寿命を見た男

中川 弘

第1話 寿命を見た男


その男とは、ロンドン行きの飛行機で、偶然隣り合わせになりました。


 幸運な私は、エコノミーのチケットで、この日、ビジネスの席を得ることができたのです。

いつもこの便を使っているわけでもなく、服装だってラフだし、もちろん、航空会社にコネのきく知人がいるわけでもありません。

だから、いつも、受け付けのこざっぱりした美しい方が、私にぞっこん惚れ込んで、ビジネスの席を譲ってくれたのだのだと思うようにしているのです。


ビジネスの幾分ゆったりした席に腰を下ろし、隣に座っていたこれまた幾分年上の男に私は軽く会釈をしました。


エコノミーでも、実は、私、そうしているのです。

だって、これからの空の旅、トイレに行ったり、物を落とした時など取ってくれとお願いすることになるのです。

それになにより、旅は道連れ、世は情けと言います。

だから、いつも、一声かけているのです。


 このときも、男は、私に微笑みとともに、会釈を返してくれました。


同時に、私に彼自身の紹介を始めたのです。

 名前、職業、今回の旅行の目的を述べて、そして、握手を求めてきたのです。

 私も、思いの外のことに驚きながら、自分の紹介を簡単にしました。


 そこから、私とその男の対話が始まったのです。


 見知らぬ人と話をするのがさほど得意ではなかったのですが、この時は、なぜかそんな気にならなくて、自然な形で、話をすることができました。それもこれも、この男の嫌味のない、そして、こちらを気遣う言葉があったからだと思っているのです。


 「これから十二時間余りも隣席で一緒に過ごすんです。こうして、隣席になるのも、何かの縁、差し支えなければ、寝る前に、お話でもいたしませんか。いや、それは疲れる、あるいは、仕事をしなくてはならないというのであれば、断っていただいて結構なんです。私、一目見て、あなたが私と気が合うって思ったものですから……」

 そんなことを言うんです。


 そう言われて、では、仕事をさせてもらいます、黙っていてくださいとは言えません。それに、機内で仕事をするほど、私は忙しい仕事をしていません。


 そう言うわけで、しばらく、私たちは、ロンドン行きのジェットのビジネス席で、シベリア上空での会話を楽しんだのです。


 機内では、小さなワインボトルが提供されました。

 私たちは、赤ワインのボトルをテーブルにおいて、食事をし、食事を終えた後も、さらに、白ワインのボトルを頼んで、話をしました。


 「食事も終わりましたから、失礼して、靴を脱がしもらいますよ。あなたもどうですか、ゆったりできますよ。」 

 男はそう言うと、身をかがめて、綺麗に磨かれた革靴の紐を解き、丁寧に席の下に入れたのです。 

 「人間っていうのは、生かされていますよね」

 男は、白ワインをグラスに注ぎ、一口を含んで、それを味わい、ゴクッと音を立てて飲み込んで、そう言いました。


 「いやね、私、これまで、そんなことに何度か出くわしてきたんですよ」


 男はそう言って、自分の生かされているという体験を私に話をしてくれたのでした。

 男は事業をしていました。その折、資金繰りが難儀なことになって、これはダメかなって思ったそうです。

大変な折も折、そういう時に限って、自宅をリフォームしているんですから、滅入ってしまいます、なんて、笑いながら言うのです。


せっかく、新しくなる家も、手放すことになるかも知れない、そう思うと、切なくなったというんです。でも、運が良かったのか、あるいは、そう神様がしてくれたのか、資金を貸してくれる方が現れて、事業の危機を救ってくれたと言うんです。


 そんなことが縁で、その男、いま、救ってくれた会社の傘下に入って、今では、月給取りだって言うんです。つまり、自分の会社が、その方の会社に合併吸収され、代表から、一社員になったと言うんです。


 私、悔しくないのかなぁって思って、そのことを言おうと思ったのですが、そのことを語る男の横顔を見て、その言葉を呑んでしまったのです。


 だって、とても幸せそうな顔をしていたからです。


 自分の事業が吸収されても、これまで通り仕事はできる、それに、救ってくれたんだから感謝しなくてはいけないって、そのことが表情に出ていて、恨みつらみも愚痴のひとかけらもそこには見えなかったからなんです。


 こんなことも言っていました。

 交通事故を起こしてしまったそうです。居眠り運転だそうです。イギリスから戻ってきて、仕事に追われ、ジェットラグで、うつらうつらとして、前の車にぶつかってしまったというのです。

 おかげさまで、けが人もいなくて、大ごとにはならなかったのですが、それも、きっと、自分は生かされている、まだ、寿命が与えられていると感じた一瞬だと、そう語ったのです。


 仮に、けが人、あるいは、相手を死亡させていたら、自分の人生はその時点で終わったと思えるが、そうではなかった。

だから、お前はまだ生きて仕事しなくてはいけないって、生かされているんだって、そう思ったと言うのです。


 また、仮に、その事故で自分が命を落としていたら、当然のごとく、今の自分はいない。

だからきっと、自分にはまだ寿命というのがあって、あの事故の折に、死ぬことはできないに違いないって思ったというのです。


 私、この話を聞いて、この男は、「達観」というものを身につけていると思ったのです。


 自分の会社がどうなるのか、そのために、自分の生活はどうなるのか、それって、相当に重圧のかかることであり、さらに、自分の会社が他の会社の傘下に組み込まれるなんてことも、重圧とは違って、面子とか矜持に関わることで、男であれば容易に受け入れがたいことであると思うのですが、それを呑んで、受け止めているのですから、偉いと思ったのです。


 それに、生かされているって考える哲学、これって、気張らずに、何か偉大なもののおかげを認識して、生きているって気がして、私、大いに同感し、きっと、その後の私の人生に少なからず哲学的影響を受けるに違いないって、その時思ったのです。


 その男、ヒースローに到着し、機内から出る段になると、私と隣席になり、話を聞いてくれたことに感謝をし、握手を求めてきました。


 何かの縁があれば、また、語り合いましょう、では、お先にって、そう言って出て行ったのです。


彼が、名刺を渡してくれて、それ以降、二度三度会うことにでもなれば、きっと、私、この男にさほどの関心を持てなかったのではないかとそんなことを思ったのです。

付き合いを深めれば、見なくてもいい変な癖も、心のうちの闇の部分もみてしまうのではないかと、そんなことを思ったのです。


そして、どうやら、私も、あの男と同様に、幾分生かされているような気がしてきたのです。

 だったら、生かされていることに感謝して、生きようと思うようになったのです。

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