第30話 怒り


「それではお言葉に甘えましょう」

「御気分が優れなければすぐに申して下さいませ。わたくしどもは気にしませんわ」

「ええ、ありがとうございます」


 優雅に微笑む琳へとぎこちなく笑みを返せば彼女の侍女がきびきびとした動きで卓に近づき、拱手の礼を取った。


「——失礼致します」


 何事か、と三人の視線が妙齢の侍女に集まる。侍女はその視線に屈する様子は見せず、背後へと視線を投げた。


「宮女を連れてまいりました」


 長身の侍女の背後では、薄緑色の襦裙に身を包む少女が顔を真っ青にさせて立ちすくんでいた。衣服を見ると内膳司ないぜんしの所属のようだ。

 どうやら、何の為にここへ連れて来られたのかは理解しているらしい。顔を真っ青にさせているのも妃の噂話を咎められるとでも思っているのだろう。かつて、幾人もの宮女が「妃の悪評を広めた」と舌を切られたり、口を裂かれたりしたことを思い出しているのか唇と震わせ、床に視線を落としている。


「挨拶をなさい」


 侍女はやや語気を強め、叱りつけた。

 宮女の肩がぴくりと跳ねる。


「も、申し訳ございません!」


 平伏しようとするのを玉鈴は静かに止めた。


「私は貴女を叱りつけるために呼んだわけではありません。話を聞きたいのです」

「……お話しですか?」

「はい。お仕事中で忙しいとは思いますが、ぜひ貴女のお時間を下さい。もし、誰かに咎められれば柳貴妃に呼び出されたと言って貰っても構いません」


 柳貴妃、という言葉に宮女は両目を見張った。先王の寵妃で、蒼鳴宮から出てこない噂の妃の姿を記憶に刻み込もうと両目が玉鈴の頭頂から足の指先までゆっくりと上下する。

 その動作に琳が「無礼ですよ」と怒りが滲む声で少女を叱りつけた。


「貴女はご自分の立場を理解しなさい! 宮女風情が柳貴妃様を動物の様に観察するなど失礼だと思わないのですか?!」

「も、申し訳ございません!! その、初めて御姿を拝見したので、驚いてしまって」

「初めて、だと言って許されるわけありません」

「琳様、落ち着いて下さい。そのように彼女を叱っては目的が果たせませんよ」


 宮女の無礼な言動に激昂する琳を、翠嵐は困り顔でたしなめた。温和な彼女にとっては宮女の行動はさして気にするものではないらしい。


「……そうですね。感情的になりすぎました」


 仲が良くても後宮内での立場が上の翠嵐には強く出れないらしく、不服そうではあるが琳は首を縦に振った。


「周美人様、気にしてませんから大丈夫ですよ。あまり外を出歩かない私は後宮では珍獣の様に思われている見たいですし」

「珍獣?! 妃に向かっての言葉ではありませんわ! それは怒った方がいいです!」


 ——間違えた。


 余計な一言を付け加えてしまった事に内心後悔した。流石に珍獣とは自分で言っても酷いと思う。


「いえ、直接言われたわけではありませんから」

「そういう視線って事ですよね?」


 玉鈴はううんと唸った。

 短時間の触れ合いだが琳ははっきりと物を言う、口が上手い女人だと理解した。大方の事には寛容な玉鈴でさえ、彼女の勢いには押し負けてしまいそうになる。これは明鳳とは馬が合わないわけだ。


「すぐに処罰を与えるべきですわ。国の象徴である貴女様を侮辱したことを償わせるべきです」

「そこまでする必要はありません。元はといえば私が表にでないのが原因ですから」


 どうにかして琳を落ち着かせようと試行するが、


「宮女なんか甘やかす必要はありませんわ。甘やかすと図々しくなります。それに宮女が妃を愚かに卑下するなどあってはいけないことですもの」


 琳は目つきを鋭くさせて激昂する。

 何を言っても逆効果だ、と困り果てた玉鈴は困惑した表情で口を噤む。玉鈴が黙ったことで琳の怒りの矛先は宮女へと向く。


「貴女」

「は、はいっ!」

「柳貴妃様を侮辱した者の名を今すぐ言いなさい。そうすれば貴女の処罰はかる——」


 琳の袖を翠嵐が困り顔で引っ張った。


「琳様、そのために彼女を呼んだわけではありませんよ。それに、あまり責めてはいけません」

「翠嵐様。そう、ですね。——柳貴妃様、貴女様の御前で無礼な振る舞いをいたしました。申し訳ございません」


 まだ怒りが下がっていないのか頬を桃色に染め、琳は流れる動作で拱手をした。


「いかなる処罰でもお受けします」

「お顔をあげてください。私に頭を下げる必要はありません」

「はい」


 琳は静かな動作で面をあげた。まだきちんと納得してはいないようだが翠嵐と玉鈴に諌められたのが応えたのか琳は口を閉ざす。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る