第二章「迷い子」

「そのため、梅雨でもないのに雨が続く日のことを『龍の五月雨』と言った……」


 そう呟き、彩菜はパタンと書物を閉じた。大学の教科書のような扱いで雑に閉じてしまったが、これは代々我が家に伝わる家宝の一つ。時すでに遅しとわかりながら、彩菜は慌てて書物を抱きかかえる。その拍子に、耳にかけていた髪がはらりと落ちた。


「おい彩菜! なんでお前がサボってんだよ」


 どこからともなく聞こえてきた康平の言葉に、彩菜は一瞬ビクリと肩を震わす。そして彼の声が聞こえた方向を見ると、埃まみれになっている康平が自分のことを睨んでいる。


「お前のばーちゃんに蔵の掃除を頼まれたのに、なんで俺が掃除して、彩菜が本読んでんだ」

「ご、ごめん。ちょっと面白そうな本があったから……」


 あはは、と彩菜は誤魔化すように笑った。彼の名前は飯塚康平。私の幼なじみで、康平の家はこの町のお医者さんをやっている。


康平は三人兄妹で、兄と妹がいるが、妹の柚葉は長い間病院に入院していた。それが半年前、ある出来事がきっかけで、柚葉は失っていた視力と、身体の健康を取り戻すことができた。お陰で今は元気になり、学校にも通っているらしい。


「ってか、ほんとこの蔵は物が多過ぎだろ……」


 康平は呆れ口調でそう呟きながら、ぐるりと辺りを見渡した。


この蔵は、私の家に昔からあるもので、年代物の食器や絵巻物、時計など色んなものが保管されている。どれも代々伝わってきたものらしく、大切なものらしい。まあ中には、サッカーボールとかラケットとか、昔自分たちが遊んでいた玩具も紛れているのだけれど。


「そういや、あれは掃除しなくて良いのか?」

「あれって?」


 彩菜がきょとんとした顔で聞き返すと、「あれだよ、あれ」と言って康平が蔵の奥へと指を指す。その方向が示す場所に、彩菜の心臓がビクっと震えた。


「さすがに俺は、あんなもの掃除する勇気はないぞ」


 彼はそう言って困ったように頭をかいた。そう、この蔵には数多くの家宝があるのだけれど、その中でも群を抜いて異様なものが一つある。


「あー、あれはおばあちゃんがたまに掃除してるみたいだから、大丈夫だって言ってたよ。それに、変に触ってお札が剥がれちゃったらやだし……」


彩菜はそう力なく答えると、もう一度蔵の奥を見た。入り口近くにいる自分たちからでも、その巨大な家宝の頭が少し見えている。


昔から怖がりな私は、あの家宝のことは『怪物』だって勝手に思っていた。その見た目の大きさもそうだけれど、何より形が怖かったからだ。


「でも一応足元とか掃除しといた方が良いんじゃないか? ほら、春月がたまに忍び込んでおしっことかしてたらマズいだろ」

「なっ! うちの春月はそんなところでおしっこしません。……まあでも、少しくらいは掃除しといた方がいいかな」


 彩菜は手に持っていた書物を目の前の木箱に戻すとおもむろに立ち上がった。そしてゴクリと喉を鳴らすと、蔵の奥に向かってゆっくりと歩き始める。昔ほど怖くは無くなったが、たまに来るとまだちょっと怖い。


そんな自分の気持ちを、幼なじみには悟られないように、彼女はいつも通りのペースで進んでいく。


 積み重なったたくさんの木箱の間をすり抜けていくと、突然視界が開けた場所へと出る。この蔵の一番奥、本来であれば壁にあたるところにそれは姿を現した。


薬箪笥くすりたんす


 我が家の家宝にして、不思議な力を秘めたこの薬箪笥は、蔵の壁を覆うように悠然とそびえ立っている。


 本来、薬箪笥とは昔の薬剤師が薬を小分けにして保管するための箪笥なのたが、うちに伝わる薬箪笥は違う。


 病を治す。という意味では同じなのかもしれないのだけれど、この薬箪笥が治す病気は、人間の病ではないのだ。


「あれ?」


 いつも通り、無意識に薬箪笥のその大きさに見入ってしまっていたら、ふとその足元に黒い生き物がいることに気づく。見慣れた、そして艶のあるその毛並みから、彩菜は即座にそれが自分の家族の一員であることに気づく。


「こら春月! あんたまたいつの間に忍び込んだの?」


 ご主人の怒りの言葉に、彼女は「みゃーん」と返事をする。その甘えたような感じの鳴き声は、まさに文字通りの猫なで声だ。


「もう」と彩菜は呆れたように呟くと飼い猫のところまで近づき、春月を持ち上げる。最近餌をよく食べるせいか、なんだか以前より重くなった気がした。


「これは大切な宝物なんだからイタズラしちゃダメなんだよ。わかった?」


 その言葉に、わかっているのかいないのか春月はタイミングよく「なーん」と返事をする。十年近く家族として一緒に暮らしているこの子は、頭は良いのだ。たぶんおばあちゃんの育て方が上手なのだと思うけど。


 彩菜は春月を抱きかかえたまま、再び視線を我が家最大の家宝へと向ける。巨大なその箱型をした入れ物には、さらにその姿を際立たせるかのように、規則正しく引き出しが整然と並んでいる。


丸い取ってがついた引き出しが並ぶ姿は圧巻で、それはまるで目玉の怪物に見下ろされているかのような気分にもなる。


ちなみに、薬箪笥は『百目箪笥』とも呼ばれているので、私の解釈はあながち間違ってない……と、勝手に思ってる。


 そんなことを一人考えていると、後ろから再び康平の声が聞こえてきた。


「おい彩菜。和久のおっちゃんが赤ちゃん連れてやってきてるぞ」

「えっ? ほんとに!」


 嬉しそうな声を上げて振り返った拍子に、胸元にいた春月がするりと抜け出した。「こら」と呼びかけるも手遅れで、黒猫は一足先に蔵の出口へと向かっていく。


「もう……」


 ぷうと頬を膨らます彩菜を見て、康平が面白そうに笑う。


「やっぱ春月、おしっこしてたか」

「だから、しないってば!」


 春月に向けていた鋭い視線を、今度は康平へと向ける。それでも彼は慣れた感じで、くつくつと喉を鳴らしていた。


「そうだ! 和久おじさんが来てるんだよね?」


 あっ、と思い出した表情を浮かべる彩菜が足早に出口へと歩き出す。その後を、「おい待てよ」と置いてけぼりを食らった康平が彼女の背中に向かって声を発した。


 蔵の外に出ると、所々雲はかかっているものの、空は青色を見せていた。


少し肌寒さを感じる空気を、雲の隙間から見える太陽の光が柔らかく照らす。その熱をおすそ分けしてもらうように、彩菜は陽光の下へと足を踏み出した。


「和久おじさーん!」


 真っ直ぐ目の前を見ると、家の玄関前に見慣れた白いワゴン車が止まっていた。そこには、和久の一家と、うちの祖母の姿も見える。彩菜は嬉しそうな声を上げると、親族が集う場所に向かって走った。


「おう! 彩菜ちゃん。今日も元気だね!」


 威勢の良い声で話す和久おじさんは、私の父の弟。この町で、酒屋さんを営んでいる。父のお酒を届けに来てくれたりと、普段から何かと顔を合わす機会は多いし、イタズラ好きのおじさんは私が怖がりなのを知ってて、よく怖い話しをしてくる。


その為、別におじさんに会うこと自体は、そこまで嬉しがることではないのだが……。


「かっわいいー!」


 彩菜の目の前には、おじさんの腕に宝物のように抱かれた赤ん坊の姿があった。


「どうだ、可愛いだろ! もう頬っぺたとかピッチピッチだからな」


 ははは、と豪快に笑う和久の隣で、妻の美枝が呆れたようにため息をつく。


「あんたね……取れたての魚みたいに言わんとってよ」


 はあとため息をつく美枝の言葉に、彩菜がクスリと笑う。


「美枝さん、もう身体は大丈夫なの?」

「うん、もうこの通り元気やで。まあ困ったことと言えば、旦那の親バカに際限がないところやな」


 そう言って美枝はじーっと冷めた目で夫の顔を見る。そんな妻の様子に気づくこともなく、和久は腕に抱いた我が子に夢中だ。


「あんた、自分ばっか可愛がってんとせっかく来てくれた彩菜ちゃんにも見せたりや」


 芯の通ったスッキリとした声で美枝が言った。彼女はその話し方からわかるように、関西出身の人だ。もともとは大阪で結構有名な建築会社で働いていたみたいなのだが、どんな縁があったのか、うちの叔父さんと知り合い今に至る。


 目鼻立ちが整っていて、誰が見ても綺麗な人だとわかるその風貌に、「なぜ叔父さんにこんな人が?」と最初紹介された時は何か騙されてしまっているんじゃないかと疑ったぐらい。もちろんそんなこと、口が裂けても言えなかったけど。


「彩菜や、蔵の掃除はもうそろそろ終わるかい?」


 小さな赤ん坊の手を指先で触れていると、後ろから祖母の声が聞こえてきた。


「あー……うん。あと、ちょっとで……終わるかな」


 とぼけたように言葉を濁す孫に、「本当かい?」とわざとらしく声を低めて祖母の刹子はニヤリと笑った。


祖母は今年で八一歳になるけれど、背筋もピンとしていて、松葉色の着物を着たその姿は、まだまだ若々しさも感じるほどだ。彩菜は、自分も歳を取ったら祖母のように凛々しいお婆ちゃんになりたいと常々思っている。


「彩菜ちゃんごめんやで。お掃除の途中やってんね。邪魔してもうたな」

「そんなことないですよ! それに、美枝さんの赤ちゃんに会いたかったし」


彩菜はそう言うと、目の前の小さな命を見た。まだ世界をはっきりと認識することはできないのか、その瞳は開いたばかりの蕾のように、小さく瞬きを繰り返している。


「ほーら、祐樹くん。パパですよー、べろべろばー!」

「……おじさん、祐樹くん眠そうだよ」


 私の予想が当たったのか、それとも親バカの迫力が怖かったのか、赤ん坊は顔をしわくちゃにすると泣き始めた。


「あら? 祐樹くん、どうしたのかな? パパ、パパですよー」

「もう、あんた怖がっとるやんか」


 呆れた口調で言うと、母親はその腕に我が子を取り戻す。生みの親の温もりを感じたのか、美枝に抱っこされた赤ん坊はすぐに泣き止んだ。その真横では、今度は子供に避けられた父親が泣きそうな顔をしている。


「やっぱりママがいいんだよねー」


 彩菜はニコリと笑うと、優しくその頬っぺを指で撫でてみる。繊細で、敏感な存在を表すかのように、その頬は水のようにぷるんと跳ねた。


「いいなー、私もこんなに肌に潤いがあれば……」

「何言ってんの。彩菜ちゃんもまだ若いんやから、十分潤いもハリもあるやんか。そんなん言われたら、おばちゃんが一番悲しいわ」


 そう言って美枝はわざとらしく大きくため息をつく。その姿を見て、彩菜が慌てて口を開いた。


「ち、違うんです美枝さん! そういう意味じゃなくて、その……」

「おい、彩菜。まだ掃除終わってねーぞ」


 彩菜が口を開こうとした時、すっかり忘れていた康平が声を上げてやってきた。


「あ、ごめん! すぐ戻る」そう言うと彩菜は、赤子に向かって小さく「バイバイ」と手を振ると、美枝たちを見た。


「すいません、そしたら私、そろそろ蔵の掃除に戻ります」

「こっちこそごめんやで、掃除の途中で邪魔してもうて。またいつでもお店にも来てな! 祐樹と一緒に待っとるわ」


 美枝は祐樹の手を優しく握ると、彩菜に向かって小さく手を振らせた。その仕草に、思わず彩菜の口元が綻ぶ。


「わかりました。たぶんお父さんのお酒頼みにすぐに行くと思うので、また美枝さんや祐樹くんにも会いに行きますね!」

「おいおい彩菜ちゃん、俺には会いに来てくれないのか?」

「おじさんはいつも家にお酒届けに来てくれるでしょ。それにたまに晩御飯食べて行ってるし」


 そんな二人のいつものやり取りを見て、美枝がけらけらと愉快そうに笑う。


「彩菜や、掃除が終わったらお昼ご飯用意しておくから、康平と一緒に食べにきなさいよ」

「うん、わかった。康平にも伝えとく」


 それじゃあ失礼します、と彩菜は美枝たちに挨拶をすると、くるりと身体の向きを変えて、こちらに向かってくる康平のもとへと早足で歩き出した。そんな彼女の後ろ姿を見て、美枝がふっと口元を緩める。


「なんや彩菜ちゃん、久しぶりに会ったらえらいしっかりした雰囲気になってるね」

「そりゃお前、俺の姪っ子やぞ。なんたって俺に似て……」

「はいはい、人の家の子まで手を出さんの。あんたにはこの子しっかり育ててもらわなアカンのやから」


 はい、と素直に返事をする和久を見て、刹子がクスリと笑う。そしてその優しい瞳が、薬箪笥が眠る蔵へと向かう孫の姿を映す。


「彩菜も、道端家の血を受け継ぐものとして、そろそろ自覚してきたのかもしれんの……」



 彩菜が蔵に戻ると、入り口辺りは康平がほとんど掃除してくれたおかげで、かなりスッキリとしていた。


「お前がサボってる間に、この辺はやっといたからな」

「さすが康平、ありがと!」


 ごめんなさいの意味も込めて、彩菜は手を合わせるとぺこりと頭を下げた。それを見て、「はあ」と幼なじみは呆れたようにため息をつく。


「じゃ、じゃあ私は奥のところ掃除してくるね」


 あはは、と苦笑いを浮かべながら彩菜が歩き出そうとした時、ポケットの中が震えた。


「あ、優介からだ」


 ピコンとなったスマホの画面に、メッセージのお知らせが表示されている。その名前に、彩菜の心臓がドクンと高鳴った。


 優介も、康平と同じく幼なじみの一人。ちょっぴりクールだけど、すごく優しい人。そして優介には秘密があって、実は彼は妖怪の血を引く半妖なのだ。


見た目はまったく人間と一緒だからわからないけど、優介の瞳が青いのはその影響らしい。そして、もう一つ秘密があって、優介は私の初恋の人でもある。そして、今も好きな人……なんだけど。


「……どうしても紹介したい人がいる」


 彩菜が声にするよりも前に、突然覗き込んできた康平が画面のメッセージを呟いた。「わっ!」と驚く彼女は、慌ててスマホを隠すように胸元で抱きしめる。


「もう! ちょっと康平勝手に見ないでよ」

「ごめんごめん、ってそんなに怒らなくてもいいだろ」


 彼はそう言うと面白そうに肩を震わせている。


「でも優介が改まって『紹介したい人がいる』、なんて珍しいよな……」


 康平はそう言うと、うーんと考えるように顎を触る。その言葉に、彩菜も眉間に少し皺を寄せた。


「そうだよね。あの優介が紹介したい人って……」

「もしかして……彼女、とか?」

「えっ?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて笑う康平とは反対に、彩菜は目を見開いて一瞬固った。その拍子に、家宝の書物のページがはらりと落ちる。


「そ、そ、そんなこと……ないでしょ」


 動揺する心を隠そうと言葉を発するも、すでにその声が動揺している。「どうだろなー」と面白がっている康平とは違い、彩菜の顔からますます温度が抜け落ちていく。


 優介に彼女? 嘘でしょ?


 同じ問いかけが頭の中を高速で駆け巡っている。たしかに、優介はモテる。でも、今のところ彼女ができた話しはまだ聞いたことはない。それに昨日学校で二人で会った時も、そんな話しは出なかった。だから……でも……。


 顔が青ざめていく彩菜を見て、急に心配になった康平が「大丈夫か?」と声をかけた。


「うん……大丈夫。へーき、へーき……」


 彩菜はそう言って床に落ちた書物の一部を拾おうとした。その時、再びピコンと携帯の音が鳴った。先ほど胸の高鳴りを感じていたはずの『優介』という表示に、今は恐怖しかない。


「もう着く、だって……」


 どうやら優介はこちらに向かっているらしく、既に近くまで来ているようだ。


 そんなに切羽詰まって私に紹介したい人って誰だろう。


「なんだ、優介も彩菜の家に向かってるのか。だったら蔵の掃除手伝ってもらうしかないな」


 嬉しいそうに声を上げる康平の言葉は、もう彩菜の耳には届いてなかった。彩菜はただ呆然と突っ立ったまま、スマホの画面を凝視していた。


 願わくば、単なる私の思い込みであってほしい……。



 優介が我が家の玄関に入った時、康平も私も驚きのあまり声が出なかった。


 彼が来るまでの間、散々「どんな彼女連れてくるんだろうな!」と茶化していた康平でさえ、優介が連れてきた予想外の人物に言葉を失っている様子だ。


「だ……誰だよ、その子?」


 呆然と立ち尽くす康平が伸ばした人差し指は、優介の足の方を指している。それと同じく、彩菜もその方向を凝視していた。


 いつも通りの様子で玄関に立っている優介。そんな彼の足元には、小さな女の子が隠れるようにくっついているのだ。


怯えるように自分たちのことを見るその女の子は、まだ幼稚園ぐらいだろうか、今にも泣き出しそうな顔をしている。そして何故か、赤い花柄がよく似合う立派な着物を着ていた。


「優介って……妹いたっけ?」


 チンプンカンプンな状況に、彩菜は思わず反射的に口を開いてしまった。彼が一人っ子なのは、自分自身が一番よくわかっているのに。そんな馬鹿な質問をしてしまった私に、優介は「妹じゃない」と丁寧に答えてくれた。


「じゃあ誰だよ?」

「この子は、ヒナミ」

「……、もしかしてお前の隠し子なのか?」

「かくしご!」


 康平の質問に、隣にいた彩菜が思わず声を上げた。その顔が急速に青ざめていく。


「そんなわけないだろ。迷子みたいなんだ、この子」


 やっと答えの出た優介の言葉に、彩菜は「なんだ……」とため息混じりに呟くと、へにゃりとその場に座り込んだ。どうやら、明日からも私は生きていけそうだ。


「迷子ってお前……、彩菜の家に連れてきても意味ないだろ。警察に行かないと」


 そう言って怪訝そうな顔をする康平に、「いや……」と優介は少し困ったように眉間に皺を寄せると言葉を濁す。


「たぶんこの子……、人間じゃない」

「えっ?」


 優介のあまりに唐突な発言に、康平と彩菜は目を丸くした。


「人間じゃないって……、じゃあこの女の子は何だよ?」


 康平が怪しむような表情をして尋ねる。その隣では、ぽかんと不思議そうな瞳を見せる彩菜の姿。そんな二人を前に、優介はいつもの口調で答える。


「妖怪」

「妖怪って……、随分ふつーな感じで言うな、おい」


 呆れすぎたのか、康平が口を開けたまま閉じない。彩菜は視線をその女の子と同じ目線に合わすと、顔を近づける。


 この子が、妖怪?


 どこからどう見ても、人間の女の子だ。着物を着ているし、その可愛らしさから七五三の子供モデルとかに選ばれそう。じーっと眺めながら、彩菜はそんなことを考えていた。


「おい彩菜、怖がってるぞ」

「あ、ごめん」


 康平の言葉でハッと我に返った彼女は、今度はニコリと笑うとゆっくりと右手を差し出した。


「ヒナミちゃん怖がらせてごめんね。私はあやな。みちはしあやなって言うの」


 いつもよりワントーン声を高くして優しく話しかける彩菜だが、その指先が彼女に触れる前に、ヒナミはきゅっと優介の足を握るとすぐに隠れた。


「ほら見てみろ、彩菜が最初睨むから」

「睨んでないよ! 康平だって怖がられてるじゃん」


 ぷうと膨れる彩菜に、康平はやれやれといった具合に首を横に振る。


「俺は柚葉の面倒見てたから、小さい女の子の接し方も慣れてんだよ」


 ほら、と言って康平はしゃがむと、同じように目線を低くする。そして彩菜よりも一回り大きい腕をヒナミに伸ばした。


「ほーら、大丈夫だって。俺たちは怖い人じゃないよ」


 そう言いながら康平は、やや強引にヒナミの方へと右手を近づける。そんな様子を、優介と彩菜は黙って見ていた。すると、康平の指先が小さな女の子の顔に近づいた時、それは起こった。


 ガブリ。


 そんな擬音語が聞こえてきそうなほど、ヒナミが勢いよく康平の指先を噛んだ。


「イィィッてええ!」


 康平はあらん限りの声で叫んだ。そして右手を抑えながら飛び回っている。それを見て、ダメだと思いながらも優介と彩菜は、口元を押さえて肩を震わせていた。


「ってーな! 何もいきなり噛むことないだろ」

「ほら康平、そんな顔しないの。ヒナミちゃん、また怖がっちゃうでしょ」


「んなこと言っても……」とぼやく康平の後ろから、今度は祖母の声が聞こえてきた。


「どうしたんじゃ。いきなり大声なんて出して」


 少し怪訝そうな表情で尋ねる祖母を見て、彩菜がすかさず口を開く。


「おばあちゃん、優介が妖怪の女の子を連れて来たんだけど……」

「妖怪?」


 祖母は少し驚いたように目を大きくすると、その瞳を優介の足元に隠れている女の子に向けた。


「おやおや。これまた可愛い子が来たんだね」


 嬉しそうに祖母は目を細めると、優介の方へと近づいていく。そして、先ほどから隠れたままのヒナミにそっと顔を寄せた。


「おやまあ珍しいね。今時、純血の妖怪の子供を見たのは久しぶりじゃよ」


 そう言って祖母は、愉快そうに喉を鳴らす。その様子を、彩菜は驚いた表情で見る。


「本当に妖怪の女の子なんだ。なんか……全然実感がわかない」


 妖怪、という言葉自体は半年前の一件以来、身近なものとはなったが、それでも本物を見たのは初めてだった。そんなことを思っていると、同じことを考えていたのか康平が口を開いた。


「この子が妖怪って何だか信じられねーな。妖怪ってもっとこう……黒くて目玉いっぱいついてる奴じゃないのか?」

「あれだけが妖怪じゃないよ。それにこの子、ツノが生えてる」

「は?」


 またも優介の思わぬ発言に康平と彩菜は目をパチクリとさせた。


「ツノ? ツノなんてどこに生えてんだよ」


 噛まれたばっかりだが、康平は再びヒナミにぐっと顔を近づけた。よほどっきの康平が怖かったのか、彼女は隠れながらもぎゅっと目を細めて睨んでいる。


「頭だよ。ほら」


 そう言って優介が頭を撫でると、たしかに、ぴょこんと二つの突起のようなものがチラリと見えた。それはちょうど鬼のイラストと同じような場所に生えていた。


「ほんとだ。可愛い!」

「え?」


 優介に怪訝そうな視線を向けていた康平が、今度はその目を彩菜に向ける。


「優介や、この子はどこで見つけたんじゃ?」

「山の麓です。あの空き地のところで」

「空き地……」


 その言葉に彩菜の心がざわりと動いた。空き地と言えば、以前自分が変な声を聞いたところだ。そんなことを思い出し、彩菜は無意識にぐっと握りこぶしを作った。


「じゃあお母さんかお父さんもその辺にいるんじゃないのか? まさか……前に俺たちのこと襲ってきたやつが親だとか言うんじゃないんだろうな?」


 康平は眉間に皺を寄せると、一歩下がった。それを見て優介がクスリと笑う。


「それはないよ。それにヒナミはたぶん山の妖怪じゃないし、同じ『音』がする妖怪も近くにいない」

「音?」


 優介の話しに彩菜が小首を傾げる。半妖である彼は、人間と違ってかなり耳がいいらしい。その力を使って、山の大妖怪に連れ去られた柚葉も見つけることができたのだ。


「ふむ……、たしかにこの子の雰囲気は山のあやかしたちとは少し違うの」


 祖母はそう呟くと、柔らかく弧を描いている目を再びヒナミに向けた。


「はて……この感じ、どこかで」


 祖母の優しい瞳がその女の子を捉えると、彼女は目を逸らし、恥ずかしそうに優介の後ろにまた隠れる。


「とりあえず迷子なんだったら、家の場所聞いて早いとこ親のところ返したほうが良いんじゃないか?」


 妖怪がトラウマなのか、康平がヒナミと微妙に距離を空けたまま話す。


「それがこの子……喋れないんだ」

「喋れない?」


 彩菜がポカンとした顔で優介を見る。


「うん。こっちの言っていることはある程度理解できるみたいなんだけど、声が出ないのか、話せないんだ」

「でも自分の名前は言ったんだろ?」

「それは俺が付けた名前だ」

「…………」


 優介の発言に、康平と彩菜が黙り込んだ。普段クールな彼だが、天然なところもあるのか、たまにそんな一面を見せる。


 もし女の子が生まれたら道端ひなみか……。優介と女の子の顔を交互に見ながら彩菜は、そんなことを一瞬考える。でもその場合婿養子か、なんて妄想劇を広げていたら優介と目が合ってしまい、彼女は慌てて顔を逸らした。


「どしたの?」

「な、何もないよ」


 あはは、とぎこちなく笑う彩菜に、今度は優介が小首を傾げた。


「でもよ、その……ヒ、ヒナミでいいんだよな? この子が喋れないんだったらどうやって家族に返すんだ?」


 たしかにそうだ。人間の子供ならまだしも、妖怪の子供なんて迷子になっても預けるところなんてない。彩菜も疑問に思っていると、再び優介が口を開いた。


「もしかしたらこの子が喋れないのは、何かの『病』にかかってるんじゃないかと思って。だから彩菜のところに連れてきた」

「なるほど! 彩菜に病気を治してもらうってことか」

「えっ、私?」


 二人の幼なじみの視線を受けて、彩菜が人差し指で自分のことを指す。


「うん。もしこの子が本当に病にかかってるなら、彩菜なら治せるんじゃないかって思って」

「そんなこと急に言われても……」


 彩菜は困ったように眉尻を下げると、チラリと女の子の方を見た。優介の後ろに隠れたヒナミは、上目遣いにその潤んだ瞳を彩菜へと向ける。


「治せるならそうしたいけど……おばあちゃん、そんなことできるの?」

「そうじゃなあ……『口詰めの病』であればあの薬箪笥で治せんこともないと思うが」

「じゃあ早いとこ治して、家族のところに返そうぜ。じゃないと、怒った親が襲ってくるかもしれないぞ」

「え……?」


 康平の言葉に、彩菜がゴクリと唾を飲んだ。妖怪に襲われるなんて、考えるだけでも卒倒しそうだ。


「彩菜や、とりあえずこの子を蔵の方へと案内しておやり」

「うん、わかった」


 彩菜は返事をすると、ヒナミを連れていこうと右手を差し出した。が、ヒナミは優介のズボンを掴んだまま離さない。


「それにしても、なんで優介がこんなに懐かれてんだ? ちっちゃな時の彩菜だって、こんなに懐いてなかったぞ」

「ちょ、ちょっと康平、バカなこと言わないでよ!」


 彩菜が顔を真っ赤にして康平を睨んだ。それを見て当の本人はけらけらと笑っている。


「良かったな、ヒナミが幼なじみじゃなくて。じゃないと今頃べったりだぞ」

「もう……」


 眉間に皺を寄せたまま、彩菜は肩をプルプルと震わせていた。いくら私でも、こんな小さな女の子に焼きもちなんてやかない。


相変わらず面白そうに笑っている康平を視界から外し、彩菜はヒナミの方を見た。その小さな手は、いつの間にか優介の左手をぎゅっと掴んでいた。その様子に、彩菜はまたも小さく唾を飲む。


 ……ちょっと、羨ましいかも。

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