序章 ~10~
「違いません。月に行ったり、宇宙ロケットとは違うんですけど、衛星と呼ばれる無人の機械を打ち上げて、星を観察するんです。
あ、でも……あたしの世界に、宇宙に行かなくても地球が丸いって証明した人はいます。名前は……」
勉強したはずなのに、出てこない。悔しそうに唇を噛み締めて、亜子は搾り出すように言う。
「すみません……思い出せません。でも、いました。えっと……星の動きで……それを……それを、証明した人がいたんです」
どうしてだろう。受験勉強のためにあれこれと憶えたはずなのに、ほとんど思い出せない。断片的な記憶だけが脳裏を
「あたしは……日本という小さな島国で育ちました。両親と……えっと、……」
記憶喪失者がよく映画などで演じるような、痛みを訴える警告などはない。ただ「そこ」だけがすっぽりと抜け落ちているのだ。
「家族構成は、あんまり思い出せません。両親は確かにいました。あたしは、17歳なので高校に通っていました」
「余と同じ年齢か」
「えっ」
シャルルのほうを慌てて見る。
(殿下とあたしが同い年……?)
信じられない。同じ年齢でも、彼のほうが落ち着いているし……こんなに綺麗だ。……ずるい。不平等すぎる。
「コウコウっていうのは、魔法院みたいなものなんだろー?」
「え? えっと、あたしはマホウインっていうのがよくわからないから……」
マーテットに苦笑で応じると、彼はにんまりと笑った。
「魔法院ってのは、そのままだ。ま、魔術とか、医術とか、魔術関連のことを習う場所だな」
「ああ、じゃあ魔術の学校ですね」
元の世界で見た……タイトルの思い出せない映画を思い出す。
魔法の学校で、様々な魔法を学ぶ生徒の映画を観た記憶はあるが……内容はほとんど思い出せない。
「医術が魔術の関連なんですか?」
素朴な疑問を口にした亜子に、マーテットは目を丸くする。この人のこんな表情は珍しい。
(こんな表情もするんだ……)
「そりゃそうだろ。魔術なしじゃ、医術の発展はしねぇよ」
「?」
亜子の世界では医術というのは、生物に関するもので……べつに魔術などなくても薬や、対応を知っていればなんとかなることもできた分野だったはずだ。
「薬とか、手術とかを魔術でするんですか?」
「へ?」
きょとんとしたマーテットは、亜子をじろじろ見てくる。あまりにも無知だと思われたのかもしれないが、わからないことを訊くのは仕方ないことだと思う。多少……恥ずかしいが。
「薬は薬草を使う。でもこれはあくまで魔術の補助のため。シュジュツってのはなんだ? 解剖の類似言葉か?」
「解剖と似てますけど……手術は、たとえば……
「……そ、そんなので治るの? 異界の人間は」
「え? こちらでは違うんですか?」
「違うな」
即答したのはシャルルだ。
「不知の病ならともかく、大抵の病には魔術が効く。怪我も同様だ」
信じられない言葉にぽかんとした亜子が、眉根を寄せる。病気が魔術で治る? そんなこと……いくらなんでも無理なのでは?
(でも、あたしは『魔術』に詳しくない。この人たちが言うなら、そうなのかも)
「コウコウ、というのはどういうところだ?」
「勉強と、共同生活を学ぶところです。あと、一般的な教養も、かな……。年齢で入る学校も変わってきます。だいたい15歳か16歳の人から高校に入ります。あたしは高校三年生でした」
でした、と過去形で言うことに亜子は少しためらう。
まるで元の世界に戻れないような、決定的ななにかを言ってしまったような気分になったからだ。
苦いものが口の中に広がるような錯覚……。亜子は気分が悪くなって顔色が徐々に青ざめていく。
「顔色わりぃな」
マーテットが亜子の顎を掴んで顔を覗き込んでくる。
よく見ればマーテットの顔立ちは悪くない。近距離でそのことに気づいた亜子は目を見開き、彼から距離をとった。
「だっ、大丈夫です」
「そうかー?」
「朝から何も食べていないせいではないのか?」
シャルルに指摘されて、亜子はそのことを思い出した。空腹を知らせる音が小さく響き、恥ずかしさに消えたくなる。
マーテットとシャルルはごそごそと白衣のポケットと懐を探していたが、同時になにかを掴んで差し出してきた。
「ほれ、飴玉」
「焼き菓子だ」
マーテットは紙包みにくるまれたもの。シャルルは紙袋に入った、なんだか硬そうな菓子を出してくれた。
受け取った亜子が奇妙に見ていると、マーテットが説明してくる。
「おれっちのは、あとでいいと思うぞ。腹が膨れるのは殿下のくれたクレバの菓子のほうだろうしなー」
「クレバの菓子?」
「あ、そっか知らねえか。有名な菓子店なんだぜー。硬いけど、携帯食に向いてるし美味いしな」
そうなの? という表情をシャルルに向けると、彼は無表情でいた。そういえばなんだか彼は今日、あまり笑っていない。というか……表情に変化がない。
亜子はシャルルからもらった菓子を一つ摘み、持ち上げた。丸い菓子は丸薬のようにも見える。思い切って口に入れると甘みが広がり、口の中で徐々にとけていく。不思議な感触だった。
「お、おいひい」
もごもごと口を動かして感動を言葉にすると、マーテットが「だろー?」と喜んだ。しかしシャルルは「そうか」と小さく言っただけだ。
クレバの菓子は確かに噛むと硬い。ゆっくりと舌の上でとかすように食べるもののようだ。
「殿下」
いきなりの声に、菓子に夢中になっていた亜子はびっくりした。いつの間にかメイドが近づいてきていたのだ。
彼女は
「そろそろ昼食のお時間になります」
「ではこの二人も同席させよ」
えっ、とメイドの娘はこちらを見た。マーテットは興味がないような眼差しをしているし、亜子は明らかに異邦人丸出しの外見だ。どうすればいいのかと判断に困っているのだろう。
「たかが食事だ」
「しかし……アスラーダ様は良いとしても、そちらの方は……」
「貴族ではないから無理と言うか。余の命令が聞けぬと?」
脅すような口調になるシャルルは明らかに不機嫌だ。困惑する亜子が立ち上がる。
「いえ、あの、殿下、お気遣いはありがたいですけど……あたし、帰ります。お話はまた今度で」
これ以上いると、この気まずい空気に耐え切れなくなる。なんだろう、心の奥がざわつく。
白い雪。白い掲示板に埋め尽くされた数字の群れ。けれどそこに目的のものは…………。
「なら、おれっちもかーえろ。アト、宿まで送るぜ?」
明るく笑うマーテットはそれでもなにかを狙っているような笑みを隠そうとはしない。純粋に亜子に興味があるのだろう。
シャルルはこちらを観察するように見ていたが、仕方なさそうに目を細めた。
「では後日。アスラーダ、おまえはアガットを送ったあと、ここに戻れ」
「……あ、あの……殿下、おれっち研究があってですね?」
「そんなものは知らん」
(知らんって……殿下、なにげにひどい)
亜子はマーテットと一緒にあずま屋をあとにする。
用意されていた馬車に乗り込むと、向かい側の席にマーテットが座った。
「いやぁ~……シャルル殿下ってあんまり人前に出てこない人なのに……ああいう人だったんだなー」
「え? そうなんですか?」
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