第14話 ありがとうと他人行儀

「そういや、何階なの?」

「13階ですよ」

「……停電起きたら、大変そうだなぁ」

「そうなんですよ。結構しんどいんですけど、仕方ないですよね」


 エレベータが到着し、3人で乗り込む。

 インジケータの前に月夜が、その横に紅葉が立った。

 登未は二人から少し離れて、荷物を持ち直す。

 程なくしてエレベータが停止した。

 内廊下を歩いて、数歩で月夜は止まった。


「ここが、わたしの部屋です」


 月夜が解錠して扉を開けた。

 すかさず紅葉は月夜の持つ紙袋を奪い、中へ入っていく。

 月夜は扉を開けたまま、登未を待っていた。


 登未は急ぎ玄関の中に入り、買い物袋を床に置き、ふうと息を吐く。

 思ったよりも重かった。

 だからと言って、へろへろでいるのは格好が付かない。

 平然を装っていると、扉が閉まる音が聞こえた。

 視線を向けると月夜が申し訳なさそうな顔を向けていた。


「その、重たかったですよね。ありが――」

「今度は持って帰れる範囲で買い物しなよ。あるいは呼ぶこと」


 謝られるほどの苦労はしていないのだ。労いの言葉はもっと疲れたときにこそ聞きたい。

 登未は月夜の謝罪の言葉を遮ると、敢えて小言風に告げた。

 そして荷物持ちくらいいつでも受け持つと言葉を続ける。


「えっと……、はい」


 だいたいの意図は伝えられた気がした。

 しかし登未の予想に反して、月夜はくすりと笑った。


「……なんだろうか」


 何が可笑しいところはあっただろうかと不思議そうに月夜を眺める。

 目で訊ねてみると、月夜は微笑んだまま口を開いた。


「いえ、なんか」

「なんか?」

「宇田津さんって、『ありがとう』も『ごめんなさい』も言わせてくれないなぁって」

「そう、だっけか?」


 思いもよらない感想だった。

 目を丸くしながら、月夜の言葉に自分の行動を顧みる。

 月夜と会話をし始めたときから、謝礼の類は言葉を遮ったり、違う話題を振ったりしていた。

 なるほど、ほとんど言わせていない。


「あー……。そうかも、しれないな」


 思い出した結果を口にすると、月夜は口元を押さえながら、くすくすと笑った。なんともばつが悪い。居心地の悪さからか後頭部がむず痒くなる。


「でも、不思議です。『ごめんなさい』を言うより『ありがとう』って言いなさい――はよく聞きますけど、『ありがとう』もダメなのはなんでですか?」


 月夜は首を傾げた。

 痒さが耐えられなく頭を掻きながら、登未は月夜を見た。

 月夜の瞳に疑問符が浮かんでいる。

 明確な回答を求めている気がした。


(なんだかな)


 登未は深く息を吐いて、月夜から目を逸らしながら口を開いた。


「……嫌いでさ。お礼を言われるの」


 何かをして、ありがとう、と言う。それ自体は良い。

 感謝の気持ちは大事だ。


「嫌い、なんですか?」

「礼を言うとさ、なんか他人行儀な雰囲気が出るというか何というか」


 ただ大層なこともしていないのに、礼を言われてみるとわかる。

 どこか、よそよそしさを感じてしまう。

 突き放された気分になる、登未はそう思っていた。


「だいたいお決まりの言葉になるからさ。ありがと、いいえどういたしましてって」


 ただ息を吸って吐くように感謝を口にされると、軽い言葉に思えてしまう。

 感謝を受ける側も、する側も定型句のように言葉を交わす。

 それは、空虚な関係に思えた。

 少なくとも登未はそう感じてしまった。


 感謝される言葉は、相手のために頑張ったときに、労いの籠もった言葉を言われたい。

 ただ反射的に出るような言葉ではなく、心のこもった言葉が欲しい。


――そんな言葉を、一度くらいは聞いてみたい。

 そうすれば、きっとそれだけで報われると登未は思っていた。


 しかし、そのような寂しいことを言えば、変な男と思われる。

 登未は口元を緩めると、月夜に笑みを向けた。


「まあ、なんだよね。努力に対する正当な報酬的な言葉が欲しいかな」


 感謝されるほどのことをしてないのなら、言われるべきではない。

 謝罪されるほどのことをされてないのなら、言われたくもない。


「努力の、報酬ですか」


 月夜は登未の言葉を口中で繰り返していた。

 奇人変人を目の当たりにした態度ではないので安堵するが、名言的に思われるのは御免だった。

 後頭部の痒さが更に増してしまう。


「そうそう。報酬があるなら、頑張った努力も報われるでしょ」


 冗談めいて登未は口にした。

 きっと月夜なら、こう言うはずだと予測して。


『報酬のために努力するなんて、ちょっと違いますよー』


 そして時と場合に応じ、会話を違うところに運ぶつもりでいた。

 冗談とは、都合の悪い会話を流し去るためにあるようなものだ。

 しかし、登未の思惑は外れる。


「……努力なんて誰も気づかないと思います」


 登未は片眉を上げた。

 ほんの少し月夜は顔を伏せていた。様子が何かおかしい。

 何か、触れるべきでない場所に触れてしまった、そんな気配がした。


「努力だけじゃないです。辛かったり、苦しかったりしても、気づかないですよ」

「そりゃあ、ね」


 頑張っていようとも見えなければ誰も気づかない。

 逆に、辛くもない、苦しくもない、努力もしていない、それなのにアピールしたら労われる。


 例えば、激しいタイプ音で忙しいをアピールする。

 例えば、聞こえよがしに大きな溜息を吐く。

 例えば、声高に寝てないことを告げる。

 労いを言われたがっていることが、傍目にもわかる。

 見てて不快な行動だ。

 だから辞めさせるために、労いの言葉を投げる。

 心が決して込められていない、軽薄な労いをだ。


(そんなことを言われたいわけでもあるまいし}


 登未は、頭をがしがしと掻いた後、月夜の頭を見る。

 伏せたまま話しているので、表情は見えないが碌な表情でない筈だ。

 月夜の抱える問題が何か、そこはわからない。

 だが、傷ついているのは理解できる。


「ほれ」


 登未は月夜の両頬を持つと、顔を持ち上げる。

 とりあえず顔は、目的もなく下げるべきではない。

 強制的に顔を上げさせて、月夜の顔を至近距離から見る。


「気づける人は、気づくもんだ」


 きっと月夜は、何らかの辛さを抱えているのだろう。

 それが何かは、まだわからない。

 ヒントが少なすぎる。 

 欲しがっている言葉が、あるいは行動がわからない。

 だから、今は関係のない言葉で気を紛らわせようと思った。


「隠してても、隠しきれないんだし」

「……よくわからないです」

「俺は、わかるぞ」

「…………え?」

「なあ、なんだ、このほっぺたは。化粧水何使ってんだ」


 実のところ、登未は動揺していた。

 掌が、月夜の頬に吸い付くようだった。

 きめ細やかな肌触りに、弾力だ。

 間違いなく、顔を洗えば水を弾く筈だ。


「け、化粧水ですか?」

「スキンケア、マジで何してんの? すげえ」


 思わず夢中になって、頬を撫で回したくなった。

 掌が幸せだ。余計な肉などないのに、柔らかい。

 これが高みに座する女子の肌なのかと戦慄する。


「あ、あの。そんな、ふにふに動かさ、ないで」


 激しく撫で回しはしなくとも、登未の手は抑えきれなかった。

 指先でやわやわと感触を楽しんでいると、月夜の頬が熱くなってきた。

 どうやら恥ずかしいらしい。

 登未も充分堪能したので、月夜の頬を解放した。

 

「ありがとう」

「あの、感謝の言葉は、大事なところで使うんじゃ?」

「大事なところだ。心から感謝を贈りたい。気持ちよかった」

「……いいえ、どういたしまして」


 月夜はむすっとした表情で、登未に答える。

 登未が定型文だと称した言い方で返してきた。

 気づいたときに、登未は思わず吹き出してしまった。

 月夜も唇が歪み、そして明確に笑みの形へと変わった。

 静かに、しかし向かい合って、笑いを交わす。


(少し強引かな、と思ったけど)


 登未は月夜の顔を見ながら、肩の力を抜く。

 伏せていた顔は上がった。

 表情も明るい。

 せっかくの美人なのだ。雲を宿していては勿体ない。

 荷物も運んだ。月夜の機嫌も治った。

 お暇する頃合いだろう。登未は月夜に帰ることを告げようと口を開こうとした。


「…………へえ」


 しかし、聞こえた声に身体を硬直させた。

 登未だけではない、月夜も身体をびくりと震わせる。


「もしかして、お邪魔ですかね?」


 声の主に視線を向ける。

 紅葉だ。

 廊下から顔を覗かせて、会話を聞いていたようだ。


「……、なんでしょう?」

「いえ。あたしもお礼言わなきゃなって思って来たんですけど」

「そうですか。結構です」


 登未はきっぱりと断る。

 話を聞いていたなら、登未が礼を求めていないことは理解しているだろう。

 しかし紅葉は口角を上げたまま、登未に近づいてきた。

 反対に月夜はスススと登未から離れていった。

 横目で卑怯者と批難したくなったが、目の前の敵に注意を払わなければならない。


「荷物運んでもらって、ありがとうございました」


 何を思ったのか、紅葉は笑顔で礼を口にした。

 敢えて言ってくるあたり、良い性格だ。

 もしかしたら、登未たちの会話は後半しか聞いていなかったのだろうか。


(……いや、違うな)


 紅葉の顔からは悪戯めいたものしか感知できない。

 何かを仕掛けてくる。

 心が警笛を吹き鳴らしていた。

 充分に警戒したまま、登未は口を開く。


「……いいえ、どういたしまして」

「わあ、定型文ですね。気のない感じですね」


 確定した。おおよその話を聞いていたようだ。

 ならば、何を言ってくるか。

 怪訝な瞳を登未は紅葉に向ける。

 紅葉も登未を見ていた。どこか観察しているようにも見える。

 さて、このまま会話を続けることが危険に思えてきた。


「ところで、宇田津さん。今日って、この後のご用事は、どうなってますか?」

「…………はあ。とりあえず風呂に入りますが」


 予定を聞かれた。

 この後に続く会話の予測をおおよそ建てたが、逃げきることは可能だろうか。

 表情を笑顔に固定したまま、思考を巡らせた。

 対する紅葉も笑顔だが、目の奥は笑っていない。

 何かを企んでいる。そして何を企てているかは察していた。


「お暇でしたら、一緒に飲みませんか?」


 来た。

 予測通りだ。

 おそらく月夜から登未の話を聞いていたから、興味を持った。

 そんなところだろうか。

 正直なところ、何を聞いたのかが不安だった。

 遠回しにでも聞いておきたいが、少なくとも準備をしてから望みたい。

 登未は断る理由を探し出しては、口にしていく。


「いや、せっかくの友人同士の飲みなんですから」

「いえいえ、会社での月夜のことも聞きたいので、是非」

「ほら。さっきのライブの話も聞きたいですし。なんで山梨まで行ったのか、気にしたまま過ごせって言うんですか?」

「……何なら、立ち話で簡単に説明しますけど?」


 しかし紅葉は止まらない。

 言葉の応酬で登未は気づいた。

 物怖じしない性格というのもあるだろう。


「じゃあ、こんなのはどうですか? こんなに大量のお酒、あたしたちだけじゃ処理できないんで、助けていただけると」


 しかし紅葉の言葉は、登未の性格も読んでいるようだ。


 押しに弱い。

 あるいは頼めば断らない。


 よほど不利益を被ること以外は、押せば通る。

 荷物を持つのを、頼まれるまで待てば良かったかと登未は後悔するが、既に遅い。

 紅葉は登未が受け入れやすい理由を提示しているだけに思えてきた。

 頭を抱えたくなる。あまり手は残されていない。


「あー……。ほら、家主の許可がいるじゃないですか」


 一縷の望みを掛けて、登未は月夜を見る。

 しかし外堀は既に埋まっていた。そう実感した。

 月夜は何も言葉を発していない。


(無言なのに、煩せえ)


 楽しそうな瞳だった。期待か、嬉しいか、何にしても喜色に満ちている。

 瞳で雄弁に語る月夜の癖をどうにかしないと、今後も私生活に響きそうだ。

 登未はそう嘆息した。

 相手が無言で意思を伝えてくるならばと、登未も視線で抗議を始める。

 抗議が伝わったのか、月夜はひるみ始めた。


「なんだろうか、後輩」

「えーっと、一緒に飲みたいなって思うんですけど」


 強く月夜を見ると、とうとう月夜は目を逸らした。

 また気弱モードに入るのだろうかと見ていると、そうではなかった。

 月夜は唇を尖らせて、ちらりと登未を見る。


「いえ、気分が乗らないなら、別に良いんですけど」


 押してダメなら引いてみろ。

 まさか実践してくる奴がいるとは思わなかった。

 見事なまでのしょんぼり具合に頬を引き攣らせる。

 登未は月夜から紅葉に視線を移動させた。

 抗議をしようと思っていた。


「あー、これ。割と本心で思ってるパターンです」

「……マジかよ。すげえな」


 拗ね月夜と言うべき状態を見て、紅葉は肩をすくめていた。

 珍しい行為ではないようだ。

 無茶苦茶だ。

 これで断れるほどの勇気を登未は持ち合わせていない。

 

「……、着替えてからでいいだろうか」


 遠回しに敗北を認める。

 できることは時間稼ぎだ。

 月夜の部屋に汗臭いまま入ることは、矜恃にかけて避けたい。


「あ。じゃあ、一時間後で、どうでしょう?」


 月夜は両手を合わせて、提案をしてきた。

 登未としては始めていても構わなかった。

 わざわざ一時間も開ける理由がわからない。


「いいけど、何するの?」

「わたしたちもお風呂入ろっかなって」


 ああ、そうか。

 こいつは風呂上がりの完全ノーメイクを男に晒してもいいのか。

 末恐ろしいと思いつつ、登未は首を項垂れた。


◆◇◆


――楽な格好で来てくださいね。


 月夜と紅葉に送り出されて、登未は自分の家に戻ってきた。

 疲れた。

 その一言に尽きる。登未は椅子に座り、深く溜息を吐く。


「……一時間か」


 風呂に入って、着替えるだけでも時間が余る。

 登未は何をして時間を潰そうかと考え、とりあえず何かを飲もうと思った。


「……そういや、腹が減ったな」


 お湯を沸かそうとケトルに水を入れて、空腹に気づいた。

 これから酒を入れるのであれば、胃に何かを入れておいた方が良い。

 しかし、ふと考える。


(あいつらは、何か食べているんだろうか)


 月夜たちは夕食を終えているのだろうか。

 買い物袋の中身を思い出しても、食料の類はいくつもあった。

 買う量を間違えていたと仮定しても、たぶん食事は取っていないと予測できた。


「……あー」


 呻いた上で、登未は冷蔵庫に足を向けた。

 一人暮らし用の冷蔵庫なので、内容量は少ない。

 だが独身男の一人暮らしの冷蔵庫とは言え、食材は入っている。


 いつも登未は会社が休みの日には、少しだけ手の込んだ料理をしていた。

 昨日の会社帰りに、いくつか買い物を終わらせている。


「一時間なら。ぼちぼちかな」


 そもそも深夜に摂取するカロリーを月夜は気にするのだ。

 少し考えてあげても良い。

 シャワーを浴びる前に、下ごしらえでもしようと、登未は食材を手に取り、台所へ向かった。

 

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