八、繋ぐ者

 娘が針を持ったのは幾つの時であったのかは覚えていないが、糸を手にしたのはそれよりもずっと前のことである。

 物心つく前、赤子の頃に娘は、それを手にしていた。

 何かの糸束いとたばを小さな手に握った赤子を男が発見したのは、自身の娘を埋葬した帰りのことであった。

 死産であった娘。

 その亡骸なきがらとさほど変わらぬ大きさで動く赤子を捨て置くことなど到底できず、男は赤子を連れ帰り、臥せっていた妻は己の乳を与えた。

 死したはずの娘が戻ってきたような心持ち。

 寂れた神社に捨て置かれた扱いからかんがみるに、赤子の未来を絶つことを願っているとしか思えなかった夫婦は、赤子をこのまま娘として育てると決めた。

 赤子は豪奢な布で包まれており、金色に輝く糸を握りしめていたことから、「いと」と名付けられた。



 ◇◆◇



「一緒に来たところで、とくになにかあるわけでもないと思うのだけれど……」

「呉服屋など、こんな機会でもなければ入らぬからな」

「たしかに、殿方はあまり縁がないかもしれないわね」

 頼まれた品を届けるために出かける絲に、佐田彦は同行を申し出た。

 加賀屋かがやと書かれた看板をくぐると、藍色の小袖を着た男が腰を低くやって来る。顔見知りであるらしい絲が、持ってきた品を手渡していたところ、奥の部屋から別の男が現れた。上質な反物で仕立てたであろう袷着物に、長羽織。模様も少ないからこそ、その出来栄えが知れる、そんな出で立ちだ。齢三十ほどの男はこちらを認め、口元を緩めた。

「おや、お絲ちゃん。なにか入り用かい?」

「いえ、出来た品をお届けに」

「それはどうもありがとう。お絲ちゃんの仕立てはいつも丁寧だから、助かっているよ」

「そう言っていただけると、光栄です」

「若旦那、ちょっとよろしいですか」

 呼ばれた声を合図に絲は男に頭を下げ、相手もまた小さく手で謝罪をする。

 代金を受け取るべく、壁際で待つ間、佐田彦は小声で訊ねた。

「さきほどの男が、若旦那なのか?」

「そうよ。菊一きくいちさんというの」

「仲がよいのか?」

「子供の頃から知っているし、可愛がっていただいたわね。菊一さんは、兄さんの友人なのよ」

「直太郎殿の?」

「菊一さんの方が年上だというのに、本当に遠慮をいうものを知らないんだから」

 直太郎ならば、それもまた在り得るだろうと、佐田彦は思った。気さくで、人との間に垣根を作らぬ男である。その気性きしょうにおいては客商売向きともいえるが、いかんせん移り気である。気の向くまま、思いつくがままに手を出していては、店が傾くというもの。しっかりと手綱を握る嫁がくれば、というのが、家族を含め、長屋全戸においても囁かれる、切なる願いである。

「直太郎殿はともかくとして、お絲はどうなのだ?」

「私?」

 首を傾げた絲は、やがて何かに思い当ったのか、苦渋の面持ちとなる。

「男衆がなにか余計なことを言ったのね。人のことをどうこう言う前に、自分たちはどうなのよ、もう」

「別に話を吹きこまれたわけではないぞ?」

「隠さなくてもかまわないわよ」

 そういった話がないわけではなかったが、絲が憤慨するほど野卑た内容でもないのだ。どちらかといえば心を配っている方であり、絲が皆に慕われている証だと感じたぐらいである。

 現世うつしよへ来て、そろそろ二月ふたつきになろうとしている。住まいを得て、日銭を稼ぐ「人の暮らし」にいつしか身体が馴染んでいく一方、居心地の悪さも大きくなっていく。

 そのもっともたる要因が、絲という娘だ。

 絲とかかわることで、紅丸や白旺といったあやかしとも深くかかわるようになってしまった。口の悪い白旺はともかくとし、紅丸のような存在は、佐田彦にとって未知のものである。

 常世とこよは永久の園であり、現世うつしよとは時の流れが異なる場所だ。

 神に年齢と呼べる概念はなく、姿も一定とは言い切れない。

 彼らは人によって形作られ、姿を変える。童のようななりをしていたとしても、齢何百年――場合によっては、何万であることも有り得る。

 その世界において佐田彦は、唯一の「子供」であり、肩を並べて歩ける存在なぞは無いに等しかった。年を重ね、身の丈は十分に伸びたけれど、「人」として生きてはいない佐田彦は、人でありながら、人を知らぬのである。

 人の持つ感情――、心の機微などは理解に及ばす。長屋へと住まうようになってから、流転する心にただ振り回されている。




 仕立てた分の銭を頂戴し、絲と佐田彦は店を後にする。

 想定していた以上の銭を受け取った為、懐が温かい。現金なもので、こういった時は普段は食べないものを食べてみたくなるものだ。

「少し寄り道をしてもいいかしら。別に先に帰ってもかまわないけれど」

「いや、共に参ろう。目的の場所は決まっておるのか?」

「茶屋で珍しい菓子を出しているって聞いて、興味があるのよね」

 一人ではなかなか行きづらいし、と苦笑いを浮かべる絲に頷き、四つ辻を右へ折れる。幾つかの暖簾が並ぶ中、軒先に人が並ぶ店がある。どうやらそこが、絲のいう茶屋であるらしい。

「賑わっておるな」

「そうね。中に入って休むのは諦めたほうが良さそうだわ」

 人垣を離れた場所から眺めていると、脇道から出てきた一人の男がこちらに向かって手を上げた。

 知らぬ男だと佐田彦が眉を寄せる中、隣に立つ絲がそれに応じる。

「大繁盛ね、兵衛ひょうえ

「ありがてぇことで。ま、せいぜい今のうちに稼がせてもらうさ」

 臙脂えんじ色の衣を着流した男が、愉しげに笑うと、言葉を続けた。

「寄っていかないのか、お絲」

「これだと、いつになるかわからないじゃない」

「行列に並んで待つのが粋ってもんだろ?」

「そんなに長居はできないのよ」

「なんでえ、萩屋はそんなに忙しいのか?」

「うちの店は平常通りよ」

「なら、少しくらいはいいじゃねえか」

「……用事があるのよ」

 用というか、紅丸が留守番をしていることが気になっているだけであるのだが、それをそのまま告げるわけにもいかず、絲は言葉を濁す。

 兵衛と呼ばれた男は、訝しげな眼差しを向けていたが、やがて佐田彦に目をやると、わずかに瞠目する。絲は改めて、紹介した。

「兵衛、こちらは長屋に越してきた佐田彦さまよ。旦那、こっちは幼馴染の兵衛。そこの店の息子なの」

「お絲が行こうとしていた、あの店のか?」

「そう」

「お絲が男を捕まえたって聞いていたが、この方が噂の御仁かい?」

「し、失礼なこと、言わないでよっ!」

「って言ってるけど、実のところどうなんでい、旦那」

「兵衛っ!」

「どう……と言われてもな」

「だ、旦那も、真面目に相手をしなくていいからっ」

 二人の間に割って入ると、絲は兵衛の身体を店方向へと追いやる。

「もう、あんたはさっさと店に戻って働きなさいよ」

「へいへい。そうだ、お絲」

「なによ」

「菓子、包んでやろうか?」

「持ち帰ってもかまわないの?」

「萩屋にならかまわないだろうさ。ここで待っててくれ」

 兵衛はひらりと手を振りながら、店の中へと消えていき、絲は大きく息を吐き出した。

「こう言ってはなんだが、気の軽そうな男だな」

「……そうね」

 否定をせずに頷いた絲に、佐田彦は軽く眉を寄せる。

「お絲は、ああいった輩を好いておるのか?」

「はあ?」

「――いや、皆が、そのようなことを」

「あーもう。みんなの言うことは鵜呑みにしなくていいからっ。兵衛はただの幼馴染。第一、あいつには好いた子がいるのよ」

「そう、なのか?」

「ちょっと、その、お家同士の問題で、大きな声では言えないのだけれど……」

「なにか問題がある家なのか?」

「というか、相手方が大きな家で、兵衛の家は、見ての通り茶屋で。そういうのを、あまりよく思わないお家なの」

 周囲の声に紛れこませるように、小さく絲は呟く。だから、周りの人には想い人の話は告げていないのだ、と。

 絲が知っているのは、偶然二人を見かけたからであり、そのことがなければ、知らぬままであっただろう。

 知れてしまったからにはと何かと話を聞く機会があり、そのおかげで絲と兵衛の仲を誤解する声が止まないのだと、息を落とした。

「ああやって元気にしているけれど、悩んでいないわけではないと思うのよね。私は、話を聞くぐらいしか、出来ないのだけれど」

「――いや、それは大事なことだ。黙っておれば、悪い気は身の内へと溜まり、鬼を呼びかねん。口にすることで軽くなり、澱みも薄まる」

「例の、悪い鬼の話?」

「悩みすぎて暗く澱んだ顔をする輩がおるであろう? あれは、負の感情に呑み込まれた状態だ。吐き出すことにより、陰陽は循環する。お絲のやっていることは、あの男の為になっている。胸を張って良い」

「……うん。ありがとう、旦那」

 佐田彦が告げると、絲は眉を下げ、そして小さく笑った。



 ◇◆◇



「これ、なに?」

「小麦の粉を焼いたもの、らしいわよ」

「ぼく、いとのおしるこのほうがすき」

「俺はたれのついた団子の方が好きだな」

 あやかしには、やや不評であったらしい菓子は、兵衛の店から購入したものである。上方から流れてきたこともあり、江戸の方ではそれなりの評判を得ているというが、賀根町には合わないのか、それとも製法の問題であるのか。食した絲も、「悪くはないけど、それだけのお味ね」といった評価である。

 兵衛の言った「今のうちに稼いでおく」という言葉は、案外と的を射たものかもしれない。

「旦那はどう?」

「そうだな。俺もお絲の作ったものの方が良いな」

「やっぱり口に慣れた物の方がいいものね。残りは、玉藻さんが来たら、分けてあげようかしら」

「あれはいつ来るか、分からぬぞ」

「うちの分は母さんに渡してあるし、どうしようかしらね」

「置いてあれば、俺が喰う」

「そうね。火鉢で温めれば、少しは違うかもしれないわよ。要するに、これってば少し硬いのよね」

「俺にも喰わせてくれるか?」

 野太い声が割って入り、絲は仰天して振り返る。そして息が止まるほど驚き、固まった。

 紅丸はそんな絲にしがみつき、白旺もまた絲の影に隠れる。

 佐田彦は現れた男に、憮然とした顔で告げた。

「助六、もう少し背を縮めてから来いと言っておいただろうが」

「無茶を言うな。これでも少しは縮めた方だ」

「あまり変わっておらぬだろうが……」

「そんなことより、おまえ、一体いつの間に子供をこさえたんだ」

「紅丸は俺の子ではない」

「嫁に子供に動物と、絵に描いたような家族ではないか」

 可笑しそうに助六が言い、佐田彦は唇を噛みしめた。なにをくだらぬ世迷言を――と返す心と、真逆の感情が湧き上がり、胸の内でせめぎ合う。

 なんだ、一体なんなのだ、これは。

 思わず頭を抱えた佐田彦の傍に紅丸が寄り、顔を覗きこむ。

「さたひこ、あたまいたい?」

「……いや、問題ない」

 紅丸の頭を撫で、助六に向かう。そして、絲へ彼を紹介する。

「お絲。こいつは俺の旧知の者で、先だって騒がせておった、入道の正体だ」

「あの大きな入道坊主?」

「助六だ」

「絲と申します。表の団子屋の娘です」

「団子か。あれは良い食い物だ」

 あやかしは総じて団子が好きなのだろうか?

 絲は可笑しくなって、笑みを漏らす。

「佐田彦が迷惑をかけておるだろう。捨て置かんでやってくれ」

「おい、助六」

「なんだ。友人としての心配りではないか」

「いらぬわ」

 佐田彦にしては随分とあけすけな物言いに二人の関係が察せられ、絲の顔に笑みが浮かぶ。

「助六さまは、本当に旦那と仲がよいのね」

「そう見えるか」

「はい、とても。助六さまは、修験者なのですか?」

「陰陽の道を究めんと、日々修行に明け暮れておる」

「山道で人を脅かしておるの間違いではないか?」

「あれはあちらが勝手に驚いておるだけだ。俺のせいではないわ」

「その図体で山へ分け入ることが問題なのだ、少しは背を縮めろ」

「そうは言うてもな」

「あの、身の丈はおいくつほどなのですか?」

 絲が訊ねると、「ざっと、六尺六寸(二メートル)ほどだな」と答えが返ってくる。

「この数を変じてしまえば、助六の名が泣くと思わんか、娘さん」

「背にちなんだ名なのですね」

「名は己を表するもの。おまえさんの名も、そうなのであろう?」

「よく、ご存知で。そのようなことまで見通せるのですか?」

「どういう意味だ?」

 佐田彦が問うと、絲はなんということのない声で告げる。

「私ね、赤子の時に捨てられていたのだそうよ。真冬ならとうに死んでいたでしょうね」

 言葉を無くす佐田彦に、絲はからりと笑った。

「気にしないで。生まれてどれほども経っていないような頃よ。私はなにも記憶していないし、母さんのお乳を飲んで育ったし、この長屋で大きくなった。それ以外のことを知らないのだから、出自について悔やんだり悩んだりなど、したことはないわ」

「……そうか」

「拾われた時にね、私ってば糸の束を持っていたのですって。だから、私の名は絲。少々安直ではないかしらと思うけれど、それもご縁というものよね、きっと」

「縁、か」

「ご縁といえば、旦那のことだってきっとそうよ」

「俺が?」

「あの稲荷神社、お化け稲荷だっていわれるぐらい寂れているけど、私はあそこに捨てられていたらしいのよ」

 それもあって、絲自身はあの場所に悪い印象はないのだが、両親としては近づいて欲しくはないようである。

 その背景にある理由が、死んだ娘のように黄泉へ引き込まれることを恐れているのか、もしくは、本当の親が現れるかもしれないという不安なのかは定かではない。

 どちらにせよ、いい顔をされないことがわかっているため、絲はこっそりと稲荷神社への詣でを一人で続けているのである。

 そんな場所で佐田彦と出会った。

 これもまたご縁なのだと笑う絲は、なんと強靭な芯を持っているのだろうと、佐田彦はおののく。

「……お絲はとても強いな」

「女は度胸よ」

「それは男の話ではないか?」

「あら助六さま。女にだって矜持はあるのですよ?」

「それは失礼した」




 どうせなら夕餉をご一緒に――と絲が誘い、助六はすっかり部屋でくつろいでいる。佐田彦はこの大男の邪魔な足を蹴りつけたい衝動をなんとか抑えながらも、部屋を整えている。一人増えたおかげで、今のままでは少々窮屈なのである。

「おまえ、暇なのか?」

「日々修行中だ」

「そうか、暇なのだな」

「こら、勝手に決めるな」

 断じた佐田彦に非難の目を向けた助六だが、真剣な眼差しを見て、口をつぐむ。

「……少し、ここへ留まっておいてくれぬか」

「それはかまわんが、おまえはどうするんだ」

「あちらへ行ってくる」

「常世へか?」

「先日、紅丸を連れて行った時に感じたのだが、場が緩んでいるような気がする。お絲が化け物稲荷と言うておったが、そのような噂が立つということは――」

「穴があるのかもしれんな」

 本来、清浄であるはずの神社に澱みがあるのは問題であろう。

「なるほど。あの娘がよく足を向けるというのであれば、整えておってやらねばならんということか」

「別に、それが理由ではないぞ」

「まあよい。心得た。請け負ってやろう」

「――頼む」

「おまえの代わりにここへ住まうということは、手をつけてもよいということか?」

 助六がついと絲へ視線を流すと、佐田彦は無言で立ち上がり、木刀を掴み振り下ろす。

「殺す気かっ」

「済まん、手が勝手に」

「能面のような顔で言うことか。冗談に決まってるだろうが」

「言うていい冗談とそうでないものがある」

 怒気によって裂かれた衣を見ながら、助六は笑みを浮かべる。

「なにがおかしい」

「いや、嬉しいのさ」

「なにが嬉しい」

「おまえの変容がさ」

 人の心なぞ不要だと、死人のような目でわらったかつての男の姿は今はもうない。

 男の友人として、助六はそのことを心から嬉しく思い、その変容のきっかけとなったであろう娘に、感謝の念を抱いた。

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