇気はない。
月夜に素養がなければ、なんだその歌は、となってしまう。
社会的に抹消されかねない事態に発展する可能性もある。
出方を待つ。登未は月夜が入力を終えるのを待った。
「えと、じゃあ。先に歌うね」
「おう、来いやー」
月夜がおずおずとマイクを持って、登未を見ていた。
登未は画面を見ようか、歌っている姿を見ようかと悩んだ。
イントロが流れ始める。激しいギターとドラムに登未は目を丸くする。
勝手に描いていた月夜のイメージとは違い、ロック調の曲だった。
更に言えば、登未は判断に迷っていた。
(……うーん、どっちだ?)
月夜が選んだのは、アニメソングであり、かつJポップでもあった。
一昔前にリリースされた、名のあるバンドがアニメにタイアップした曲だった。
(……アニメも有名だったしなぁ。バンド自体も有名だし)
何にしても、上手い。登未の感覚で、上手だった。
音程は取れている。テンポも安定していた。
だが、キーは変えずに原曲のままだが、声域は異なっている。
オクターブが異なるのだろう。
伸びやかな声だが、声が揺れないのも特徴的だ。
(ああ、いいなぁ。フラットで)
登未は月夜の歌を聴きながら、登未はソファーに背中を預けた。
自分好みの歌い方だ。それに熱のこもった熱唱だ。聴いていて、心地よい。
歌の選曲を中断し、登未は歌声に集中することにした。
およそ4分弱。
曲が終わった。登未は万雷の拍手で月夜を称える。
「ブラボー、おお、ブラボー!」
「……えっと、リアクションにとっても困る」
月夜が照れながら、マイクを登未に差し出した。
次は登未の番らしい。
「続けてもらって、俺は一向にかまわないぞ」
「やだよ。なんで、1人で連続で歌うの?」
「そうか……」
「え、なんでしょんぼりするの? え? なんで?」
仕方なく登未は、曲を選ぶ。
結局、月夜が選んだのが、アニソンなのか、なんなのかわからなかった。
登未は悩んだ結果、月夜と同じくどっちでもある曲を選ぶ。
「……ゆ?」
月夜が小さく言葉を漏らしたのを登未は聞き逃さなかった。
登未は確信を一つ濃くした。
自分の歌はどうでもよくなってきた。無難に曲を終え、月夜の出方を見守る。
(……ほう、そう来たか)
今度は女性ボーカルだ。有名な人物だ。しかし、やはりアニメのオープニングだった。
登未と月夜は、腹の探り合いを二巡繰り返した。
曲が終わり、登未と月夜は向かい合う。
一言、言いたい。
月夜の顔に書いてあった。登未も己の顔にくっきりと同じ言葉が書いてあると自覚している。
「……、さて。もう、良いな?」
「うん。よくわかったよ」
不敵な笑みを向かい合わせて、頷く。
もう互いに素養は充分確認できた。
相手に知識があり引かないのならば、気にする必要はない。
「なんか意外だわ。アニメ、詳しいんだな」
「わたしは、後輩が色々教えてくれて、よく聴いたり」
「布教力がすさまじいな、その後輩。アニメ自体は見るの?」
「たまに、かな? オススメですって、DVDを持ってくるときは引きこもって見るよ。けっこう面白い」
「外歩けっての」
「散歩に付き合ってくれるなら、歩きましょー。てか登未くんが詳しいのこそ意外だよ」
「俺は、……あー、親友の所為かな」
登未の親友の仕事の関係上、詳しくなってしまった。
月夜は首を傾げているが、今は説明をする気はなかった。
登未は苦笑しながら、デンモクの操作を始める。
「じゃあ、恥など気にせず、本気で行こー」
登未は言い逃れのできないアニメのキャラソンを選曲した。
熱さには定評のある曲だ。
月夜の歓声が耳に楽しい。悩んでいた姿は欠片もない。
まだまだ時間は残されている。
(延長しそうだなぁ)
登未はカラオケを出るときには日が暮れていることを覚悟して、マイクを握った。
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