第14話 亡者


「本当によろしいのでしょうか。柳貴妃を処刑しなくても」


 貴閃は囁くように小さな背中に語りかけた。前方を行く明鳳の足取りは酷く重い。時折、背後を見ては前に進むことを繰り返した。

 真似をして貴閃も背後を見るがすぐさま後悔した。夕暮れのこの時間、蒼鳴宮はまるであの世の亡者もうじゃが住まう館に、門の前でまだ自分達を見送る三人が幽鬼に見えた。

 すぐに体を縮こませた貴閃を見て、明鳳は呆れた風に両目を細める。


「お前のその怖がりも大概にしろ」

「あ、あのような話を聞いて平静を保てるはずございません」


 貴閃は俯いた。でっぷりとした風体に見合わず臆病な部下に明鳳は深いため息を吐きつつ、歩みを進める。


「先ほども言ったはずだが、まだ処刑はしない」

「はい。確かに言っておりました」

「俺は父上のような王になる。その為にあいつは手駒として使えるかを見定める必要がある」


 貴閃は息を呑んだ。

 正直に言うと貴閃は明鳳をあなどっていた。

 没落貴族の出である貴閃は元々は下級宦官で、後宮の掃除夫だった。床に這い蹲り、日が暮れるまでずっと襤褸ぼろ雑巾ぞうきんで床や壁を磨き続ける。老いて死ぬまで、その生活は変わらないと思っていた。

 ある日、偶然だが先王に話しかけられるまでは。


『お前は日がな一日、掃除をしているのか?』


 妃の元に訪れる際、先王――高舜は不思議そうに問うた。

 殿上人てんじょうびとから話しかけられ、貴閃は襤褸雑巾を握りしめ、床に額を擦り付けた。それをやめさせると高舜は、ふむと何かを考える仕草をし、いくつかの質問を繰り返した。

 高舜はその短い話の中で披露された貴閃が持つ学に目をつけると、年老いた中常待ちゅうじょうじの補佐役をするようにと命じた。後任がいなかったため、まだ若かった貴閃が適役だと判断したらしい。


 高舜の「補佐をしろ」という短い命令の元、貴閃の生活は一変する。

 雑巾よりも筆を手に持つことが多くなった。這い蹲るよりも、書簡を持ち駆け回ることが多くなった。掃除夫だった時よりもやるべきことは多くなり、多忙な毎日を送ったが努力は全て結果に直結した。

 そのおかげで、今では大長秋の地位にいる。

 きっかけをくれた高舜を、貴閃は敬愛していた。高舜が鬼籍に入った今も、その情はなくならない。返しきれないと主人の忘れ形見である明鳳に仕えた。

 しかし、名君の血を引いているとは思えない幼い暴君に貴閃は内心、見限っていた。このような子供があの方のような王にはなれない、と。


「明鳳様は柳貴妃を利用するのですね」


 明鳳も自身が王に向いていないと理解しているのだろうか。貴閃は何かを推し量るように明鳳に問いかけた。


「その価値があるかは才昭媛の呪詛をどう跳ね除け、罪人を見つけ出すかを見届けてから判断するつもりだ。俺に足りないのを補える人材ならば処罰することはしない」


 貴閃は言葉に詰まった。自身の感情を最優先させる愚王だとばかり思っていたからだ。不興を買えば、首をねられる可能性があるため、周囲の大人は明鳳に真実を話さなかった。

 けれど、明鳳は自分が亜王となるために足りないものを理解していた。高舜のような王になるために、他者を利用しようとしている。

 その覚悟を感じ取り、貴閃は自身を落ち着かせるように息を吸うと吐き出した。


「おい、貴閃」


 不意に明鳳が足を止めると貴閃の名を呼んだ。

 貴閃は夢から覚めたような感覚に陥りながら、「どうかしましたか」と平然を装う。


「お前はあれをどうにかできるか?」


 明鳳は前を指差した。声は若干だが震えている。


「あ、あれは……」


 前方を見た貴閃は言いよどむ。


「私にはどうすることもできません……」


 柳の木の中央で、腕を組み、満面の笑みを浮かべた丞相の姿があった。

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