序章 ~13~

「『裂け、追尾ついびせよ』」

 短い詠唱えいしょうのあと、メスを右手、左手、と勢いをつけて投げつける。

 16本のメスが空中を鋭い勢いで飛ぶ。投げつけた勢いだけではない速度だ!

 暗闇の中、月光さえもないこの曇り空の中で、宙を飛ぶ人物はメスを別の何かを投げつけて叩き落とす。だが折れたメス以外は空中で動きを変えて、襲撃者を再び狙った。

「殿下! もたねぇって!」

「わかっておる。時間稼ぎとしては充分だ」

 薄く笑うシャルルの足元には魔法陣ができている。彼に似合う鮮やかな鮮やかな赤色の魔法陣が徐々に地面へと広がり、輪をつらねていく。

「『炎尾えんびよ、焼き払え』」

 シャルルの命じた言葉に従うように、魔法陣からどっ、と炎が飛び出して巨大な狐のような姿になる。そして大きく口を開けて襲撃者を食らい尽くそうとした。

 襲撃者は再び武器を構える。

(食べられちゃう!)

 思わず身をちぢこまらせる亜子の目の前で、襲撃者は器用に跳躍ちょうやくし、方向転換をして攻撃を避けた。だがメスがその身体からだに突き刺さる。

 襲撃者は慌ててメスを振り払い、地面に着地して軽やかに逃げていった。

 呆然としていると、マーテットが頭ががしがしときながら「あーあ」とぼやいた。

「逃げられちゃったっすねー、殿下」

「惜しいな」

「いや、惜しいけどぉ……殿下、ここが下町だって忘れてません?」

「む?」

 眉をひそめるシャルルは周囲を見遣り、ああそうかと納得した。

「目立つ行為はひかえるべきだったな」

「……遅いっスけどねぇ」

「良い良い。アガットが無事だったのだ。それでよかろうよ」

「……そういう問題でもねぇけど……ま、いっか。オッスの旦那にあと任せよ」

 どうでもいいやという感じでマーテットは言い放つ。

 シャルルはばさりとローブをひるがえし、亜子のほうを見てくる。フードに隠れている美貌が見えるたびにどきどきしてしまうのは、彼が綺麗すぎるからだろう。

 王子様がこんなところに居ていいはずがない。彼は何をしに来たのだろう?

「無事だな、アガット」

「は、はい」

 思わずうなずく。

 そもそもなぜ、自分がここに居ることがわかったのだろう?

 そっと二人を見る。

 シャルルは腕組みしてこちらを見下ろしていて、手を貸す気はないようだ。それもそうだ。彼は「王子様」なのだ。

 自力で立ち上がった亜子は、襲撃者が逃げた夜道を睨みつけるように凝視ぎょうししていた。

「しっかし、初日から狙われるって……アト、どっかで目ぇつけられたのか?」

「目をつけられるって……覚えがありません」

 嘘だ。あの青年には自分がトリッパーだと見破られたのだ。

(気づかなかった……。あたし、もっと用心深くならなくちゃ……)

 しかし亜子の言った言葉を信じたのかマーテットはうなずく。

「まあそうだよなぁ……。てことは、情報がれてたのかな」

 マーテットが首をひねった。

「アスラーダ、それは大問題だろう」

「うわっ、殿下がおれっちを怒るのは筋違いっしょ!」

「で、殿下。あたしは大丈夫でしたし……今後は気をつけますから」

 慌てて二人の間に入り、仲裁をする亜子に、シャルルは不機嫌丸出しの顔をした。美形がこういう顔をするのはかなり怖い。

「…………………………」

 長い沈黙をしたままこちらを凝視ぎょうしされて、亜子は居心地が悪くなる。

 どうしようとマーテットに視線をるが、彼は彼でなにか考えているようで上の空だ。

 ……亜子は今起きたばかりの出来事を思い出して、ゾッと冷汗が出た。

(一歩間違えば……あたし、どうなってたんだろう)

 殿下やマーテットさんが来なければ?

 トリッパーを捕まえ、拷問して知識を吐き出させるという傭兵集団がいる、という言葉が頭の中を反芻はんすうする。そんな恐ろしいものに捕まるわけにはいかない。

 今回は『偶然』助かった。だが次回もそういくとは思わないほうがいい。運任せなどありはしないと亜子は知っていた。そう、どんなに努力しても、結果に繋がらないことを知っ――――。

(?)

 まただ。記憶が混雑する。

 よせ、妙なことを考えるのは。今は目の前の問題を片付けなければならない。

「ここにはもういられねーな。居場所がバレてんじゃ、襲ってくださいっていってるようなもんだし」

「同意だ」

 シャルルもマーテットにうなずいた。亜子は二人の遣り取りを聞いて、どうするべきか悩む。

 ここに居ても、たぶん大丈夫だろう。たった6日だ。それだけしのげば、自分は自由になれる。地学者となって、どこへでも行ける。

(大勢で来られたらだけど……でも)

 こうして耳を澄ませば遠くの音も聞こえる。食事を続けている人々の息遣いや笑い声も。

 でも不安は、ぬぐいきれない。

 死ぬかと思ったのだ。その恐怖がまだ、亜子に躊躇ためらわせる。

 今後、何度かこういう目にうことだってあるだろう。そう予測はできるのに、いつも誰かが助けてくれると期待してしまう?

 期待? いや。ちがう。

(そう、あたしは知ってる)

 期待なんてできない。自分の力しか当てにならない時だってある。

 こぶしを握り締めた。

 努力したぶんだけ結果がかえってくるとは限らない。だけど、やるしかないのだ。

 耳鳴りのように、誰かの声がした。ドアを開ける音。そして食器の音。返事をする声。それに対して当たり前のように返す声。

「っ!」

 耳をふさいで亜子はその場にうずくまった。

 どうしてだろう……。どうして自分はこんな目にっているのだろう? なにも自分じゃなくてもいいじゃないか。

 涙がこぼれ、嗚咽おえつのどを通って出てくる。

 その肩を強く叩かれた。

「アガット、みっともないぞ!」

 言葉の暴力を受けたように亜子が硬直し、恐怖にゆがんだ目でシャルルを見た。だが彼は毅然きぜんとした態度を崩さない。

「泣くほど怖かったのなら、言葉にしろ! 黙って震えていても、誰も助けてはくれん!」

「……え」

 まばたきをすると、また涙が一筋流れた。それを乱暴にぬぐうシャルル。

「……やめてください、殿下」

 小さくそれだけ言って、亜子はうつむく。

「あたしは……あたしは、頑張ったって、だめなんです。だめだったんです。あんなに頑張ったのに、ダメだったんです……」

 ぽろぽろとこぼれ落ちていく涙に亜子は困惑する。自分がなぜこんなことを言っているのかわからない。

「またあたしに強要するんですか……頑張れって。やれって!」

 怒鳴るように言い放ち、亜子は顔をあげた。シャルルは小さく笑っている。

「? なんでわらって……?」

「怒鳴れるくらいなら、まだ立てるな?」

「は?」

「立て」

 命令され、のろのろと亜子は立ち上がった。彼は満足そうに頷く。

「アスラーダ、アガット自身に選択させる。よいな?」

「……それ、すっげー難しいこと言ってるってわかってます?」

「わかっておる」

 尊大なシャルルは亜子をまっすぐに見てきた。

「期間は短くなるが、試用期間ということでどうだ? 余の侍従じじゅうになるか?」

「おれっちの助手になるって手もあるぜ?」

「それとも、ここで一人で頑張ってみるか?」

 亜子は目を見開き、二人を凝視ぎょうしする。差し出された手はあまりにも誘惑に満ちて、そして波乱もふくんでいた。

 どの道もきっと険しい。だが……亜子は決意して口を開いた。

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