九、夜叉子

 夜九つ半(午前一時)を過ぎた頃、佐田彦は一人、稲荷神社へ向かった。

 提灯を持たずとも、その足取りに不安なところは感じられない。神使の身体は、暗い場所であったとしても、そう問題はないのである。

 薄くかかる雲が夜空の月を隠し、また時折その姿を晒す。まるで明滅しているような様相だ。

 黙したまま歩み続け、見慣れた稲荷へと辿り着く。

 色褪せた鳥居は半ば倒れかけており、たしかにこれでは、化け物稲荷と称されても仕方がないだろう。

 この稲荷がどれほどの年月をこの地で過ごしてきたのか、佐田彦が記憶しているかぎり、当時はまだもう少し大きく、立派であったように思う。

 だがそれも、子供の目に映った景色だ。

 誇張され、大きく感じただけだと言われてしまえば、否定する言葉は持たない。

 感傷めいた思いが胸の内を巡るのは、一体何故なのか。紅丸と訪れた時には、そんな風にはならなかったというのに。


 紅丸。

 その名を頭に浮かべた時、どろりと渦巻く何かが胸に広がった。

 あの子供を見ていると、しばしば、もどかしい感覚に襲われる。

 それは絲と戯れている時が顕著であり、同じ空間に居ながらにして、ひどく遠い気がしてしまうのだ。

 判別のつかない感情。

 それは一体何なのだろう。


 羨ましい。


 そんな言葉が湧き出てきて、佐田彦はひやりとした。

 なんだ、それは。

 不快げに眉を寄せた時、再び感情が湧いてくる。


 羨ましい。

 妬ましい。


 じわりじわりと重苦しい感情が襲ってくる。

 背中からどろりと重い何かがのしかかってくる。

 身の内から湧きあがった感情が、どろりどろりと身体中へ広がっていく。

 佐田彦はたもとからを取り出すと、周囲を見渡す。助六から押し付けられたそれが、挟んだ指の間でじくりと熱を持つ。

 反応があるということは、やはりこの稲荷のどこかに、悪鬼がいるのだ。

 ごくりと唾を呑む。

 底冷えする空気の中、汗が滲んでくる。

 舐めまわすように視線を巡らせる中、身の内で何かが蠢いた。

 心の臓が速度を早める中、やがて佐田彦は気づいた。

 これ・・は、己の中にいるのだ、と。

 背中を一筋の汗が流れる中、佐田彦の内の鬼が嗤った。


 羨ましいのだろう? 紅丸が。


 鬼が言う。

 下卑た言葉の中に、寄り添うような優しさを交え、佐田彦に語りかける。


 何故、あの童だけが救われる?

 誰にも顧みられず、捨て置かれ、いずれ鬼になったやもしれんのに。

 けれど、救い出された。

 声を掛けられた。

 笑みを向けられた。

 手が差し伸べられた。


 俺の時は、誰も助けてくれなかったのに――



 湧き出した言葉が胸をむしばみ、佐田彦はよろめいた。



 ◇◆◇



 己の状況がおかしいのかもしれないと気づいたのは、五つを迎える頃だっただろうか。

 あるいはそれ以前から、どこか歪んでいることに気づいていたのかもしれないが、それが明確になったのは、父の姿を見なくなった後だった。


 うじは知れない。

 けれど父はそれなりに名の通った家柄の男であったのだろうと、思う。

 屋敷は広く、己と母が住まう建屋とは違う物が、あと幾つか建っていた。それらを繋ぐ廊下を堂々と歩く父の姿は、幼い子供の目にも威風堂々と映り、乳母がよく称賛していたことを覚えている。

 乳母は年老いた老婆であり、話に聞くところによれば、父を育てた乳母であるらしく、その子供の世話をすることを、とりわけ喜んでいたらしい。

 だから、なのだろう。

 面倒を見ていた子供が、息子ともいえる男の血を引いてはいないのだと知った時、逆上し、憎々しげに罵った。

 乳母をはじめ、まわりの者すべてがこちらを遠巻きに見るようになった。

 生け垣に囲まれ、外からの目が届きにくい離れへと居住が移ったが、庭は広く、遊びには事欠かなかった。もともと遊び相手もおらず、常に一人でいたものだから、そのことを特に不満に感じることもなかった。

 ただ、少し不自由だな、と思った程度のことだった。


 居住が移った頃から、母の様子が顕著におかしくなった。

 元より、自分を見る目が厳しいと感じてはいたが、嫡子たる者、厳しく躾ねばならぬという言葉に、よくわからないなりに、納得していた。

 父上のような立派な人になるために、私は強くあらねばならぬのだ。

 己を律する子に、母はおぞましいものを見る目を向ける。

 ある夜、離れに父が渡ってきた。

 久しぶりに見る父の姿に、胸を高鳴らせ、傍へと寄る。

 そして「父上」と声をかけ、手を伸べたところ、それが届くより前に、父の大きな手によって、振り払われた。

「触れるでない、けがらわしい」

 父の傍に控える男たちによって引き離され、自室へと追いやられる。見知っている二人の男は、もはやこちらへ声をかけることもなく、手で触れることすらいとい、棒きれを突きつけて「大人しくしておれ」と告げるのだ。

 その無機質な眼差しに、心が冷えた。

 遠く、母の声が聞こえた。

 泣き叫ぶような声と、父の重々しい声が交互に聞こえ、ただ膝を抱えて待った。

 やがて声が止み、ふすまの外も静かになった。

 そろりと這い出てみれば、庭に面した廊下の柱に身を預けた母が、ぼんやりと月を見上げている。

 青白く、幽鬼のような姿に震えながらも、母上、とそっと声をかける。

 すると母は、ゆるりと振り返り、こちらを目に宿した途端、般若のような顔となり、金切り声をあげた。

「おまえさえ。おまえさえ居なければ、このようなことにはならなかったのに」

「何故、生まれてきた」

「鬼め」

「わたくしのあの方を返せ」

「鬼の子っ」




 それから幾らも経たぬうちに、屋敷を後にした。

 離縁したのだと理解したのは、母の生家で暮らすようになって数年が過ぎてからである。五つの頃の知識では、縁組のことなど、理解の範疇外だ。

 父ほどではないにしろ、母もまた身分のある家の生まれであったらしい。

 家へ戻った母は、両親に迎えられたが、連れていた子供の方はといえば、その処遇に困っていたようではある。

 当たり障りのない扱い。

 最低限の飯と衣服は与えられたけれど、以前のように側仕えがいて、なにくれと世話をやいてくれるような生活からは、縁遠くなってしまった。

 話しかけても、不気味なものを見る目付きをされるのみ。

 遠巻きにひそひそと何事かを囁かれるが、それだけだ。

 母からは引き離された。

 部屋への立ち入りは禁じられ、母の目につくような場所へ行くこともまた禁じられた。

 板塀に囲まれた小さな庭で土をいじり、虫を追い、草木を眺めるだけの生活が続く。

 部屋の隅に重なっていた草紙に気づいてからは、それを読みふけるようになった。

 父の屋敷に居た頃に教わった読み書きが役に立ったなと、ぼんやりと考えた。


 母の生家に戻ってから月日が流れる。

 長じるにつれ、より濃くなる容貌の異質さ。

 その頃になると、自身の出自についても察せられるようになっていた。

 母が吐く怨嗟えんさの声――その内容。

 それによると、約束された晩、寝床に忍んで来た男は、言い交わした相手ではなく、どこの誰とも知れぬ異形の者であったのだ。

 人間のなりをしたその者と、母は通じた。

 家の者はもとより、母ですら相手を疑わなかったというのはどこまで本当なのか。

 ただ、事に及んだ後にうっすらと月明かりに見えた相手が、自身が望んだ相手ではなかったことに気づいた時にはもう遅く、母の悲鳴にその者は逃げ去った。

 事実は秘匿され、翌日になってやってきた父と事を成し、元から交わしてあった約束通り、二人は夫婦となった。

 あの恐るべき一晩が幻であれば良かったが、産み落とした子は果たしてどちらの子であったのか。

 五つになる時分には、己とは似ても似つかぬ異質な顔つきの子を男は不審に思い、また、日に日に子に対する態度を固くしていく女の態度にも違和感を抱く。

 女の生家に問いただし、突き止めた事実は許しがたいことであり、自身の血どころか、異人の血が流れる子供など、置いておくわけにはいかなぬと判断したのは、致し方ないことだと。

 何年も経った後に、そう感じた。


 母は、段々と気を病んでいったようである。

 叫び声、父の名を呼ぶ声が昼夜を問わず響き渡り、使用人の多くが耐えがたいように辞めていった。

 人の数が減ったことで、何をしていたとしても、咎められる機会が減っていった。

 たいした問題を起こさぬ子だと判断されたのやもしれないが、もっともたる理由は、夜叉子の近くになぞりたくはない、ということなのだろうと、うすぼんやりと察するようになる。

 飯の数が減り、思考が定まらぬ日が続くようになる。

 そんな頃、板塀の隙間から通りの様子を窺えることに気づいて、気まぐれに時折、覗くようになった。

 親と子。

 その関係を遠くに見て、己の境遇を振り返ると、なんともいえない心持ちとなった。

 幼き頃――、まだあの屋敷で、男を「父上」と呼んでいた頃。

 父のまなこが陰りを生むようになったのは、いつの頃だったのだろう。

 通りを行く子供らのように、頭を撫でられ、抱きかかえられた記憶は、いくら探ってみても見つからなかった。もとから情の薄い男だったのか、当主として甘い顔を見せぬようにしていたのか。

 もう、そんなことはどうでもよかった。

 そんな男のことをまだ慕い、呼び続ける母が憐れだった。

 狐憑きと囁かれ、使用人にすら見放されていくこの家はどうなっていくのだろうと、そんなことを考えるようになった頃に、状況は一変したのである。



 その年はたまたま天候に恵まれず、かつてないほどの飢饉に陥った。

 以前より、ゆるやかに衰退していた村は、それが原因で一気に傾いた。

 そして誰かが言い始めたのだ。

 あの屋敷のせいだ、と。

 離縁された狐憑きの女。

 その息子は、鬼の子である。

 いや、鬼が母を狐憑きへと変容させたのだ。

 農具を振りかざし、屋敷は襲撃を受けた。

 門は倒壊し、庭にある大きな蔵の扉は無惨にも壊され、溜め込まれた米や芋に民は群がる。

 家人は屋敷の奥深くへ立て籠り、暴動は加速する。

 縁の下へ隠れていたが、逃げることもできず、ただうずくまって待った。

 何を待っていたのか、自身でもわからぬまま蹲っていた子供を、一人の男が発見する。

 いつの間にか日は暮れ、松明の火がいくつもいくつも、夜の闇に人魂のように浮いている。

 いたぞ、夜叉子だ!

 殺気混じりのその声を合図に、駆け出した。

 屋敷の外へなど一度たりとも出たことがないため、何処へ行けばいいのか判別もつかない。

 暗闇に乗じ、ただひたすら走り続ける。

 何年も、顧みられることのない生活を送っていた。

 枯れ枝のような細い手足で、糸のほつれた丈の合わない短いぼろぼろの衣で、あてもなく走る。

 草履もなく、細かな石が足の裏を刺すが、痛みよりも恐怖の方が勝っていた。

 遠く背後から、呪詛のような響きが聞こえる。


 あの子供を捧げろ。

 神への供物とせよ。

 鬼の子ひとりで済めば、儲けものだ。


 足元の石につまずいて転んだ目の先に、祠が見えた。

 朱色に塗られた鳥居の先にある、小さな祠。

 咄嗟に駆け寄り、扉を開く。

 子供の背丈ならば収まるほどの大きさのそこに逃げ込み、内側から扉を閉じた。

 足を止めたことで、どくりどくりと音を立てる鼓動が、太鼓を打ち鳴らすように身の内に響く。その音が漏れてしまうのではないかと不安に駆られ、緊張のあまり息が浅くなる。

 震える手が床を這い、指先に小さな何かが触れる。

 砂粒か小石のような何かを摘まみ、扉から漏れる僅かな月光に照らすと、それは米の粒であった。

 神社へ奉じた供物。

 米と知った途端、腹の虫が騒いだ。

 最後に飯を口にしたのは、三日ほど前のこと。捨て置かれた残飯を隠れて摘まみ食いしたのが最後である。

 ごくりと唾を呑んだ。

 生の米なぞ、喰えたものでもなかろうに、それでも震える指は止まらなかった。

 がり、と、石を砕くような音を立て、それを唾で飲み込む。

 走ったことで喉が乾き、唾すらままならない。

 懸命に唾液をかきあつめ、一粒ずつ口へ運んでいく。

 一心に、米へ集中するあまり、外の様子に気づくのが遅れた。

 気づけば外から光が漏れており、米を運ぶ手を止めた。


 もう、よいではないか。


 そんな感情が飛来した。


 もとより必要とされていなかった身なのだ。

 今さら、誰がこの身を惜しむというのだ。


 震える手で扉を押し開ける。

 その先に広がっていたのは、黄金こがね色に輝く葦原だった。


 ついに死んだのだと思った。

 絵巻物で見た極楽浄土。

 夜半であったはずの空は青く、柔らかな風が剥き出しの肌を撫でていく。

 しゃらしゃらと鳴る不思議な音は、一面の穂が奏でているのだろうか。

 枯れ果て、飢饉に喘いでいたことが嘘のような、眩しいまでの風景が、目前に広がっている。

 背中をさわりと風が撫で、はっとして振り返ると、そこにあったはずの祠が消失していた。

 遥か彼方まで見渡せる黄金色。

 気の遠くなるほどに広い世界。

 指で摘まんでいた米の粒が、力なく地へ落ちた。

 と同時に、青々とした葉が茂り、足首から膝の高さへ、そして腰の高さにまで伸びながら、胸の高さへ到達する頃には穂を膨れさせ。

 色を変えて、こうべを垂れた。


「おや、どこの童か?」

 頭の芯に直接響くような、明瞭で涼やかな女の声がした。

 美しい衣を纏い、髪を結いあげた女が立っていた。

「ほう。現世うつしよの子供だね。どうした?」

「……私は死んだのですね」

「そういうわけではないよ。そちは迷いこんだだけじゃ」

「死んだわけでは、ないのですか?」

「良い。付いておいで。ここでは話にならぬ」

 白く細い指が向けられて、けれど何故かそれがひどく恐ろしかった。

 結局、その手を取らず、後を付いて歩き、豪奢な屋根の館へ辿り着く。

 鼻先に漂った飯の匂いに腹が鳴り、女はくすりと笑うと、大きな丼に白米を盛って供してくれた。

 むさぼるように喰らい、腹を満たすと眠気に襲われ、次に気づいた時にはすだれに囲まれた場所で眠っていたことに気づく。

 極楽だと思ったことはあながち間違いではなく、そこは神々が住まう常世の国であると教えてくれたのは、自分を迎えてくれたあの美しい女であり、宇迦之御魂神うかのみたまのかみという名の神だった。

 その神が言うことには、自分は供物を臓腑へ入れたことにより、常世への入口を通ってしまったのだという。

 そして今、常世の飯を喰らったことで、一時的にこちらの住民となっているのだと、そう語った。

 いずれ帰ることが出来ると言われたが、首を振った。

 帰る場所なぞ、どこにもない。

 あちらへ戻ったところで、きっと逆戻りだ。

 人柱となって、命を捧げるだけなのだから。

「そうかい。ならば、今しばらくは居るがよい」

「しばらくとは、いかほどですか」

「おまえが飽くるまで」

「なにをすればよいのですか」

 何もなさぬまま居場所を得られるなど、思っていない。

 己は厄介者なのだ。

「……そうだね。では、わたしを手伝ってくれるかい?」

「承知いたしました」

「では、名を伺おうか」

 笑みとともに問われ、息が詰まった。

 自分は鬼の子だ。

 人の名なぞ、とうに失くしている。

「――私はもうあちらでは死した身。名なぞ、必要ありませぬ」

「そうかい。では、新たに名を与えよう。かまわぬか?」

「仰せのままに」

「では、今この時より、そなたは佐田彦。稲荷神の神使として、励むがよい」

「はい、宇迦之御魂神さま」

「宇迦でよい」

 女は穏やかに微笑んだ。

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