美しき僕らの指針

朽網 丁

美しき僕らの指針

「今日はどうでした? 何かありましたか」

 隣を歩くあかざさんにいつもの質問をしてみる。僕は毎晩ほぼ同じ時間に彼女と会ってしばらく一緒に歩くが、その時にこの質問をするのは基本的に僕の方からだった。その方が僕にとって少しだけ都合がいい。たまに好機を逸して彼女の方からこの質問を受けることもあるが、その時は努めて冷静に受け答えるようにしている。

 同じ速度で歩く藜さんの横顔はいつもと変わらず穏やかだ。物静かな秋の柔風を浴びて、その顔は颯爽と木々を後に残していく。僕の問いを受けた彼女はしばらく黙っていたが、何かを考えているという風ではなかった。そしてやがて口を開くと「ええ、そうね」と言った。

「今日は日暮れ頃を家で過ごしていたんだけど、台所の窓ガラスに一つの水滴がついているのを見つけたの」

 そこで藜さんは一度言葉を切ったので僕は「それで、どうしたんですか」と先を促した。

「とても綺麗な水滴だったわ。見事な流線形でね、小さな身体で必死にガラスに張り付いていて、可愛らしかった。きっとあれは私にはまったく縁のないような神秘的な御方の涙に違いないと思った。例えば、どこかの女神様とか」

 再び藜さんは言葉を切った。空を見つめる彼女の慈母のような表情を見るだに、彼女が件の水滴を思い出しているのだと分かる。

「私、それに触ってみたいと思ったの。それで指を伸ばしてみたんだけど、触れなかった。その水滴は窓の外側についていて、私はただ指先で冷たい窓ガラスの表面をなぞっただけだったの。とっても残念だった、とっても悲しかった」

 藜さんの話す声は次第に小さくなっていき、最後の悲哀を訴える言葉は、肉親を失った人間の口から出たかのようない痛みを帯びていた。それから彼女は「だから、ね」と短く付言した。

「それはいいですね、まさに神秘的な理由です」

「そうでしょう。ねえ犬蓼いぬたで君、あなたはどうだったの。聞かせて頂戴」

 そう僕に乞う藜さんの目は快晴の星空を映したように煌めいている。今日彼女に会う前に用意した言葉を僕はゆっくりと話し始めた。

「今日は大学を終えて、近くの古書店に寄ったんです。何気なく店内を物色していたら、僕がかねてから入手したいと思っていた古い文芸書の初版本を見つけました。既に絶版になっているものでしたから、随分高揚しながらそれを本棚から抜き取ってよく見てみたんですが、実に小綺麗な状態でした。傷や汚れはなく、僅かに日焼けしただけでした。落胆しましたよ。僕はこの本をもっと薄汚れた状態で手にすると確信していたんですが、それは叶いませんでした。日焼けや手垢、折れ目や擦過傷など、時間の経過を感じさせる姿で手に取りたかったんですが、このページの白さと言ったら、非情なものです」

 僕は話し終えてから鞄の中を探って件の文芸書をあかざさんに手渡した。

「本当ね」

 藜さんは静かにそう言って本の表紙やページを指で撫でている。手元にある本を見ているはずなのに、彼女の瞳はずっと遠くを眺めているみたいだった。

「でも、買ったのね」

「はい、せめて僕が」

 そこまで言って僕は自分が重大な失態を犯しかけていることに気付き、二の句が継げなくなった。せめて僕が時間をかけてこの本をあるべき姿にしますだなんて、彼女の前でそんなことがどうして言えるだろうか。背中に冷たいものが伝うさまがまざまざと感じられた。

「やっぱりいいわね。あなたの理由は素敵だわ」

 しかし僕の憂慮をよそに藜さんはそう言った。そしていつも歩く道を辿り終わると僕に本を返し「またね」と言って帰路に着いた。僕は彼女が揺らす服の裾をしばらく眺めていたが、やがて踵を返して歩き始めた。

 どうにか今日も凌ぐことができた。しかし明日にはまた過ぎていく出来事の細大を余すことなく眺める必要がある。そういうことが僕には求められている。正しくは自分自身にそれを課したのだが。彼女と出会ってから三年余り、僕は少なからず疲労を感じていた。


 大学の食堂で目玉焼きの乗った焼きそばを食べていると隣に焼うどんの乗ったトレーが置かれた。トレーから視線を上げると千草が立っていた。目が合うと彼は「隣いい?」と聞いてきた。僕はまだ口の中に食べものが入っていたので、黙ったまま頷いた。

犬蓼いぬたでって彼女いたの?」

 隣に座るなり千草が言った。

「いないよ。どうして」

「昨日女の子と歩くお前を見たやつがいる」

「誰」

「白崎」

「誰だっけ」

「人文の」

「ああ」

 僕と千草の共通の友人にそんな名前の人がいたような気はするが、はっきりとは思い出せなかった。とりあえず返事だけするものの、隣から千草の視線を感じて、僕がまだ彼の質問に答えていないことに気付いた。

「彼女じゃないよ」

「何だ、つまらん」

 彼は手も合わせずにいきなり麺を啜り始めた。一口目を飲み下すとまたすぐに皿に箸を伸ばした。そうして二口目を見繕いながらこちらを見ずに聞いてきた。

「好きなの?」

 その問いが異性として好きなのかどうかという意味だとは分かったが、すぐに答えることは躊躇われた。あかざさんと会う時はいつも気が気でなく、正直心地いいと思えるものではない。一緒にいても心地よくない人を好ましく思っているというのはあまりにも単純な矛盾ではないだろうか。しかし彼女と毎晩会わなければならないという制約を自分に課しているのは、僕が彼女のことを慕っているからとも考えられた。

「ただの友達?」

 黙考する僕にしびれを切らした千草が別の聞き方をした。僕はさすがにそろそろ何かしらの回答を口にしなくてはならないと思った。

「友達とか恋人とか恋慕相手とか、そういう月並みな表現をするべきじゃない気がするんだ」

「何で」

「多分彼女はそういう表現を好まないと思う」

「じゃあお前は」

「僕?」

「どういう風に思ってんの」

 実際は僕の方にこそ彼女との関係を特別視したいという欲求がある。一言では言い表せない関係を築いていることが、僕が彼女の眼鏡に適っていることの証左と言えるからだ。

 考え込む僕を見て千草は「言ってみろって」と催促するが、そう簡単なことではない。胸中にしまっておくからこそ曖昧な輪郭に甘んじることができるのだ。下手な言葉で表そうものなら、認識したくない現実に中てられるどころか、これまでの軽薄な態度の報いを受けることは必定だ。

 ところが千草は僕にどういう躊躇いがあるかなどには一向に興味がないようで、いつまでも僕の返答を待っている。僕は渋々口を開いた。

「命を救ってもらったんだ、とても美しいやり方で。だから今度は僕が彼女の命を救いたい。たとえ彼女みたいに美しいやり方でなくても」

 促されるままどうにか正直な気持ちをそのまま言葉にしてみたが、結果は後悔を抱くばかりだ。この三文芝居で登場しそうな文言ときたら、彼女が聞けば深く失望することだろう。


 千草との昼食の後、三つの講義をこなして大学を出た。田園都市線に乗って用賀駅で降りる。この駅で降りたのは初めてだった。放射状に広がる階段を上って地上に出ると、既に日はすっかり暮れていた。当て所なく歩き、住宅街から大通りに出る。人気の薄れた大きな公園を見つけたので中を散策し、ベンチで少し休憩した。公園を出て十分ほど歩いたところに個人経営と思しきラーメン屋があった。どうやら民家の一階をそのまま厨房と客席にしているようだ。時間を確認して、店の扉を開けた。


 いつもの遊歩道で時計を確認しながら待っていると、遠くの木陰からあかざさんの姿が現れた。僕の姿を認めると、彼女は小走りで近づいてきた。時刻は午後十時を少し過ぎたところ。彼女が約束の時間に遅れるのは珍しい。

「ごめんなさい、少し遅れちゃった」

 特に息切れする様子もなく、乱れた髪だけを整えながら彼女は謝罪の言葉を口にした。

「いいんです。時間は止まらないんですから、遅れることもあるでしょう」

 藜さんは優しく笑って「いいわね、それ」と言った。それは彼女の口癖のようで、僕は彼女と付き合う中でよくその賞賛の言葉を聞いたが、今の賞賛は僕の意図しないところだった。

「行こうか」

 その声を合図に僕らは今日も並んで歩き出した。

 しばらくお互い無言で歩く。するとやがて小川のせせらぎが聞こえてきた。流れる水が石や川辺にぶつかって、ころころと何かを企む笑いのような音が聞こえる。いつからかこの音が僕の中での合図になった。

「今日はどうでしたか」

「今日は、そうね」

 藜さんはそこまで言ってから静かに息を吐いた。この場における彼女の話し方はひどく緩慢としている。それは決して悪い印象のあるものではなく、ゆとりある時間を愛でることで、これから行うことの神聖さを保とうとしているのだと思える。

「私ね、綺麗好きなの。家の中は週に一回は隅々まで入念に掃除するから、埃だって全然見当たらないわ。でも今日家に帰って、整然とした部屋を眺めていたらね、唐突に嫌気が差してきたの。こんな清潔な家に住んでいることが堪らなく恥ずかしくなった。昔買って一度だけ読んだ本たちが並ぶ本棚を指で撫でても、押し入れの奥からもう使わなくなったカセットコンロを引っ張り出しても、埃の一つも出てこない。そんなつまらないことってあるかしら」

「それなら明日から掃除を一切やらなければいいじゃないですか」

 沈鬱な藜さんの表情を見て、僕は思わずそう言った。これまで彼女の話の最中に割って口を開いたことなど数えるほどしかなく、ましてやそれで反論するなんてことは初めてだった。

「それでも駄目なのよ。きっと私の家が埃に塗れても、それはただの埃でしかない。ただ私の部屋が汚くなって、ただ私がそういう環境でも平気で生活できるようなみっともない人間になるだけ。あなたみたいに素敵な人ならそうはならないでしょうね、きっと同じくらい綺麗な埃が湧くはず」

「素敵な埃とは何です」

「妖精のような埃よ。高く積み上げられた本の上に座ってお喋りをしたり、宙を舞いながら追いかけっこしたり、暗いところでひっそりと眠りについたり、日の光を受けてきらきらきらきら、輝いているの。でも彼らは私の前には決して現れてはくれないわ」

「そうでしょうか」

「そうよ」

「それは確かに、悲しくて寂しいですね」

「そう、だから死にたくなったの」

 唐突に耳に滑り込んできたその言葉を僕は随分と久しぶりに聞いた気分だった。それは僕らが出会った当初は、それこそ藜さんが口癖のように言っている言葉だった。皆まで言わなくても伝わる僕にはいつしか言わなくなったが、その言葉が示す欲求が彼女の中から去ったなどという楽観を僕は決して許してはいなかったはずだ。それなのに久しく聞いたその響きは僕からいとも簡単に平静を奪っていった。

「今度は犬蓼いぬたで君のを聞かせて」

 僕の当惑をよそに藜さんはいつものように無邪気に聞いてきた。

 心には大きな波が立っていたが、それに反して僕の喉は滑らかに動いた。事前にしっかり言葉を用意していたことと、三年以上彼女の相手をしてきたことが想像以上に大きな恩恵をもたらしていた。

 個人経営のラーメン屋に入ったこと、みすぼらしい店構えに反して真新しい内装であったこと、厨房に立つ初老の男性も接客をする妻と思しき女性も愛想がよく顔には自然な笑顔が見られたこと、それに落胆したこと、油で汚れた店内とぞんざいな態度の店主を期待していたこと、しつらえられたような笑顔と低頭が醜かったこと、だから死にたくなったこと、全てを余さず伝えた。

 気付いた頃には僕は藜さんと別れていた。正直あの動揺以降のやり取りを明確に思い出せない。彼女が最後に「またね」と言ったのはまだぎりぎり記憶の端に留まっている気がする。

 忘れていたわけでも忘れようとしていたわけでもなかったが、僕らが互いに死ぬための理由を持ってこの場に集まることを、彼女にとっては毎日が自殺日和だということを、僕は改めて認識した。


 藜さんと出会ったのはおよそ三年前で、僕は高校二年生だった。当時僕は学校でいじめを受けていて、自殺してしまうのもいいかもしれないと思い始めていた。そして家から徒歩で行ける範囲で最も高い建物の屋上に登ったところ、そこには既に彼女がいた。向こうは僕に気が付くと声をかけてきた。僕は自殺するためにここに来たのだと説明すると、彼女は嬉々として自分もそうだと言ってきた。そして滔々とうとうと自殺の理由を話し始めた。

 彼女は次のように語った。よく街中で耳にする小鳥の鳴き声を聞いてしまった。しかもその鳴き声の主の姿を目前にして。彼女曰く、小鳥というのは鳴く時には必ず人前から姿を隠すものらしい。そして茂みに潜り込んで鳴く時、彼らは世にも神秘的な体躯に変貌するのだ。決して姿は見せないが、どこからか鳴き声が聞こえる。そうして彼らが人間を易々と翻弄するのは、自然界に充溢する美しき気まぐれの一つなのだという。それにも関わらず自分はその制約から外れてしまった。だから死にたくなったのだと。

 その自殺理由はまさに晴天の霹靂だった。それまで鋭敏だった指先から、現実の牽引力が薄れていくのを肌で感じた。それほどまでに彼女の言は不可解だった。しかもそれは、強すぎる神聖さゆえの不可解だった。

 藜さんは自分の話を終えると今度は僕の自殺の理由を聞いてきた。僕は答えることができなかった。これほど耳馴染みのない理由で自殺を決めた人物の前で、いじめが辛いから死にますなどという、無味乾燥な理由を口にするのはどうにも憚られた。それどころか、彼女の独自の美学を聞いた僕からは、自殺したいという気持ちそのものが消え失せていくのだった。共に自殺を志しているというだけで自分と彼女を比較してはみたが、結果として僕は羞恥を抱くばかりだった。

 自殺とは芸術であり、しかるべき状況を整えなければえらい失敗をすると言ったのは三島由紀夫だったか。その時僕は彼の言葉をそれまで以上に強く信奉した。

自殺するに当たって、僕はまだ状況が整っていない。このままでは僕の自殺は失敗に終わり、間違っても芸術にはなり得ない。しかし一方で、彼女の自殺は正しく一つの美しい芸術だった。そんな彼女を目の当たりにして僕の裡に生まれたのは、彼女の芸術的自殺を見たいというよりも、その持ち主をもっとよく見、よく知りたいという欲求だった。

 口籠もる僕を藜さんはしばらく黙って見つめていたが、いつまでも自殺理由を教えない僕に興味を見出せなくなったのか、目線を外すと屋上の縁に設置された柵をすり抜けるように跨いで向こう側に行ってしまった。僕はその時、躊躇とは無縁の敢然とした彼女の背中を見て、咄嗟に思いついた自殺理由を放言した。それが一体何であったかはまったく覚えていない。ただ、凡庸な男が精一杯奇を衒って捻出した白々しい理由が、彼女の死を止めるには到底似つかわしくない、偽りに満ちたものだったのは確かだ。

 しかし彼女は自殺を思いとどまり、柵のこちら側に戻ってきた。そしてあろうことか、自分よりも魅力的な自殺理由を聞いたから今日死ぬのは止めるのだと彼女は言った。それは奇しくも僕が自殺を止め、自殺願望を捨てた動機とまるで同じものだった。

 その日互いの美学の毒牙にかかった僕らは、それから毎日死ぬための理由を持ち寄った。より美しい理由を見つけられた時にこそ、命を絶つのだという取り決めの下僕らは逢瀬を繰り返し、いつの間にか三年余りが経過した。真実の美学から紡がれる彼女の自殺理由にはやはり神聖な魅力があり、それに虚偽の美学による自殺理由で抗しなければならない僕の神経は疲弊を強いられた。この関係を三年以上も保つことができるとは、まるで想像していなかった。

 あの夜以降、既に自殺願望のない僕は彼女に対して虚言を弄し続けている。これまで彼女に伝えてきたものは自殺理由でも何でもない。彼女がこれまでの日々を死ぬにはうってつけの日だと思っているとしても、僕にとってはこれまでの日々が、死に向かう彼女を引き留めるにはうってつけの日と言えるのだ。


 今夜も僕はいつもの遊歩道であかざさんを待っている。風が強く、葉の擦れる音が鳴り止まない。静かになったと思ったそばから次の風が吹いて葉を揺らすから、一向に静かにならない。しかしこの騒々しさが、心境と現実が重なり合う様子を思わせるので、かえって心地がよかった。

 昨日から一睡もしていないにも関わらず、頭も目も冴えている。きっと心が逸っているせいだ。

 さっき入れた留守番電話を藜さんはもう聞いただろうか――そればかりが頭の内を目まぐるしく巡っているが、実際のところそれはあまり気にしても意味のないことだ。僕の入れた留守電音声を彼女が聞いていようがいまいが、いずれにしても今日彼女は死ぬだろう。

 僕は昨夜藜さんと別れてから、彼女と彼女を取り巻く様々なことについて考えた。彼女に関する一切のことを考えたつもりだが、項目自体はさほど多くなかった。僕が彼女に関して知っているのはいずれも自殺と美学に基づくことばかりだったから、どんな方向から眺めてみても、結局はその二つに自然と行き着くのだった。

 藜さんの日常のいたるところには、彼女の死ぬ理由が潜んでいる。きっとそれは余人が理解の手を伸ばしても巧みな身のこなしでするりと躱して、いかなる環境にも適合し、何度も季節を越え、日夜を問わず彼女の視界に前触れもなく現れるのだろう。それは彼女を苛む陰影だろうか、あるいは呪いだろうか。それとも理想像に至るための導きだろうか。彼女の模倣を続けてきた僕にも、それは依然として判然としない。

 理解を寄せない大義は存在しないも同然だが、では僕らは叱責を受けるだろうか。大義や目的なく生きることは許されるのに、それらなく死ぬことだけが糾弾されるなんていう不合理が果たしてあるだろうか。少なくとも僕が彼女の自殺を止めようとしていたことに、そんな不合理はまるで関与していない。僕は彼女の生死観を咎めるつもりもなければ否定するつもりもなく、ただ彼女に生きていて欲しいだけだった。結果彼女の美学を貶めることになろうとも一向に構わず、ただ彼女の生存のみを望んだ。

 これはともすれば妙な矛盾だ。彼女の美学に惹かれた僕がそれを蔑ろにしてまでその持ち主に執心しているのだから。今の僕は神聖な美学でも、それを持つ女性でもなく、藜さんそのものに惹かれている。端的に言えば僕は彼女に惚れているのだ。

 先ほど留守番電話に残した文言が一句違わずに思い起こされる。

 ――藜さん、こんばんは。突然ですが、僕らが初めて会った日に、僕が何て言ったか覚えてますか。今まさにあなたが飛び降りようとしていた時です。残念ながら僕はすっかり忘れてしまいました。しかしそれを含め、これまで僕があなたに伝えてきた全ての自殺理由が、あなたと一緒に生きたい理由だったと言ったら、あなたはどうしますか。

 僕の本心から生まれてくる、このみすぼらしさが恨めしい。こんなことを聞けば彼女は僕に失望し、あっという間に命を絶つだろう。もし仮にこれを意に介さず、いつものようにこの場に現れたとしても、結局は同じことだ。今夜の僕は自殺理由を持っていない。準備を怠った僕に彼女の自殺を止める術はなく、縋りつける可能性は彼女が僕に惚れていることくらいだろうか。同じ理由で自殺を思い留まったあの晩のように、今晩も同じ理由で自殺の想念から解放されるなんてことが起こらないだろうか。

 いつも彼女が姿を現す木陰の方をじっと見ていると、風に煽られた枝葉が何度も動いているのが分かる。その度にそれが、なびいた彼女の服の袖や裾あるいは髪だと思って目を凝らしたが、陰から誰かが現れることはない。

 また風が吹いた。おや、今度はどちらだろうか。

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