思い出せ!
深草中将
悪夢
「捨てちゃ駄目!」
子どもが叫んだ。だが俺の手は開かれており、捨てたものはすでに闇の中に落ちていた。 それが何なのか思い出せない。だが大切な何かだ。全身の血の気が失せ、焦った俺は闇の底を凝視した。
「何処だ! 俺の大切なもの」
悔恨が急速に膨らみしピークに達し、たまらず俺は叫ぶ。
目が覚めた。
寝汗で濡れている。嫌な夢だ。もしかしたら何かを叫んだかもしれない。
俺はキングサイズのベッドを離れ、習慣となった窓へ移動する。高層マンションの一室。ここから見下ろす東京の街が俺は好きだ。この眺めは、勝者の自尊心を満足させてくれる。俺は夢のことなどすっかり忘れていた。
収益は順調に伸びていた。若い役員が流暢に説明する。俺はこの一等席で彼らの報告を聞く。会議室には優秀なスタッフが集っており、些細な問題点は彼らが解決するだろう。
サイレントモードの振動音がした。退屈した俺は机の下で端末を盗み見る。
〈今日逢える?〉
彩からだ。美貌と抜群のスタイル。だがこの女にも飽きた。
「捨てちゃ駄目!」
子どもの叫びが聞こえた。
気がつくと全員が俺の方を見ていた。声をあげたか。
「なんでもない。報告を続けてくれ・・・」
馬鹿げている。
女の代りはいくらでもいる。しょせん金目当ての女たちだ。次は、やたら笑う知性のかけらもない莉子にしよう。締め付けられ、はちきれそうな乳房を思い出す。感度はよさそうだ。
愛車のジャガーでホテルに乗り付け、ボーイに鍵を渡す。
「駐車場に入れといてくれ」
慇懃なボーイのビビった顔が愉快だ。次は更なる高級車に変えよう。この流線型のボディはひと目を惹くが、低い座席は目が疲れる。ロールスロイスの評判は聞いていた。この貧相なボーイはどんな表情をするか・・・。
「捨てちゃいけない!」
うるさい! 耳障りな子どもの声だ。俺が何をしようと勝手だろう。俺は不快を抱えたまま夜の街に繰り出した。
六本木の雑踏は浮かれた連中ばかり。先ずは食事にしよう。予約など無用だ。どの店も俺はVIP扱いだし、断る店は潰してやる。
「捨てますかな?」
子どもの声ではなかった。老いた辻占い師。どこかで見たこがある顔だ。知り合いだろうか。貧乏ななりのくせに余裕の表情で俺を見ている。怒りがこみあげて来た。
「俺が何を捨てたと云うのだ。答えてくれ」
奴は微笑して答えた。
「大切なもの」
「だから何を捨てたと云うんだ。言ってみろ!」
老人は少し考え、間をおいて告げた。
「今の生活が始まったとき。もうお忘れか?」
記憶の糸を手繰りよせる。だが何も思い出すことが出来ない。何かが欠落していた。
「貴様はそれが何だか知っているのか! 教えてもら・・・」
その言葉は空に消える。居たはずの占い師は忽然と消えていた。
クソいまいましい。俺はタクシーを拾い銀座に急ぐ。すべては金で解決する。馴染みの高級寿司店で食事をすませ、高級クラブに。
女たちは、これ見よがしに美しさを競い合う。容姿以外に知性と優しさも商売の武器だ。俺は馴染みの女たちのため、対価のシャンパンを注文する。
「嬉しい。お仕事お忙しいのに。」
笑顔が魅力的なAIども。その記憶力は並外れている。いつ話したか忘れたような話題まで持ち出し、俺を寛がせる。
「そうだ、会社を立ち上げる前の話をしたことがあったかな?」
「あら聞いてないゎ。れいなちゃん聞いてる?」
「お姉さんが知らないこと、わたしが知ってるわけないでしょ。ねえ教えて現代の夢物語」
顔が凍ったことは自分にも判った。
「帰る」
ぞろぞろと見送りに出た女たちをとどめ、俺はエレベーターに乗った。
何が高級クラブだ。退屈な女どもめ。「二度と来ない」そう心に決める。一瞬でも人のぬくもりを求めた自分が馬鹿に思えた。俺を迎え入れてくれる店は他にもある。
「捨てたね」
また子どもの声。俺は理由もなく壁を力を込めて叩く。
夜の銀座は品の良さそうな奴らであふれていた。これからどうするか、考えながら歩く。どこかで哀愁を帯びたサックスの音がする。路上の音楽屋だ。廻りを囲んでいる客たちは演奏に聞き惚れている。真ん中で、自らの演奏に酔う長髪の若者を見たとき、いたずらが心に湧く。拍手をかき分け、俺は近寄る。
「素晴らしい音色じゃないかい。そのサックスはいくらしたんだい?」
「これですか。中古のセルマーで三十万です。買うのに苦労しました」
「ここに百万ある。その楽器を売ってくれ。君はもっと高級な楽器で演奏すべきだよ」
事態が呑み込めない若者に札束を渡すと、俺はひったくるように楽器をもぎ取り、その場を急いで離れた。当初の考えでは、奴の目の前でこのサックスを叩き壊すつもりだったが、トラブルは予測出来るし、愉快な結末にはならないだろう。
帰りのタクシーのなかで戦利品を見る。使い込んではいるが大切に扱っていたようだ。
「運転手さん。すまないがこの楽器、捨てておいてくれないか。謝礼は払う」
「捨てるね。さようなら」
俺は疲労感が強く、もはや子どもの声に抗うことはしなかった。 渋る運転手は5万円で遺棄を承諾する。
悪夢は去った。だが熟睡した俺を目覚めさせたのは、現実の悪夢だ。
「暴落がとまりません」
電話から聞こえる声は悲鳴に近い。市場は歯止めを失い、俺の資産は次々と消えて行く。新興の会社は危機管理能力が弱い。当面の指示を与え、俺は会社に急ぐことに・・・。
「お忘れか?」
その時俺は悟った。原因は俺が夢で捨てたものだと。誰かが「そうだ」と答えた。俺の捨てたもので、この転落が始まってしまったのだ。状況を打開するには、〈この生活が始まった大切なもの〉を捜すしかない。俺は必死に思い出す。
会社を起こした時、俺は平凡な会社員だった。誇れるのはITの知識だけ。
「あの時学んだプログラム本、いや古いPCか? あれがきっかけだ。捨てたか? いやデータ消去がめんどくさくて捨ててはいない。どこだ!」
物置部屋を開けた。未整理で足の踏み場もない。廊下に邪魔な物を投げだし、山積みの段ボールを運ぶ。どこに入っているのか判らない。次々と過去の不用品が、そのまつわる記憶と共にあらわれた。俺の人生が巻き戻って行く。必死に生きた過去の自分。あの頃俺は懸命だった。作業はいつも深夜に及び、ソファで仮眠をとり、食事はコンビニ食。だが皆に希望があった。俺たちは小さな成功に喜び合う。あの時の仲間たちは、やがて俺の元を去った。ここには記憶の証拠品たちがいる。だが今はかかわっている暇はない。
あった。古いPCもプログラム本も使いこんだ痕跡と共に段ボールの底に。
捨てていない! これじゃないのか?
金貨だ。あの時資本が行き詰まることを考え、古い金貨を買った。以降会社は急速に発展する。俺にとってのラッキーアイテム。どこだ、捨てるわけがない。急に〈彩〉の顔が浮かぶ。
「レトロな金貨ね。これちょうだい」
しまった。俺は携帯を捜した。
「朝早い電話だこと。もっともわたしも徹夜で騒いでこれから寝るところ。何の用? すっぽかしを謝りたいの? 金貨? 覚えてないゎ。それよりあたしたちの関係を考える時が来ていると思わない」
別れたければ、喜んで別れてやる。だから金貨を戻してくれ。お前の言い値で買い戻す。そうだ、手切れ金も上乗せしてやる。だから・・・。
「オッケー 捜してみるね」
電話を切られた。この間も暴落は続いているだろう。俺が金貨を捨てたために。
「違うよ。金貨じゃない」
子どもが俺の腕をつかんだ。
途端、俺の身体は闇のなかで宙ぶらりんになる。もし子どもが手を離せば俺は落ちるだろう。
「放さないでくれ」
俺は子どもに懇願した。その時すべてを理解する。この子どもは幼い頃の俺。あの占い師も俺。老いた自分自身であることを。この手を握っているのは子どもではなかった。昨日の俺・・・。
「やめろ!」
勝ち誇った俺は、ぶらさがった俺の手首をゆっくり離した。
「捨てちゃ駄目!」
おさない自分の叫びが、遠くで聞こえた。見捨てられた俺は、はてしない奈落に落ちた。 (終)
思い出せ! 深草中将 @fukakusa
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