第10話〜仮病

「熱が出たので休みます。」


 百合は初めて仮病を使い、仕事を休んだ。


「今年、初めて休んだ…。静か…。」


 百合はベランダに出る。風が心地よい。しばらく景色を眺めていた。 


  おはようございます

  仕事、休みました


 百合は航にラインをした後、顔を洗う。鏡に映った自分の顔を見て、百合は深いため息をついた。目はひどく腫れ、顔はむくんでいた。


「こんな顔で仕事行こうとしてたんだ…。」


 スマホが鳴る。航からのラインだった。


  おはよ

  休むって言えたんだな

  頑張ったな


 航のやさしさで始まる朝。少し残っている眠気と混ざって百合はぽーっとする。


 その日、百合は特に何もすることなく、ひたすらのんびりしていた。時々航を想い、ぽーっとしながら。


 静かな1日だった。


「航さんに、お礼言おう。夜、電話しよ…。」


 考え付いた百合。


「夜…電話じゃなくてもいい…?」


 百合はバッグから財布を取り出し、名刺を出した。航にもらった名刺。


「相原工場株式会社…。」


 百合は出掛ける支度をする。航の仕事が終わる時間を見計らって、名刺の住所を調べる。その住所に、どんな人がどれだけいるのかわからない。そう思うと怖くなる百合。それでも航に会いに行こうと思った。


 スマホの地図を見ながら工場へと百合は向かう。目の腫れも顔のむくみも消えていた。それだけで体が軽く感じた百合は、工場までちゃんと歩けるような気がしていた。


 そして工場に着く。百合のアパートから工場までは割りと近かった。工場の看板と門がある。


「ここだ…。んー…どうしよう…。」


 門の真ん中に立っていた百合の前に、従業員らしき人が門へと近付いてきた。百合はなるべく目立たないよう隠れるように、慌てて門に背をくっつくように立った。


 従業員がどんどん帰っていく。人の目線が怖い百合はずっと下を向いていた。どれだけの人が自分を見ているのか、どう見られているのかわからない。息が苦しくなる百合。すると真正面に誰かが立った。


「おい!ここで何やってんだよ。」


 上を向く百合。航だった。


「あ…あの…。」


 やはり言葉がすぐに出てこない。そんな自分が自分でも嫌になった百合は、情けない目をし下を向いた。しかし航はやさしかった。


「今日は仕事休んだことだし、大人しくするか。」


 百合は上を向く。航の表情はやさしかった。


「来い。こっちだ。」


 航は歩き始める。


「は、はい!」


 急いで航の後を追う百合。緊張も安心も感じていた。複雑で不思議で、百合は何も考えられなくなっていた。ただ嬉しかっただけかもしれない。


 少し歩いて、着いたのは公園だった。


「あんたは座ってろ。」

「はい…。」


 背もたれも何もない、コンクリートでできたベンチが2台。


 出入口に近いベンチの上。中央に、ふたつのカンカンがぴったりくっついて置いてあった。百合は隣のベンチに座る。航が公園に入ってきた。


「おい!ちゃんと取れよ!」


 航は何かをそっと投げるような腕の動きをする。


「はいっ!」


 百合は立ち上がり、航からの何かを受け取った。コーヒーのカンカンだった。ブラックのカンカン。


「ありがとうございます…。」


 ふたりは座り、コーヒーを飲む。百合は航への言葉を必死に考える。考えている間に航から話し掛けられた。


「どんな気分だ?ズル休みした真面目ちゃん。」

「そ…そんな…。」

「冗談だよ。」


 航はやさしく笑う。


「ゆっくりできたか?」

「はい、航さんのおかげで…。」


 百合はここで、やっと本来の目的を思い出す。


「あ、あの…今日は、昨日のお礼を言いたくて来ました。本当に、ありがとうございました。」

「礼なら、わざわざ工場まで来ることねーのに。」

「…なるべく早く、言いたくて…。」


 そんな百合を見た航は安心する。昨日のような、涙ではない百合がそこにいた。


「でもよかったよ。今日は泣いてないみたいだな。顔、直接見れて安心した。」


 勇気を出して工場へ来て、本当によかったと思った百合。カンカンを持つ手も心も震えた。

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