第35話 夕焼け


「——玉鈴様!!」


 草臥れた門を潜れば、主人の帰りを待っていた尭が早足で駆け寄ってきた。感情の変化が乏しい尭が焦っている様子に玉鈴は苦々しい表情を浮かべた。

 恐らく、明鳳と豹嘉が何かいざこざでも起こしたのだろう。ここから見る限り門や庭はいつもと変わらない。なら応接間だろうか。

 深いため息を吐く。今、尭がここにいるということは明鳳は帰った後で、豹嘉は荒れた房室の片付けてもしているのだろう。

 後で説教だと心に留めた玉鈴は面をあげた。

 そして、自分を信じられないという表情で見つめる尭の姿を見つけた。尭の視線を辿れば、汚れた袖。


「お怪我を?!」

「いえ、もう治りました」


 玉鈴は袖を捲り、手を差し出した。真っ白な手の平には擦り傷ひとつない。


「知っているでしょう? 治りが早いことなど」

「知っていても心臓に悪いです」


 薄い唇を歪めて尭は唸る。


「誰ですか?」

「裾を踏んで転んだだけです」


 玉鈴の「それよりも亜王様は」という問いに言いにくそうに後頭部を掻いた。


「その、玉鈴様の臥室しんしつで」


 ——暴れたのか。


 さすがに臥室での乱闘はやめて欲しかった。

 あの二人の事だ。子猫同士の喧嘩とは違い、彼らの乱闘はきっと獅子のように周囲を破壊するだろう。自分の房室の硝子は割れ、薫炉くんろは壊れ、とばりは破けていることは容易に想像つく。下手をすれば原型も留めていないかもしれない。

 房室の状態を考え、玉鈴は顔を覆った。

 今夜はどこで眠ろうかと考えていると尭が「いいえ、違います」と首を左右に振った。

 どういうことかと問えば、尭は小さなため息をひとつ零した。




***




 格子窓から夕焼けが差し込み、白い敷布が真っ赤に染まる。


「これはまた……」


 壁に腰掛けた玉鈴は口元を抑えた。

 視線の先には四肢を投げ出した明鳳が気持ちよさそうに惰眠を貪っている。規則正しく上下する胸を見ると熟睡しているようだ。


「疲れたと言っていたので客房きゃくしつへ案内したんですけど、客間の牀榻しょうとうだと生地が薄くて嫌だと玉鈴様の臥室に」


 尭は困ったように頬を掻く。


「まあ、大人しくしていてくれたみたいですし、いいとしましょう」


 玉鈴は静かに明鳳に近づいた。極力、足音と衣擦きぬずれの音を立てないように気をつけたが野性味溢れる明鳳は何かを察したようで「うぅん」と小さく唸ると寝返りを打つ。

 しかし安心しきっているらしく目を覚ますことはなかった。

 すやすやと寝息すら立て始める少年王に、玉鈴は口元を緩めた。


「まだ子供ですね」


 指先で柔らかそうな黒髪をき、顔にかかる前髪を指で持ち上げれば年相応の少年らしい顔が覗く。目尻を緩めたその顔は昼間の居丈高いたけだかな態度からは予想も付かない穏やかなものだ。

 額から頬を撫でると明鳳はくすぐったそうに身を捻った。


「顔立ちも、性格も、木蘭様そっくりだと思っていましたが眠っている姿は高舜様の面影が見えますね」


 特に眠っている時の目の形が似ている。気が強そうな印象を与える吊り上がった目尻が下がっていると。

 親友との共通点を見つけ喜ぶ玉鈴を他所に、尭は難しい顔で首を左右に振った。


「……自分には分かりません」

「似ていますよ。寝ていれば、ですけど」


 嘘を言わない男だな、と苦笑し、両目を細めた玉鈴は最後に頭をひと撫ですると名残惜しそうに手を離した。

 この様子を見るとしばらくは起きないだろう。端のほうで乱雑に丸め込まれたふすまに手を伸ばし、それを明鳳の上に掛けてやる。

 初夏といえ、夜風は体に障る。きちんと胸まで覆ったのを確認すると玉鈴は踵を返して臥室から出て行こうとした。

 その背に尭は「どちらに?」と問いかけた。


「散策です」


 玉鈴は手短に答えた。


「ならお供を」

「一人でいいです。情報を整理したいので」


 背後を見ずに手を振り、玉鈴は急いで臥室を出て行った。

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