あおいそら

結城 佐和

一章

プロローグ

「On your mark――set」

 その言葉は魔法の様だった。

 それまで騒々しかった競技場が一気に静寂に包まれる。

 少女の目に映る百メートル先の選手たちの姿は、スターティングブロックに足を合わせ、腰を浮かした体を両手で支えている。八人の選手は誰もぶれることなく体勢を保ったまま、耳に全神経を集中させ、スタートの合図を待っている。

静寂の海から押し寄せる緊張感の波に飲まれ、父の手を握る左手に汗が滲む。手が蒸れて汗が出たのか、汗で手が蒸れているのかは少女にとってはどうでもよく、ただ目の前の光景に集中していた。正面から吹く風は穏やかで、少女の綺麗に伸ばされた黒髪が靡く。

唾を飲み込む音にすら気を遣う。少女は嘗てないほどの緊張感と、高揚感を感じていた。少女自身、何に対して気持ちが昂っているのかはっきりと分からないが、たぶん周囲の緊張感が会場から放たれる熱気とともに伝播したのだろう。

この空間に存在する緊張感の風船は、間が開けば開くほど膨らんでいく。その感情は今にも破裂しそうなくらい膨らんでいき……。


 ―――― バン!


 号砲と共に爆ぜた。静寂からの喧騒。その号砲もまた魔法の様だった。四方から飛び交う声援を糧に、選手たちはスターティングブロックの反発を思う存分利用し、スタートを切る。前傾姿勢でスタートした選手たちは、スピードに乗るとともに体を起こし、風に乗って加速していく。中盤に差し掛かるところで均衡が崩れ、第四レーンの選手が一歩リードする。他の選手も追い越そうと加速していくのだが、第四レーンの選手の加速に追いつけない。観客の声援がより一層大きくなる。しかし少女はというと、息を飲み、選手たち、特に第四レーンの選手に熱い眼差しを向けていた。

第四レーンの選手は、黄緑色のユニフォームから生える長い腕を大きく振り、青色のスパッツから生える長い足を回転させ、赤土色のトラックを駆けて行く。

 その姿は、鬣を靡かせ、野原を駆け巡る馬のように優雅だった。一見、派手と感じる黄緑色のユニフォームは、選手にはとても似合っていて、選手をより輝かせる宝石のようだ。その姿に目を奪われた少女は、今ここにいる理由なんかも忘れ、ただ目の前のレース行方を見守った。

 第四レーンの選手は中盤以降もスピードが減速すること無く、独走のままゴールする。ゴールと同時に、トラック内側に設置された黄色のフィニッシュタイマーが止まる。羅列した電子数字に、競技場全体が歓声と驚嘆の声で震える。四方から飛び交う拍手喝采。少女は握っていた父の手を離し、今はまだ小さな手で、選手たちを精一杯称えた。

 ゴールした選手たちは、トラックに一礼し、応援してくれた仲間の元へ戻って行く。

「萌乃お疲れー!」

 家族だろうか、後ろから選手の名前を呼ぶ声が聞こえる。第四レーンの選手がこちらを向いて微笑み、手を振る。どうやら第四レーンの選手は萌乃と言うらしい。ユニフォームの胸に書かれた漢字は、少女がまだ習っていない漢字も含まれていたが、その漢字は自分が暮らす市の名前だったので、読み方は知っている。

少女の興奮の熱は冷めやらない。ふと気づくと汗で背中とシャツがくっ付いていた。少女は来ていた薄手のカーディガンを脱ぐ。五月にしては少し暑かったかもしれない。それは気温と言うよりも、この空間の熱気のせいか。

「葵どうだった? 陸上も面白いだろ」

 一緒に見ていた父が興奮した口調で言う。少女は目を見開き、キラキラと輝かせ、

「うん! 葵もあんな風に走れるようになりたい!」

 そう言う少女の目には、先程のレースの残像が残っていた。

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