六、雷獣

 たらいをひっくり返したような雨が降っていた。

 こんな日は客足も少なく、松だけで手が足りてしまうため、絲は暇を持て余すこととなる。

 そんな時はひたすら、針仕事を行う。

 むしろこちらの方が、専門ともいえる。絲は、呉服屋の抱える仕立屋の仕事を請け負っている、御物師おものしだ。自身が直接武家と関わるわけではないが、彼らの着物を仕立てたり、直したりを生業としている。

 母親の松は器用な方ではなく、幼い頃より針仕事は絲の手仕事となった。本人も好んで針を持っており、店にある座布団はすべて絲の手製である。



「これぼくの?」

「そう。赤いのもいいけれど、別のお色も悪くないわよね」

「わるくない」

 半纏を作った残り布で、紅丸の袷を作っているところだ。藍色の小袖は、今着ている緋色と対照的な色合いではある。しかし、顔に布を合わせてみても、なかなか似合っていると思っている。

「まえかけ」

「前掛けがどうしたの?」

「いととおなじの、する」

「布、残っていたかしら?」

「おなじがいいの」

「じゃあ、同じ布を買ってきて、作りましょうか」

「つくる」

「どんなお色がいいかしら?」

 箱に溜めてある端切れを畳の上へ出し、紅丸へ晒すと、小豆の神様見習いは眉を寄せて思案しはじめる。

 これで少しは気が紛れるかしら、と絲は仕立てに戻る。

 紅丸用の小さな袷であれば、さほど時間もかからぬうちに仕上がるだろう。問題は、佐田彦の方だ。裾を直して渡した物はともかくとして、絲が内密に取り組んでいるのは、夜着の方である。

 佐田彦には、かつて亥之助が使っていたものを渡してある。故に、やはりこちらも丈が足りていない。寝返りを打てば、手足が出てしまう具合で、申し訳ないのだ。十分すぎるほどだと本人は言うけれど、佐田彦はあれでいて寒がりなのだということに、絲は気づいている。

 大きな夜着を求めて探してみるものの、時季の物ということもあってか、良い物は見当たらない。一から仕立てるとなれば、金も時間もかかってしまう。請け負った仕事を第一に考えると、前を向いては進んでいないのが現状であった。


「なんだ、随分と散らかしてるな」

「端切れを使って、何か作ろうかと思って」

 直太郎が部屋を覗きこみ、呆れ声をあげる。紅丸の姿は見えていないらしく、絲は安堵の息をつきながらも、答えを返す。

 すると、「なら、巾着はどうだい?」と直太郎は笑みを浮かべた。

「ほら、前におまえが作っていただろう」

「あれはお仕事よ」

「呉服屋でも評判だったじゃないか」

「……まあ、そうね」

 絲が世話になっている呉服屋『加賀屋かがや』の店頭で売りに出した巾着は、端切れを使っていることもあって、町民にも手が出しやすい値で売られていた。

 それでいて使っている布は、武家や大店の奥方が買う一級品だ。色も柄も見映えがあり、たいそうよく売れた。絲の仕立ても褒められ、任せられる仕事も増えたものだ。

 だが、と絲は思う。

 この兄がそんなことで提案するとは思えない。何か裏事情があるに違いないのだ。

「……兄さん、一体誰に何を頼まれたの」

「な、何を言ってるんだ、お絲」

「どうせ安請け合いをしたのでしょう? あれを作ったのは妹なのだとかなんとか言って」

「誰から聞いたのだっ」

「聞かずともわかるわよ、まったく」

 奔放な兄は、思いもよらぬ知り合いが居たりもするのだが、今度は一体どんな伝手を辿ったのやら。

「いやなに、商家の女子おなごがな、前に知り合いが買ったという巾着をいたく欲しがっておってな、もう手に入らぬと嘆いておったものだから――」

「請け負ってきたのね……」

「なあお絲、この通り、一生の頼みだ」

 人生何十回目の「一生の頼み」とやらに嘆息しつつ、絲はふと思いついて、聞いてやることにした。

「兄さん、取引をしましょう」



 ◇◆◇



 天を裂くような稲光の後、地を轟かせんばかりの音がした。

 思わず肩を竦め、絲は空を仰ぐ。

「どーん、すごいね」

「紅丸、おへそを取られないように気をつけなさい」

 すぐ近くとはいえ傘を開き、佐田彦の部屋へと歩を進める。辿り着くより前に扉が開き、男が顔を覗かせた。

「このような時まで、来んでも良いのに」

「紅丸が帰るっていうし、昼餉の支度もあるし」

「かい!」

「かい、とは」

浅蜊あさりよ。酒蒸しにしようかと思ったのだけど、紅丸がいるものね。ただの煮付けにしたわ」

「豪勢だな」

「頂き物なの」

 こういった時は、直太郎の無作為な交遊関係も悪くないと、絲は思う。

「とにかく、早く部屋へ入れ」

「お邪魔します」

 空が再び光り、遅れて音が鳴る。冬の時期には珍しいほどの、雷雨だ。

 箱膳の中には、家から持ってきた煮付けが入っている。朝の冷飯の残りを握り、醤油を塗りつけて七輪で軽く炙る。香ばしい匂いが食欲をそそり、佐田彦の腹の虫が早くも訴えをはじめた。

 紅丸は皿を並べ、箸を整える。給仕の手伝いを覚えたらしく、褒められたくて仕方がないらしい。満面の笑みを浮かべていた。

 腹を存分に満たした後でも雨足は衰えず、天上を轟かせる音もまた止むことがない。

「随分とひどいわね。どこかへ落ちたら大変だわ」

「たいへん?」

「火が出る可能性もあるもの。それでなくても、打たれて死んでしまう人だっているのよ」

 言った矢先、今まで以上の輝きと音に包まれる。頭を抱えてうずくまった絲に対し、紅丸はきょとんとした様子だ。これは度胸が据わっているというよりは、事の次第を理解していない証拠だろう。

「お絲、もうしばらくはここにおれ。今、戻るのは危険であろう」

「……そうする。旦那は恐ろしくはないの?」

「やかましくはあるがな」

「なんだか私ばかり馬鹿みたいだわ……」

「可愛いげがあってよいではないか」

 佐田彦が笑い、絲は押し黙る。

 そのような言い方はずるいのではないかと思い、言葉を返そうと口を開いたところで、紅丸が言った。

「ねこ!」

「猫?」

 この雷雨の中、どこからか逃げ込んできたのだろうか。

 紅丸は土間へ駆け寄り、絲と佐田彦はその後を追う。果たして紅丸の手の先に居たのは、灰色の毛並みをした猫――のような『何か』であった。

「にゃー」

「ちょっ、危ないから止めなさい」

 手を伸ばす紅丸の小さな手を握り、その身体ごと引き寄せる。その声に対し、ゆっくりとこちらを見据えた獣の口が開き、白い牙が覗く。

「うるせえ小僧だな、誰が猫だって?」

「しゃべ……った?」

「喋って悪いか、女」

「悪いわけではないのだけれど、ごめんなさい、驚いたのよ」

「ふむ、素直なのは良いことだな、女よ」

 猫に似たその獣は小さな牙を剥いて、きししと笑う。

 全長二尺(六十センチ)ほど、二又に分かれた尾をぴんと張り、二本足で立ち上がる。人のように枝分かれした指を突きつけ、吠えた。

「聞いて驚け。俺様は天より駆け降りし気高き神獣にして、雷を統べし者。いと気高き雷獣らいじゅう様よ!」

「けだかきー」

 紅丸の声が、間の抜けた合いの手をいれる。

「雷獣?」

おののくがよいぞ、人間どもめ」

「どうということもない、ただのあやかしだ。あまり気にせんでよい、お絲」

「そうなの?」

「そうなの?」

 絲の問いを、紅丸が真似る。その仕草に佐田彦の頬が緩んだところで、雷獣が再び吠えた。

「こら、俺様を無視するな、人間!」

「そうは言うても、俺は厳密には、只人ただびとではないしな」

「なんだと!?」

「俺は神使しんしだ」

「ぼく、あずき」

「はあ?」

 大きな男と小さな童がのたまい、雷獣は動揺する。次に女の方を見やると、目が絡んだ。

「私は、人間、です」

「よし!」

 ぐっと指を握りこむと、喜色の声をあげる。

「慄け、人の子よ!」

「ねえ、旦那。このあやかしは、何をするの?」

「雲から雲へと渡り巡る。雷獣が空を駆ける時には、このようにして雷が鳴るのだ」

「へえ」

「雨を降らすのは、それを牛耳る神がなされること。雷獣はそれに乗じて音を鳴らすということだ」

「では、雷神様の御使いということね」

「聞けよ!」

「にゃーにゃー」

 雷獣は三度吠え、紅丸は雷獣に呼びかけた。

「どけ、小僧」

「ぼくこぞうじゃないよ。べにまる」

「けったいな名をしおって」

「けった?」

「おかしな名だと言うことだ」

「おかし? おかしあるよ、たべる?」

「いらぬわっ」

「いと、ねこさん、だんごたべたいって」

「猫ではないと言うとろうが!」

 毛を逆立ててまくしたてる雷獣を、佐田彦は諫める。

「おまえさん、ちっとは落ち着いたらどうだ」

「おい、どこぞの神使。なんなのだ、あの小僧は」

「元・小豆洗い。今は、神の見習いだ」

「どう見ても、ただの阿呆ではないか」

 毒づく雷獣の頭を、佐田彦が平手で叩く。

「貴様、なにをするっ」

「……いや、すまぬ。勝手に手が動いた」

 首を傾げながら言う佐田彦に、雷獣はわめく。

「言い訳などいらぬわ、畜生め」


 騒ぎ立てる姿を遠目に見やり、絲はなんともいえぬ心持ちとなった。

 あやかしに会ったのは、紅丸に次いで二人目であるが、随分とまた毛色が違うやからである。

 団子団子とせがむ紅丸には小皿を用意させ、布を被せて置いてある団子を引き寄せる。紅丸には濾した餡をたっぷりと乗せてやり、佐田彦はとろみのついた醤油だれ。

 さて、あの雷獣とやらは、本当に団子を食するのだろうかと疑問に思いつつ、絲は二種の団子を皿へ盛り、佐田彦らを呼び寄せた。

 あぐらをかいて座る佐田彦の隣に紅丸、絲は二人の正面。立ち位置に迷っているらしい雷獣に座布団を指さし、座るように促した。

「お口に合うかわかりませんが、ご賞味ください」

「なんだ、これは」

「我が店で提供している、団子でございます」

「ふむ」

 指を器用に扱い、串を持ちあげる。ふんふんと鼻で匂いを嗅いだ後、神妙な顔つきで団子をひとつ口へ含んだ。もちゃもちゃと咀嚼し、喉が動く。

「お味はいかがですか?」

「ま、まあ、悪くはないな」

 二又の尾が左右に揺れる。猫のように細長くはないそれは、どちらかといえば、犬に近いものである。かといって、体形は犬よりは猫に近い。

「……イタチに似ているわね」

「無礼な! 俺様は気高き雷の化身たる神聖な存在なのだ! あんな知性の欠片もない獣と同列に扱うでないぞ」

「それは失礼いたしました」

「――女」

「はい、なんですか?」

「こ、この、たれのついたものは、もうないのか」

「あら、そちらの方がお好みですか?」

「そ、そういうわけではない! ない、が、喰ってやらんこともない」

「では、ご用意いたしましょう」

「ふむ」

 ぴんと張ったひげの先に、たれが付いているところは、指摘しないほうがよいのだろう。

 絲は忍び笑いを漏らしながら、雷獣の皿に団子を追加する。

「ぼくもー」

「では俺も」




 とんとん、と。まな板の上で包丁が奏でる音が聞こえる。

 鼻先をくすぐる匂いはなんであろうか。

 ほのかに漂う醤油の匂いとは別に、近くで甘く香るものがある。

 胸元辺りに温かな何かがあり、かすかな寝息が聞こえている。

 定まらない頭でしばらく思案した後、それが何なのかを佐田彦は理解する。

 座布団を枕にうたた寝をしていたらしい身体を起こす。

 しかし、小さな手がそれを阻んだ。

 紅丸の手が小袖の襟を掴んでおり、佐田彦は固まった。

 柔らかな髪、閉じられた瞳、ふっくらとした頬、わずかに開いた口からは、規則正しい息が漏れている。

 驚くほどに小さく、いとけない存在。

 握りつぶせそうなほど小さな手を、どうしてか振りほどくことができなかった。


「旦那、起きたの?」

「……お絲」

「もう。みんなして寝てしまうんだもの」

「そうか……」

 部屋を見回してみると、新しい座布団の上に、あの雷獣までもが丸まって眠り込んでいる。いつの間にか雨は上がっており、音は聞こえなくなっていた。

 紅丸を胸元に携え、動けない佐田彦を見て、絲は笑う。

「なんて顔してるのよ」

「……これは、どうすればよいのだ」

「手を外せばいいじゃない」

「ど、どうやって――」

「どうって……」

 傍らに膝をついた絲が、紅丸の小さな手に触れると、握りこんだ指をそっと外す。絲の細い指ですら大きく映る紅丸の指は、己と比べてなんと小さいのだろうか。

 へし折ってしまいそうな気がして、心の臓が苦しくなる。

「そういえば雷獣さん、帰らなくていいのかしら。雨は上がってしまったわよ」

「こいつは認めぬだろうが、おそらく足を踏み外したのだ。本来、雷獣は稲妻の来訪を告げる者。このように姿を見せる時点で、半人前の証拠だな」

「そのわりには随分と偉そうだったけど」

 と、声が聞こえたわけでもないだろうが、雷獣が身じろぎする。ぴくりと小さな耳が動き、目を開く。四肢をピンと伸ばした後、再び座布団へ顔を埋めたため、絲は声をかけた。

「ねえ、あなた。もうお日様が出ているわよ」

「ふあ?」

「次の雲が来るまでは帰れぬぞ」

「なにっ?」

 佐田彦の声に飛び上がり、脱兎のごとく外へ向かう。実体などないように扉をすり抜け、やがて愕然とした面持ちで戻ってきた。

「神は我を見放したか……」

「雷獣さん――」

「……ふ、ふは、ははは、ははははは! 笑止! 俺様の高貴なる能力を持て余し、扱いきれぬとみたわ。なあに、この程度、たいしたことではない! いずれ舞い戻ってみせようぞ! はーはっはっはっは!」

 雷獣の空元気な雄叫びに、紅丸が身じろぎをする。佐田彦が見下ろすと、まぶたをこすりながら顔をあげた。

「さたひこ?」

「……よく寝ておったな」

「うん、あったかかった。あ、にゃー!」

「だから、にゃーではないと何度言えばわかる、小僧め」

 紅丸が恐るべき瞬発力で雷獣へと飛びつき、雷獣はといえば、二又の尾を振りながら逃げる。そして、絲の足元へ辿り着くと、するすると駆け上がり、肩へ乗った。

「こ、これだから、子供は困るのだっ」

「やめなさい紅丸。可哀想でしょう?」

「高貴なる俺様を可哀想などとぬかすでない、女」

「……はあ、すみませぬ」

「なんだ、その気のない返事は!」

「それで、どうするの? 帰れないのでしょう?」

「帰れぬわけではないっ。帰ってやらぬだけである」

 そして雷獣は、肩の上に器用に立つと、腕組みをして宣言した。

「雷の化身たる、いと気高き俺様が、ここに居てやろう。感謝するが良いぞ、人間」

「俺は神使だ」

「ぼく、あずき」

「お、女っ!」

「……私はたしかに女だけれど、女女言われるのは腹が立つわね」

「名を知らぬのだから、仕方がなかろう」

「私は、絲よ」

「ふむ。では絲とやら」

 ぴょんと肩口から跳躍すると、宙返りをして座布団へと着地する。

「俺様に仕えることを許してやろう! 名を呼んでもよいぞ!」

「名前?」

白旺はくおう様である! 覚えておくがよいぞ、絲!」

 こうして、雷獣改め白旺が、佐田彦が住む裏店の新たな住人となった。



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