拾弐、いとしきもの

 絲がどこか一点を見据え、右手を動かしはじめた。

 一針、一針、しっかりと何かを縫っていく。

 佐田彦の発した言葉は、「言霊」となり、絲に正しく掛けられた。

 彼女は今、見えざる糸で、結界の綻びを縫い付けているだろう。事実、手が進むごとに、瘴気は薄くなっていく。

 佐田彦が捕らえる悪鬼が怒り、暴れようとするのを、拳を握って押さえつける。

 邪魔はさせない。

「みっともないではないか。悪鬼ともあろうものが、小娘一人に怯え惑うとは」

 挑発の言葉をかけると、瘴気は蠢き、色を強くする。

 怒れ。

 こちらへ気を向けろ。

 俺が成すべきことは、今、ここにいる悪鬼を退治する、それだけであろう。

 ざっと木の葉がざわめいたかと思えば、上から何かが降ってくる。咄嗟に手を伸べると、馴染んだ感触の木刀で、佐田彦は目を剥いた。

「この俺様が用立ててやったのである。感謝するが良いぞ、神使!」

「おまえ――」

「ついでに、あの大男からは符を頂戴して参った。ぐるりと一周、この場を封じてやったわ! 鬼めは神社からは出られぬのである!」

「よくやった、白旺」

「貴様のためではなく、絲のためなのである!」

「それでよい」

 空を舞った白旺がくるりと回転し、絲の傍へ着地する。そして、なにやら地面に書き付けはじめた。

 人の指に似た前肢を器用に動かし、防御の陣を描く。おそらく、助六の差し金なのだろう。

 悔しいが、あの男はやはり有能だ。

 雷獣もまた、驚くべき機転の良さを発揮している。

 その心は、己ではなく、絲に向けられたものであることはわかっているけれど、白旺がいなければこうして動くことは出来なかったに違いない。

 木刀を横へ払った。

 放たれた気が、瘴気を霧散させ、動線上の枝が弾け飛んだ。

 再び集合しはじめた鬼の気配は、それでも先ほどよりは小さくなる。今度は下から凪ぎ払い、返す刀に両手を添えると勢いのままに振り下ろす。

 二つに割れた鬼が上空へ逃げ、境内に残っている瘴気の欠片をかき集める。

 ――させぬ。

 腰を落とし、膝を伸ばして勢いをつけると、空へ飛んだ。

 その途中、突き出している大木の枝を経由して、さらに上空へ。収束する鬼の上へ舞い上がる。

 雲が途切れ、月が顔を出す。

 落とす視線の先、月光の中にあっても黒々と輝く、闇の塊が見えた。

 悪鬼の核だ。

 佐田彦は、口の端を吊り上げて嗤う。

  ――ね。

 木刀を持ち替え、剣先を下へ向けると、落下の勢いを乗せ、塊の中心へ刃を突き立てた。

 鼓膜を揺るがすほどの断末魔が響く中、鬼が、最期の足掻きの如く、呪詛を振りまく。


 常世に生きながら、神になれぬ、はぐれ者。

 現世におっても、属することができぬ、はぐれ者。

 おまえはどこにおっても、行き場のない余所者だ。

 神を妬み、人を恨み、鬼を厭う。

 憐れよのう。


「それがどうした。俺は人だ。俺を貶めた奴等となんらかわらぬ。弱くて狭量で、どうしようもなく憐れな『人』だ。だが、それでよい。俺は、俺の大事なものがこの手にあれば、それでよい」


 すべてを守ることなぞ、出来はしない。

 ならば、せめて。自身の周囲だけは、平穏でありたい。

 世のすべてを見守るのは、神々の仕事だ。

 自分の手には余る行い。

 なにせ、自分は稲荷神の神使で。

 神様に仕える奉公人でしかないのだから。


 たもとに残っていた一枚の符を、一寸ほどの大きさになった核へと貼り付ける。

 ぶるりと震えた核は崩れ、煤と化したそれが符の中へと吸い込まれ、墨字となって固まった。

 封じた符は一度、常世へと奉じた方が良いだろう。

 そういえばと絲を見やると、白旺の描いた陣の中央に座りこんでおり、佐田彦は慌てて駆け寄った。

「お絲、無事か」

「あ、旦那。えっと、私は平気なのだけど」

「だけど、なんだ」

「夢中だったのよ。一面が真っ黒い反物のように見えて、その中に裂け目が見えたの。せっかくの反物が勿体なくてね、縫い合わせたのよ」

「そうか」

「ねえ旦那。あれが結界というものなの?」

「明確な形があるものではないからな。人によっては扉に見えるであろうし、それこそ石垣や土壁のように見える者もおるだろう」

「綻びは縫えたのかしら……」

「なかなか見事な仕立てであると、思うよ」

 不意に耳へ滑り込んだ声に、佐田彦は仰天し、そちらへ振り向いた。

「息災だね、佐田彦」

「宇迦さま」

「うか?」

「宇迦之御魂神さま。稲荷の神だ」

「そ、それは大変失礼いたしました」

 平伏する絲に、宇迦はくすりと笑う。

「そうかしこまらないでくれないか。こちらこそ、佐田彦が世話をかけておる」

「いえ、そのようなことは」

「佐田彦はすぐに溜め込んでしまうから、心配していたのだけれど、そなたのおかげで良い気に満ちておる。いつもずっとありがとう」

「ずっと?」

 顔を上げ、首を捻る絲。佐田彦を見やると、こちらもまた不審な面持ちで、宇迦は呆れた声を出した。

「なんだい佐田彦。ずっとこのの飯を食べて育ったというのに、気づいてすらいなかったのかい?」

「飯?」

「ねえ、娘さん。そなた、いつもここへ供えてくれていただろう?」

「……はい」

 初めて味噌汁を父親に褒められた時。嬉しくなって、竹筒に詰めたそれを稲荷神社へと捧げた。

 自分が萩屋の子供になったのは、この稲荷神社あってこそ。

 ありがとうの感謝を込めて、長屋にある小さな稲荷ではなく、絲はいつもここを訪れる。

 お狐様がお好きだろうと思い、油揚げを刻んで具にした味噌汁と、握り飯。

 それが、絲がいつも稲荷神社へと供えたものだ。

 両親を手伝って褒められたことや、兄と喧嘩をしたこと。縫い物をすることが好きなことや、それで銭を得る仕事がしたいこと。

 日常のあれこれを含め、供物と共に、話しかけてきた。

 お狐様、あのね――



「たまに、供物がなくなるの。だから私は、きっとここにお狐様はいらっしゃるんだわって思って、止められずに続けてきたのよ。だから旦那のことも、お狐様なのだって思って……」

 そう呟く絲に、佐田彦は息が詰まる。

 あの日、ここで出会った絲がくれた握り飯。

 そして、団子屋に招かれて食べた、あの味噌汁。

 身体に染み渡るような、喉を喜ばせた、あの味。

 初めてなのに、知っているような心持ちとなった感覚。

「おまえは時々、驚くほど疎いねぇ」

 楽しげに笑う宇迦を、佐田彦はぎろりと睨む。それをにこやかに流して、宇迦が手を伸べた。

「符は、わたしが持ち帰ろう」

「しかし、これは俺の仕事で」

「それを頼んだのは、わたしだよ」

「ですが――」

「ねえ、佐田彦。常世へ戻りたいかい?」

 問われ、言葉に詰まる佐田彦の隣で、絲が身を固めたことがわかった。ちらりと見下ろすと、俯き、表情は窺えない。けれど、握りこんだ小さな拳と僅かに震える肩から、感情は伝わってくる。

「いつか言ったことを覚えているかい?」

「なんのことでしょうか」

「いつまでおればよいのかとおまえが訊ね、飽くるまで、とわたしは答えた」

「そうだったでしょうか」

「あちらはおまえを縛る場所ではないのだよ。生きたい場所で生きればよいのだ。どこにいたって、おまえはわたしの神使なのだから」


 生きたい場所など、考えたこともなかった。

 他に選択肢なぞ無かったから、あそこで生きるしか、道はないと思っていた。

 だが、今はどうだろう。

 どちらの世界を選ぶのか。

 似た問いを、先だって聞いたことを思い出す。

 同じこの場所で、宇迦が紅丸に問いかけたのだ。

 その時、小さな神見習いはなんと答えたか――


「……よいのでしょうか」

「よいよ。おまえに掛けられていた呪は、解けた。おまえが自分で自分に掛けていた縛りは、もうないのだよ」

「――俺は、愚かですね」

「だから、人は愛しい存在なのだよ」



 ◇◆◇



 二礼二拍手一礼。

 小さな祠に手を合わせる。

 長身の佐田彦の胸の高さほどにある絲の頭に、どこからか漂ってきた花弁が一枚、着地する。

 そっと手を伸ばすと同時に、絲が伏せていた顔を上げ、花弁はひらりと舞い落ちた。

 ふわりと空中を舞うそれを捕まえようと、二人の間にいた紅丸が両手を伸ばし、足元にいた白旺の尾を踏みつけたため、ぎゃんと声が上がった。

「ええい、きちんと見ぬか、小豆丸」

「べにまるだもん」

「おまえが俺様をきちんと呼ぶのなら、考えてやらんでもないのである」

「いと、にゃーがいじわるいう」

「だからにゃーではないと何度言えばわかるか、小豆丸め」

「こーら。喧嘩しないの二人とも。せっかくお揃いの着物なんだから、仲良くしなさい」

 着物というが、雷獣が纏っているのは、首に巻き付け、風にそよぐ小豆色の布である。白旺自身はひどく気に入っているのか、結び目の位置やら角度やらにこだわり、あれやこれやと注文をつけるので、佐田彦としては時折、そのまま首を絞めてやりたい衝動に襲われる。

 同じ色の袷を来た紅丸は、境内をうろうろと歩き回っている。

 あの一件の後、助六も交えて結界を整え直した。向こう数百年は大丈夫だろうと言い、山へと戻っていった。最後に付け加えていった余計な一言が頭をよぎると、つい苦渋の面持ちとなる。

「稲荷神さまは、なにかおっしゃっていた?」

「いや、特に。ただ、衣を欲しがっておるようだな」

「衣?」

「玉藻が自慢をしたらしい。仕立ててやったのだろう?」

「手直し程度よ。――でも、神様の御衣を縫うだなんて、やっぱり畏れ多いわ」

「あの巾着でも良いのではないか? 評判なのだろう?」

「あれは兄さんが勝手に広めて、勝手に注文を請け負ってくるだけよ」

「宇迦さまはああいった細工がお好きだから、喜ばれると思うがな」

 言うと、絲は困ったように眉を下げる。

 そして思い出したのか、問いかけてきた。

「ねえ旦那。あの夜着の寝心地はどうかしら?」

「ぐふ」

 息が上手く吸えず喉が詰まり、奇妙な音となる。慌てて背中をさする絲の小さな手が、さらなる動揺を誘った。

 丈が少し足りていない借り物の夜着を使っていたが、絲が大きな夜着を新調してくれた。なんでも、直太郎の伝手を使い、質の良い大きなものを探させたのだという。

 温かく、紅丸がどれほど転がっても平気なほどにたっぷりとしたそれは、使い勝手も悪くない。助六が余計なことさえ言わなければ、単純に喜ばしいだけで終わったのだ。


 ほう。良い寝床になったじゃないか。

 これで共寝も問題ないな。

 次に来る頃には、稚児ややこにお目にかかれるかね。

 紅丸の弟か妹を楽しみにしておこう。

 せいぜい、励め。


 あのド腐れ坊主が。

 やはりもう一発殴っておけばよかったと思いつつ、佐田彦は呼吸を整える。

 早鐘を打つ心の臓に気づかぬ振りをして、「平気だ」と絲に声をかけた。

「いと、さたひこ、おはなさいてるの」

 あっちだと手を引かれ、奥の方へと歩を進める。

 木漏れ日の中を、三人と一匹で歩く。

 湿り気を帯びた枯葉を踏みしめていると、向かう先から光が漏れる。

 薄紅に染まる小さな花がちらちらと覗く木が、そこにあった。

「これは、桜、か?」

「そうよ。もしかして、常世に桜はないの?」

「どこかにはあるのだろうが、俺は知らぬ」

 桜は、遠くに見るものだった。

 皆が愛で、和やかに集まるところを、遠くからそっと眺めるだけのもの。

「桜とは、こんな花なのだな……」

「まだ咲き始めたばかりよ。もっともっと、ここいらはたくさん咲くわよ」

「たくさん?」

「そうよ。満開になったらお花見に来ましょうね」

「……それは、楽しみだな」

「春はすぐそこよ」

 ほころんだ蕾が開く頃を思い、佐田彦の顔もゆるむ。

 先のことを考え、楽しみに思える心が嬉しい。

 季節は巡る。

 だから人の世は美しいのだ。

 ぐるる。

 不粋にも腹が鳴る音が響き、佐田彦は腹に手を当てる。

 絲が弾かれたように笑い、声をかけた。

「帰って、昼餉にしましょうか」

「ぼくおしるこたべる」

「はいはい」

「俺は――」

「旦那はお味噌汁ね」

「ああ。ところでお絲」

「なあに?」

「また戻っておるのだが」

「――あ」

 指摘すると、どこか恥ずかしげに「まだ慣れていないのよ」と呟く。

 ひとつ小さく息を吐き、絲は今度こそ、それを口にした。

「佐田彦さま」

 満足げに笑い、佐田彦は絲の手を取り、歩き出す。

 自分には、帰る場所がある。

 やっと手にいれた大切なものが、ここにあるのだ。

「そういえば、前から気になっていたのだけれど」

「なんだ?」

「佐田彦さまは、おいくつなの?」

「さてな。現世での年月で換算すると、ざっと、二百歳ほどか?」

「――――え?」





 <了>

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