第22話 夜気を運ぶ風


 夜の帳が降りた。墨で染めた空には上弦の月が雲の間際から顔を覗かせている。仄かな月の光はまるで地上を包み込むように優しく降り注ぐ。その光の下は昼間の喧騒など嘘のような静寂に包まれていた。虫の歌声も聞こえず、草花も眠りに付いている。首をもたげている花や木を指先で撫でながら、玉鈴は柔和な面差しで庭園を歩いていく。

 昼間の輝くような生に溢れた光景も好きだが、特に好きなのは夜の世界だ。生き物が眠りにつき、昼間の疲れを休む時にこそ命というものを知るのだと玉鈴は考えている。だから時折、命に触れたくて玉鈴は皆が寝静まった頃に庭園を歩く。


 小道から逸れて、赴くままに歩みを進めると池に辿りついた。蒼鳴宮の庭園半分を占めるこの池は東屋あずまやと架け橋がある。水の中で泳ぐのは白鰱はくれんという鯉に似た魚だが、今は岩陰で眠っているのか姿はない。

 ここには高舜と共によく訪れた。月見酒を所望する彼に付き合って、東屋の下でよく酒を酌み交わしたものだ。玉鈴は懐かしい思い出に頬を綻ばせた。

 いつぞやのように池の淵に立つと膝を降り、底を覗き込む。水面に化粧を施していない自分の顔が映り込んだ。

 清廉された容貌は不思議そうに瞬きを繰り返していた。

 その時、ふと気付く。今まで散々自己嫌悪の対象だった金眼と爛々らんらんと輝く月が同じ色だと。

 身体を低くすれば水面が近づき、二つの月が並ぶ。


 ――触れたい。


 好奇心から手で月をすくおうと水に両手を浸した。

 軽やかな水音が空気を伝う。月を中心に水面を波紋が描く。

 両手を器の形にして、持ち上げた。指の間から零れ落ちた水が袖を濡らす。

 手の内に残ったのは少量の水。そこに月はない。

 やや残念に思いながら玉鈴は天上を見た。


「……温かい」


 こんなに素晴らしい世界なのに、この気持ちを共有する者がいなくて玉鈴は寂し気に呟いた。

 しかし、その気持ちはすぐに消え去った。


 背後で草を踏みしめる音が聞こえた。続いて聞こえたのは己の名を呼ぶ、聴き馴染んだ低音。振り返ると無表情の尭が仁王立ちしていた。

 身につけている衣服がいつもと同じ官服なのを見て、玉鈴は呆れた様に短息した。


「何度も言っていますが、ここに警備は必要ありませんよ。夜間は皆、恐れて近づきませんから。だがら、貴方も早くお眠りなさい」

「玉鈴様こそ。御身を大事になさってください。このまま放っておくと朝日が昇るまで散策を続けるでしょう?」


 尭は氷の様な表情を緩めた。


「自分は貴方を迎えに来ただけです」

「そうですか。では僕もこれで散策を切り上げましょう。明日も早いですから」


 もう少しゆっくりと体感したかった、と思いながら玉鈴は立ち上がった。生真面目すぎる尭は玉鈴が帰るまで梃子てこでも動かないつもりだというのは長年の付き合いから分かっていた。

 来た道を戻ろうと白の長裾を翻し、歩き出すと背後で淡々と付き従う尭に問いかけた。


「それで、どうでした?」


 その意図をきちんと読み取った尭は軽く頷く。


「はい。びょうと連絡がとれました」


 玉鈴は足を止めると振り返った。


「才林矜の件、玉鈴様の言っていた通りでした。やはり呪詛の影響を受けており時折、不可解な言動を繰り返すようです。特に猫が、あいつが来る、という言葉を譫言うわごとのように言っているみたいでした。しかし、周囲は生来のものだとあまり気にかけていないようです」

「相変わらず、彼は仕事が早いですね」


 玉鈴は鷹揚な態度で口元を袖で隠すとにっこりと笑った。


「僕は良き家族を持ちました」


 貴妃の位を与えられた手前、公にはできないが玉鈴は三兄妹を部下ではなく、家族として関係を深くしていた。


「玉鈴様にそう言って貰えて、あいつも嬉しいと思います」


 尭は嬉しそうにはにかんだ。

 淼は尭の双子の弟で、豹嘉の兄に当たる人物だ。尭とは瓜二つの厳貌げんぼうだが、頑固な尭と比べると眼差しや言動は柔らかい。

 亜国では双子は忌み嫌われていた。男女ならば前世、心中した者の生まれ変わり、同性ならば畜生腹として蔑まれた。

 だからこそ、淼はここにいない。玉鈴や豹嘉が気にしなくても自身の存在が玉鈴の評価を下げると理解している彼は武の腕が立つ兄を後宮に残し、外から玉鈴を支えてくれていた。後宮内では満足に得られない情報も淼が外から仕入れてくれるため、今まで何度も助けられた。


「淼は人心を掌握するのは得意です。今はまだ得た情報は少ないですが、数日すれば予想もできない情報を手に入れるでしょう」


 弟を褒められて嬉しいのか尭はそわそわと体を揺らす。大人になっても相変わらず弟妹を溺愛する尭を見て、玉鈴は知らずに頬を緩めた。


「本当に貴方は彼らが大切なんですね」

「血の繋がった弟妹を、嫌うわけありません」


 指摘され、尭は恥ずかしそうに頬を掻いた。

 寡黙さが売りの男が饒舌になり、無意識に弟を自慢するのを見て玉鈴は肩を震わせ、笑声しょうせいをあげた。


「……笑わないでいただけますか」


 頬に朱を散らし、尭はむっと唇を尖らせた。

 いじけた仕草に吹き出しそうになるが空気を変えるように玉鈴は咳払いする。しかし笑いは抑えられないようで、顔を強張らせながら「すみません」と口を開いた。


「馬鹿にしているわけではありません。血が繋がっているからこそ、仲良くするのはいいことです」


 声はいつものように軽く柔らかいが、その肩が震えているのを尭は見逃さなかった。


「馬鹿にされているとは思っていません。けれど、笑われるのは恥ずかしいです」

「ふふ、すみません」


 そんなに面白いのかと問いたくなるほど、玉鈴はふるふると体を震わせる。以前に比べて笑うことが少なくなった主人の笑顔に嬉しい気持ちもあるが、内容が内容なので尭は居たたまれない。


「……報告は以上です」


 自分から話題を逸らしたくて素っ気なく言った。


「分かりました。明日、呪詛の影響はどうだと才卿に会いに行こうかと思いましたが止めることにします。きっと門前払いされますし、彼はとてつもなく気位が高い。きっと聞いても弱味を見せないでしょう」

「では明日はどうされますか?」

「周美人様の宮へ行こうと思います。尭、付いて来てくれますか?」

「自分でいいなら」

「尭がいいんですよ」


 嬉しい言葉だがそれは豹嘉が感情的に動くからだと理解している尭は苦笑いを浮かべた。


「明日は亜王様も来るでしょうか」

「来るとは思いますが、周美人様の宮へは共に行かないと思いますよ」

「では、豹嘉と共に蒼鳴宮で留守を任すのですか?」


 尭は顔をしかめた。無理だろ、と言外に告げる。

 それを読み取った玉鈴は小さく頷いた。


「無理でしょう」


 過去、住んでいた村から迫害されたためか豹嘉は他者を嫌っていた。玉鈴と二人の兄以外、全て嫌悪の対象となる。特に明鳳と貴閃とは初対面が良くなかった分、対応が酷い。野良犬や野良猫の方がまだ人権があるのではと思えるほどに雑に扱う。


「亜王様が居座るようでしたら義遜ぎそん様に迎えに来てもらうように話しておきました」


 急に丞相の名が出てきて尭は「ああ」と納得したように呟く。そういえば主人は丞相とよく書簡を交わしていた。それは未だに続いているのだと知って内心驚く。


「ならば安心ですね」

「ええ、では戻りましょうか」


 尭は頷くと先をゆく主人の背を追った。

 澄んだ夜気を運ぶ風が二人の髪を揺らした。

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