新因業土怪奇譚・その1

青葉台旭

1.

 東北地方に、『新因業土』という場所がある。『にぃいんごうど』と読む。

 北側、西側、南側を険しい山々に囲まれ、東側は太平洋に面したリアス海岸の、小さな半盆地だ。

 半盆地内には、複数の町と村があり、それら町村を合わて『にぃいんごう地域』と呼ぶ。

 中で一番大きい自治体は啞々蒲ああかまという町で、地理的にも半盆地の中心に位置する。

 気候は夏涼しく、冬寒く、気流と地形の関係で雲が多く霧が発生しやすい。そのため、年間の日照時間は、東北の他地域と比べても飛び抜けて短い。

 歴史的に外界との交流が少なく、日の差さない閉鎖的な地域で婚姻を繰り返してきたせいか、住人たちは押し並べて肌が非常に白い。

 外からにぃいんごう地域へ入る陸路は、南側から伸びる整備の遅れた道一本で、深い山の中を右に左にくねくねと曲がり、急な坂をいくつも登って下りて、狭いトンネルを何本もくぐる必要がある。

 仙台を起点に出発したと仮定して、どんな高性能車をもってしても、ぶっ通しに休まず走って十八時間。(曲がりくねった極低速路だから、スポーツカーだろうがトラックだろうが速度に差が出ない。いや、路面の荒れている場所も多数あるから、そもそもスポーツカーでは到着できないかもしれない)

 朝六時に出発して、休憩なしで走り続けて深夜十二時にやっと到着する僻地だ。

 陸路の他に、船で海から入ってリアス海岸の奥に点在する小さな港のどれかに接岸する方法もあり、こちらは主に物資の輸送に使われている。ごく小さな客室を持つ貨客船も就航していて、積雪の影響で陸路が封鎖される冬場は、こちらが主な移動手段になる。東京から海路を使ってにぃいんごうに入る場合には丸一日、二十四時間を要する。


 * * *


 僕の名は、鈴高音すずたかねカズヒロという。

 東京郊外の中流家庭の次男として生まれ育ち、東京の中流私立大学文学部史学科の修士まで行った所で、理由わけあって、勉強も、東京暮らしも、突然いやになった。

 修士終了後は、どこか知らない土地で暮らしたいと大学の求人票をめていたら、啞々蒲ああかま町立歴史民俗博物館なる施設が学芸員を募集していると知り、にぃいんごう地域のことも啞々蒲ああかまという町のことも知らないまま応募した。

 ひと月後、色が白くて表情の暗い女性面接官と東京で会って、一時間ばかり専門分野に関する話をして、最後に「どれくらいの期間、啞々蒲ああかまで生活するつもりか?」という質問に、勢いまかせの出任でまかせに「一生涯、お世話になる気です」と言って別れたら、その効き目があったのか、二週間後に採用通知が送られて来た。


 * * *


 三月下旬、僕は旅行鞄ひとつ持って実家を出た。

 新生活に必要と思われる品の大部分は、すでに船便で送ってあった。

 電車で竹芝埠頭まで行き、牛丼チェーンで早めの夕食を摂って、午後五時出航の貨客船に乗った。

 定刻通り航行できれば、翌日の午後五時ににぃいんごうの『月夜濡つやぬれ』という港町へ着岸するはずだった。

 乗船前におかから見たその船は、船体後部に小さな船橋があるだけの単なる貨物船にしか見えなかった。

 切符を見せて船内に入ると、船橋の根元にカーペット敷き雑魚寝六人の客室が二つあるきりで、僕は(なんだ『貨客船』とは名ばかりの、申し訳程度に小っちゃな客室をこしらえたただの貨物船じゃないか)と思った。

 狭い客室を出ると、狭い廊下の先に男女それぞれのトイレと、ゴミ箱、そして自販機コーナーがあった。ソフトドリンク、アルコール飲料、カップラーメンの三台の自販機が並んでいた。

 航海中、乗客が行き来できるのは、二つの雑魚寝六人部屋と、廊下、トイレ、自販機コーナーというく限られた空間だけで、これから二十四時間この狭いエリアに閉じ込められるのかと思うと気が重くなった。

 どうやら僕の他に乗客は、隣の船室に入った初老の男一人だけらしく、航海中、僕にてがわれた六人部屋を独占できるのが、せめてもの救いだと思った。

 僕の気持ちを暗くさせた原因がもう一つあった。

 船員たちの雰囲気だ。

 皆、驚くほど色が白く、何だかヌルヌルした感じで、両目の間が離れていた。何となく、洞窟の奥で独自に進化した両生類か、あるいは深海から引き揚げられた新種の深海魚を連想させた。

 僕が向かっている土地は北国で、しかも日照時間が非常に短い気象環境らしい。閉鎖的な社会の中だけで婚姻を繰り返して来たという話も聞いた。

 この船に乗務している者は全員、にぃいんごうの出身者なのだろうか?

 だとすれば、誰も彼もが似たような暗い雰囲気をまとわり付かせているのも納得できるような気がした。


 * * *


 船が港を離れ、検札に来た乗務員に切符を見せると、何もする事が無くなった。

 手荷物からノートパソコンを取り出して開いてみるが、もちろんワイファイなどという気の利いた代物があるはずもなく、陸地から離れるほど携帯電話の電波も弱くなり、じきに『圏外』になった。

 一冊だけ持ってきた文庫本を出して、自販機コーナーで買った缶ビールをチビリ、チビリとりながら、船室の壁に寄りかかって読んだ。

 こんな事なら、乗船前にコンビニで乾き物のツマミでも買っておけば良かったと思ったが、今さら仕方が無い。

 ビール缶が空になって、廊下へ出てリサイクル用ごみ箱に缶を捨て、自販機からもう一本買って客室で飲んだ。

 さらにもう一本。

 さすがに酔いが回って、空いた缶をごみ箱に捨て、客室に戻ってゴロンと横になった。

 すでに日没して、船窓の外は真っ暗だった。

 ディーゼル・エンジンの「ジーン」という振動が、床のカーペットから背中へ伝わって来る。

 風も無く、波も比較的静かではあったけれど、房総半島の南端を回って、東京湾から外洋に出ると、やはり少しだけ船の上下振幅が大きくなった。

 アルコールの酔いと船の揺れで、三半規管がいよいよ狂ってきたらしく、天井がグルングルンと回り出した。僕はあわてて目を閉じた。

 やがて僕の意識は、眠りの中へ沈んでいった。


 * * *


 どこかから声が聞こえて来た。

 最初は、何を言っているのか分からないほど小さな声だったが、次第に大きくなり、やがて聞き取れるようになった。

「何の特徴も無い男だな。美男でもないし、知能あたまが良いようにも見えん。肉付きも悪いし、運動が出来るようにも、芸術の才能があるとも思えん……これではの旨味が無い」

 こんな事を言う男の声が、どこからか聞こえてきた。

 夢を見ていながら『いま、自分は夢の中に居る』と自覚する……多くの人が、しばしば経験する現象だ。夢の中に居ると自覚していながら、どうしても目醒めざめられないという現象も。

 その時の僕が、ちょうどそんな状態だった。

 どうしても目を開けられない。

 指一本動かせない。

 暗闇の中、最初の声とは別の男の声が聞こえた。

「まあ、仕方が無い。こんな奴でも久しぶりの〈外の人間〉だ。贅沢を言うな。にぃいんごうに五十年間も住み続ければ、熟成して良い味になろう」

「長居するのか?」

「永住するつもりだと本人は言っているそうだ」

「五十年……そこまでつか? 適当な所でした方が効率が良い気もするが……」

「いずれにしろ、じゃないさ」

 夢の中の暗闇で会話をしていた二人の男たちが、どこかへ去っていく気配がした。(夢の中で、そんな風に感じた)

 そこで一旦いったん夢が終わり、僕の意識は暗闇の中へ溶けていった。


 * * *


 ふたたび、僕の意識は夢の暗闇へ浮かんだ。

 前回の夢から一体いったいどれくらい時間が経過したのかは、定かでなかった。

 今度も、暗闇の中でただ意識が漂っている、それだけを自覚している不思議な夢だった。

 やはり同じように目蓋まぶた一枚、動かせなかった。

 誰かが近くに立っている気配がした。

 さっきの夢の中で話し合っていた男たちの、どちらか一方だろうと思った。

 男は僕の横に立って、僕をジッと見つめた……正確に言えば、ジッと見つめている

 理屈から言えば、目を閉じているのだから、そんなことが分かるはずもない……と一瞬思った。

 しかし次の瞬間には、これは夢の中なのだから理屈なんて関係ないのだ、とも思った。

 相変わらず、目を開けることは出来なかった。

 そのうち、(これは本当になのだろうか)と自問した。

 ひょっとして、これが所謂いわゆる金縛かなしばり』の状態なのではないかと疑ってみた。

 ……では、仰向あおむけに寝ている僕の横に立って、僕を見下ろしている男の気配は本物なのか……それとも僕自身の心が生み出した幻覚、思い込みのたぐいなのか。

 男の気配が動いた。

 僕の隣にひざまづき、僕の胸の上におおかぶさって来た。

 生臭い息が顔にかかった。

 それでも僕は目覚めることが出来なかった。

 気配だけを感じる男が、僕に対して何をしようとしているのかは分からなかったが、何か恐ろしいことをされるという予感があった。


 * * *


「やめろ」

 どこからか、第三の男の声が聞こえた。

 最初の夢で言葉を交わしていた二人の男らの、どちらの声でもなかった。

「その青年は、私の部下だ。いまされては、仕事に差しさわりが出る」

 低い、落ち着いた声だった。

「どうしてもと言うのなら、この狭い船室をけがさざるを得ないが、それも仕方ない……念のために言っておくが、この蝙蝠傘こうもりがさには直刀を仕込んである。おまけに……自慢するわけではないが、私は居合の達人だ。貴様の心臓を両断するくらい、千分の一秒もからん」

 次の瞬間、僕の胸の上に覆い被さっていた男が、ものすごい勢いで離れていく気配がした。直後、二つの重いものがカーペットの床に落ちる「ドサッ、ドサッ」という音が聞こえた。

 それっきり、僕の意識は再び暗闇の底へ沈んで行った。


 * * *


 目を開けた。

 船室の天井に埋め込まれた照明の光が網膜を刺した。

 今度こそ本当に覚醒めざめたのか、これは夢ではなく現実なのか……ボンヤリした頭で、そんな事を思った。

 仰向けに寝たまま、右手の指を動かしてみた。

 指が動いている、自分の意思で動かせている、という確かな感覚があった。

 起き上がって船室を見回した。

 入り口付近に男が居た。壁に背を預け胡座あぐらをかいて僕を見ている。

 出港前に隣の客室に入っていった、もう一人の乗客だと気づいた。

 洒落た三揃みつぞろいのスーツを着て、閉じた黒い蝙蝠傘こうもりがさを抱いていた。

 僕と、その初老の男との間に、大きな半透明のゼリー状の物体が二つ、横たわっていた。

覚醒めざめたか?」その初老の男が言った。「私の名は獅子村ししむら行研ぎょうけん。君は、鈴高音すずたかねカズヒロ君だろう?」

「はあ……」

「なぜ名前を知っているのか? ……という顔だな。私は啞々蒲ああかま町立歴史民俗博物館の館長だ。初対面だが、履歴書の顔写真は見たよ。それから君の引っ越しの日程も部下から聞いている。東京と啞々蒲ああかまを結ぶ船は少ない。私と同じ船に乗るだろうと予想していた」

「ああ、なるほど……よろしくお願いします」

 僕は、博物館々長と自分との間に横たわる不気味な半透明の物体に視線を移した。

「あの……これは……何ですか?」

「名前は無いよ。強いて言えば、我々はこれを『海から来るもの』と呼んでいる」

「生き物なのですか?」

「生物とも言えるし、そうでないとも言える。生物とは何ぞ、という定義そのものを曖昧にする存在だ……まあ、化け物だ」

 僕は、この初老の男の言葉を聞くうちに、だんだん彼の精神を疑いたくなってきた。

 本当に、こいつは僕の上司となる人間なのだろうか? 本当に、博物館の館長なのだろうか?

 その時、ゼリー状の二つの物体の輪郭が崩れて、船室のカーペットにドロリと広がった。

 ものすごい悪臭が立ち昇って船室に広がり、思わず嘔吐しそうになった。

「さあ、こんな化け物の死体の処理は船員たちに任せて、隣の客室へ移ろう」

 言いながら、博物館長と名乗る男が立ち上がった。

 僕は黙ってうなづいた。

 悪臭を吸わないよう息を止めていたから、返事が出来なかった。

 立ち上がって手荷物を持ち、ゼリー状の物体からなるべく距離を取るため壁に沿って歩き、船室の出口で待つ男の所まで行った。

 船室から廊下へ出て扉を閉め、やっと大きく息を吸う。

 船室のドアは気密性が高いらしく、閉めると悪臭は大分だいぶ収まった。

 潮の匂いとディーゼル油の匂いが混ざった船内の空気でも、あの不気味な物体が放つ臭気に胸を濁した後では、何とも言えず清浄に感じた。

 廊下を歩く館長の後ろに付いて、隣の船室へ移った。

 部屋に入るなり、彼は入り口横のカーペットの上にゴロンと横になった。

「慣れていないと、船に乗っているだけで体力を消耗するからな。静かに寝ているのが一番だ」

 そう言ったきり、彼は壁の方を向いて動かなくなった。

 仕方なく、彼とは反対側の窓際まで行って、僕もカーペットの上に仰向あおむけになった。

 これが僕の、長く長く続くにぃいんごうでの生活の、第一歩だった。

 そこは澱んだ雲が天を覆い、町の通りを瘴気が流れ、生物とさえ言えない奇怪なものどもが海から這い上がり森を彷徨さまよう、異様な人外の魔境だった。

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