伍、見越し入道
佐田彦が賀根町へ居ついてから、
鬼の気配は特に感じることもなく、のんびりとした生活を送っている。朝は絲が飯を持って部屋へ訪れ、給仕されながら
「おかわりほしい」
「はい、どうぞ」
なぜか住み着いている小豆洗い改め、紅丸が、絲の膝の上でご満悦だ。頬についた米粒を取ってやる甲斐甲斐しさを目の前で見せられ、佐田彦は居たたまれない。
なんなのだこれは。ここは俺の部屋ではないのか。
小さな子供に敵愾心を抱く己は、狭量すぎると律するが、それでも居心地は悪いのである。
「旦那は?」
「頂こう……」
手を差し出され、
「まこと、絲の飯は旨いな」
「……いつもそればかり言うのね」
「旨いから仕方なかろう」
「一度、外の店で食べてみればいいのよ。目玉が飛び出るぐらい美味しいわよ」
「どこぞの店へ入ったのだが、あまり口に合わんかったのだ」
「料理屋もピンキリだし、味の好みもあるでしょうけれど、そこまでおかしな店はないと思うのだけれど……」
乞われるがままに、こうして毎度の飯を用意してしまう絲である。
朝餉が終われば、絲は店の手伝いへと戻り、紅丸もまたそれに付いていくことが多い。
彼の姿は只人には見えず、傍へ侍っていたとしても、誰に気づかれることもない。徳を積み、位があがっていけば、己の身を人へ知覚させることも出来るようになるだろうが、今はまだその時ではなかった。
佐田彦はといえば、ふらりと市中を歩きまわるのが常。どこかに澱みがないか、綻びが出来ておらぬかと見回りをしているのであるが、
長屋の住人らに訝しげに見られては、部屋へと引きこもる生活は不健康極まりないとし、木刀を片手に鍛練に励むことにしたところ、声をかけてきたのが庄之助という男。剣術道場にて師範代を務めているらしい。
流派を問われたが、佐田彦に剣を教えたのは少々特殊な御方であるし、もとよりこれは人と打ち合うための剣ではない。人ならざる者を退治するためであり、型と呼べるものがあるのかどうかも不明である。
野良侍の戯れに習い、それを元に組み立てた我流であるとし、納得はしてもらったが、庄之助には興味深く映ったらしい。
是非、手合わせを――と乞われて以来、共に鍛練をするようになっている。
そうやって一人と話をするようになれば、自然と人の輪が出来ていく。長屋住まいの半分が独り身ということもあり、佐田彦は彼らと卓を囲う仲となっていった。
話を聞いたのは、そんな
「それは本当なのか?」
「俺が実際に見聞きしたわけじゃねえけどな」
「冬だってのに、季節を間違えちまってらー」
「真冬の怪談ってのも、悪かねえと思うけど」
「風情ってもんがねえだろうが」
「けっ、風情って顔かよ、てめえがよ」
「違ぇねえ」
どっと笑う男たちを尻目に、佐田彦は考えこんだ。
彼らのいう怪談話とは、四つ辻に出没するという大男のことである。
もとは近くの峠に現れていたというが、それが川を渡り、市中へと入ってきたのだとか。
見上げるほどの大きな背をしており、その長さは一丈(約三メートル)ともいわれている。逃げ帰った者の話であるから、誇張もあるであろうが、類を見ないほどの大男というのが共通している話である。
「佐田彦殿もたいがい大きなもんだが、それ以上とは想像もつかねえな」
「その大男はどんな奴なんだ?」
「だから、でっけえ――」
「高さの話ではなく、服装だとか武器を持っているのかだの、その辺りのことだ」
佐田彦が問うと、男たちは首を傾げた。
「どうだろうなあ」
「出会ったもんはみんな、魂を抜かれちまうって話じゃねえか」
「魂を?」
「逃げ帰ったもんが言うには、あっちから声をかけられたそうだぜ」
「なんと」
「何かを探しておるらしい」
なんとも曖昧な答えに、佐田彦は問いを重ねる。
「人か? 物か?」
「はて。知らぬか、と訊いてくるのだとか。そこで正解を返せなければ、魂を抜かれるのだそうだ」
「正解ってなんだよ」
「それがわかっておれば、誰も苦労はしておらんだろうて」
「俺が聞いた話によるとだ、その者は、坊主頭で僧侶のなりをしておるらしいぞ」
「僧侶、か……」
「庄之助殿、ここは出番ではないか?」
「俺は剣術は嗜んでおるが、あやかし退治なぞは専門ではないぞ」
顔をしかめて庄之助が返し、男たちはそれぞれが仕事へ向かった。
いつの間にか、大男の噂は広まり、あちらこちらで話を囁かれるほどにまで成長した。
こういったものは誇張されるのが常であり、話半分にきくのが正解というものではあるが、噂というのは真実を突いている場合も存在する。
「ねえ旦那、入道坊主の話は本当なの?」
「おまえまで知っておるのか」
「店に出ていれば、耳に入ってくるわよ」
「何者かが出没しておるのはたしかであろうが、なにぶん相手の居所がわからんのだ。決まった時刻、決まった場所へ出るものでもないらしい」
「それはやっぱり、あやかしの類なの?」
「……会うてみんことにはなんともいえんのだが」
「同じあやかしだもの、紅丸はなにか知っているのではないの?」
「それは無理ではないか? こいつは、川縁に座り込んで小豆を洗っておっただけの、地縛霊のようなものだからな」
「地縛霊?」
佐田彦は失言したとばかりに目を逸らしたが、絲はそれを逃さない。顔の位置にまで移動し、「どういう意味なの」と問いかける。
半纏姿の紅丸が部屋の隅で眠りこんでいるところを確認した後、ひとつ息を吐いて、佐田彦は口を開いた。
「紅丸はおそらく、あそこにずっと縛られておったのだろう。冬だというのに
「夏場に川で亡くなったの?」
「夏かどうかは定かではないな。冬やもしれぬ。むしろ、その方が縛られた理由にもなるであろうか」
衣もまともに着せてもらえぬ中、小豆を洗いに川へ赴く。洗い終えるまでは戻ってくるなと扉を閉められたとしたら、幼子に出来ることは、母に言われたことを遂行するのみだろう。
雨風を
正しいやり方なぞ知るわけもなく、「できぬできぬ」と嘆くのみ。
そうしていつしか、その身体は凍え、力を失う。
けれど、母の言葉に縛られて身動きが取れないまま、成仏もできず、あの場に留まっていた。
言い終えた後、絲は俯き、黙りこんだ。
「……おまえが気に病む必要などないぞ」
「わかってる、けど……」
ぽとり、畳に滴が落ちる。
絲の傍らに膝を付き、佐田彦はその肩を抱いた。
「紅丸がこの長屋へやって来たということは、呪縛は解けたということだ。おまえがあいつを誘い、母上の呪いを解いた。あれはずっと、教えを求めていた。本来であれば、母が成すことを、おまえがかわって導いたのだ」
「わた、し、が……?」
「語りかけ、手を引いて歩いた。その温もりが紅丸を救った。あのままではいずれ、悪鬼に呑まれたやもしれん。新たに名を得たことで、あれはもう小豆の神だ」
正確には、神候補、だがな。
佐田彦はつとめて明るく告げ、絲はその意を汲んで、涙を拭いた。
一体、どれほどの時間を過ごしてきたのだろう。
紅丸の孤独を思うと、絲は胸が苦しくなる。
「……いと?」
か細い声が聞こえ、目を転じると、紅丸がぼんやりとこちらを見ている。
あやかしも眠るのだな、と不思議に思いつつも、絲が手招きをすると、とてとてと走ってきた紅丸が絲の膝に顔を埋めた。
「どうしたの? 寒い?」
「おなかすいた」
「そう。じゃあ、お茶漬けでも食べましょうか」
「ぼく、おしるこがいい」
「だーめ。それは明日よ」
「あまいのがいい」
「駄目ったら駄目」
「たべるの」
「駄目」
「たーべーるー」
ばたばたと足を動かして駄々をこねる紅丸を見やり、佐田彦は眉を下げて言った。
「少しくらいはよいのではないか?」
「旦那までなに言ってるのよ」
「さたひこもいってる」
味方を得たとばかりに声を大きくした紅丸だが、絲の顔を見て少し
「……お絲が帰った後、残してある大福でも喰らうか」
「あずきはいってるやつ?」
「中に餡が詰まっておる」
「たべる。おもちやいたのがすき」
「そうだな。七輪で焼こう」
「ちょっと、聞こえてるわよ!」
憤慨しながらも、明日はお汁粉を作り置いてあげるかと考える絲も、十分に甘やかしているのである。
◇◆◇
長屋の木戸をそっと開き、寝静まった市中を歩く。今宵の月明かりは、提灯がなくては周囲が知れぬ暗さであるにもかかわらず、男の足取りは軽い。
大入道、あるいは入道坊主と呼ばれるあやかしが
あやかしが出るともっぱら噂の場所ではあるが、その姿は見当たらない。男はその辻を左に折れ、山手の道へと足を向ける。一町(約百メートル)ほど進んだところで、大木の影が動いた。
否、それは木の影ではなく、見上げるほどに大きな人の影であった。
大きな影が、道の中央に陣取る。
細い月を背負い、容貌の知れぬ影が立ちはだかっている。
「――知らぬか」
野太い声が、周囲を威圧するように響く。
その声に、男はにやりと笑う。
男はまず、影を見上げた。
顔の位置とおぼしき箇所を睨み、そうしてゆっくりと見下ろしていく。
足元に達したところで、口を開いた。
「見越した」
「……その声、佐田彦か」
「目が悪くなったのか、
「馬鹿を言うな。おまえが
影が少し縮み、顔が近くなる。とはいえ、この男は六尺六寸(二メートル)はあろうかという背丈である。佐田彦とて、顔を上げなければ話が出来ない。
「僧侶のなりをした大柄な影が徘徊しておるときいて、もしやと思ったが、やはりおまえか」
「分かりやすいかと思ってな」
「季節外れの怪談だと、大騒ぎだぞ」
「だからこそ、おまえの耳にも入っただろうが」
「それが目的か……」
胸を張って笑う男に、佐田彦は肩を落とした。
助六は、
陰陽の道を極めたいとのたまい、神々に白い目で見られているが、本人はこれ幸いとばかりに、あちらこちらと出歩いている。こうして会ったのも、実は久しぶりのことだった。
「それで、何の用向きだ」
「おまえがこちらに来ておると耳にしたから、挨拶だ」
「そんなことで、騒ぎを起こしたのか、おまえは」
「たいした騒ぎでもなかろうに」
「魂を抜かれただのと言われておるぞ」
「なんとまあひどい話だな。勝手にすっ転んで頭を打って、気を失っただけではないか」
「おまえのような身の丈をした者に見下ろされてみろ、見知っておる俺でもたまげる」
佐田彦が言うと、助六はからからと笑う。
「して、事は収まりそうなのか?」
「元が辿れておらん。すでにおらぬのか、それとも――」
「気取られぬほど巧妙か」
「あまりそうは思いたくないのだがな」
「おまえ、今どこにおるのだ?」
「賀根町の長屋だ」
「なんとまあ、人嫌いのくせに、人に紛れておるとは」
「べつに嫌っておるわけではないぞ。苦手なだけだ」
「では、よほど居心地が良いのであろう。今度、寄らせてもらうとするか」
「……せめて、もう少し背を縮めてから来てくれ」
宣言され、佐田彦は無駄と思いつつも、忠告した。
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