第60話 商談1

 廊下で静かに控えていた菊は、しずしずと闇の奥に消えていった。


 さして待たされることもなく、初は戻ってきた菊から、小さな壺を受け取った。


「手間が省けてよかった。ちょうど紅屋さんに、ご相談しようと思っていたところなので」


 怪訝そうな顔をする宗陽の前で、初は壺の封を取り払った。


 壺の中に入っていたのは、茶褐色の液体だった。


「これは……?」

「船底に塗る塗料です。海藻やフナクイムシの付着を防ぎ、船底の腐食を食い止めるのに効果がある」


 宗陽の瞳に、興味の色が宿った。


 海を航行する舟にとって、船底の保護は重要な課題だ。海藻やフジツボ、フナクイムシなどの貝類が付着すれば、それが抵抗となって、船足が落ちる。木造船の場合はさらに深刻で、付着した貝類が、船体の木材を侵食してしまう。


 放っておけば、船底がすかすかになり、最悪の場合は穴が開く。実際、保守を怠ったために、洋上で沈んでしまった舟も数多い。


 それを防ぐため、舟は三か月から半年に一度の割合で陸に上げ、船底を掃除する。さらに、横に倒した舟の周囲で火を焚き、船底を乾燥させる「焚舟」あるいは「舟たで」と呼ばれる作業を行う必要があった。

 焚舟は、漁師の縁起担ぎとしても行われるが、面倒な作業であることに代わりはない。


 浜でヘラを片手に、船底を掃除する漁師たちの大変さを知る初は、なんとか作業を簡便化できないかと考えた。

 現代のような高圧洗浄機を試作したが、さすがにこれは無理があった。


 次に、船底汚染そのものを防ぐ方法はないかと考え、銅板を張る方法を試してみた。大学の研究室にいた頃、雑談の中で、昔の舟は船底に銅板を張っていたという話を思い出したのだ。


 銅は酸化すると、緑青と呼ばれる青錆が生じる。この緑青から、亜酸化銅が海水に溶け出し、これが海洋生物に対して毒性を持つため、貝類の付着が妨げるというわけだ。


 安宅家の関船で試した結果、性能は良好だった。しかし、船底を銅板で覆うとなれば、かなりの銭が掛かる。決して裕福とは言えない漁師たちには、とても手が出せない方法だ。


 その後も、洗剤を混ぜた漆喰やコンクリートで船底を覆ったり、毒物まで試してみたが、効果がなかったり、危険過ぎたりして上手く行かない。

 どうしたものかと一人悩み続けた初は、ふと、ある特許の存在を思い出した。


 実家の町工場を盛り立てるために、何か新しい特許を獲得できないかと考えていた頃。そういえば、日本で最初に取得された特許は、どんなものだろう? と疑問に思い、調べたことがある。その際に判明したのが、とある船底塗料の存在だ。


 漆工芸家が作ったその塗料は、漆を主原料として鉄粉、鉛、生姜などを材料とする。どれも身近な素材だけで構成されており、現代から見れば、実に原始的な代物だが、かなりの効果があったという。


 物は試しと、初はこの塗料の再現に取り掛かった。


 使用する材料はわかっても、配合率がわからなかったため、製作には苦労した。何度かの試作を経て、漆器職人たちの意見も参考にしながら完成した塗料は、予想以上の性能を示した。


「この度、堺へ来訪した船の一隻にも、この塗料が塗ってあります。船頭によれば、塗る前に比べて、船足も出るようになったと」

「それは……にわかには信じられませんな」


 塗るだけで船の速度が上がったと言われれば、眉に唾を付けたくなる気持ちもわかる。初としても、この塗料に、そこまでの力があるかどうかは、まだ未知数だった。


(塗料で船底の凹凸が消えて、抵抗が減少した可能性はある。流体の抵抗は、ほんのちょっとしたことで、大きく変わるしな)


 速度向上効果については、今後の研究次第だろう。だが防汚塗料としては、現時点でも、十分な効果を発揮している。


「いかがでしょう? 異国との交易を行う紅屋なら、フナクイムシの恐ろしさは、身に染みているはず。この塗料を使えば、少なくとも半年間は、船底をフナクイムシから守れまする。実験では、一年でも効果はありました」

「なんと、一年も……」


 宗陽の顔に、驚きの色が浮かぶ。


 日本から明へ行く舟は、春または秋に吹く、東北の季節風に乗って大陸へ渡り、五月以降、夏にかけて吹く、西南西の季節風に乗って帰国する。むろん、年によっては、季節風がなかなか吹かなかったり、天候の悪化で順調にいかないことも多い。


 何事も風次第の帆船だ。航海の見通しが立たず、湊で長期の停泊を余儀なくされる事態も、決して珍しくはない。そしてフナクイムシは、風待ち潮待ちの舟にも、容赦なく襲い掛かる。停泊している間に、漏水でもすれば、最悪、荷を失う可能性すらあるのだ。


 生糸や陶磁器、生薬などの高級品を扱う明との交易では、一隻の舟を失うだけで、莫大な損失が生まれる。


 無論、商人たちとて、対策はしている。一隻の舟を数人で借り上げるなど、リスクの分散を行っているが、舟の生還率が少しでも上がるなら、それに越したことはない。


 初は、余裕を装いながら、宗陽の顔色をうかがった。


 半年から一年の間、フナクイムシから舟を守れる塗料だ。海外交易を行う豪商たちにとっては、喉から手が出るほど欲しいはず。


「中小の商人や問丸といまる(舟運業者)、漁民にとっても、舟の維持費を減らせる塗料は、魅力的なはずです。宗陽殿なら、これを必要としている方々に、心当たりがあるのでは?」

「……たしかに。姫様のお話が本当ならば、これを欲しがる者たちは、ごまんとおりましょうが」

「効果をお疑いならば、我が家の水主たちにお聞きください。必要ならば、紅屋の舟に、この塗料を使っていただいても構いません。納得するまで、お調べを」


 早速、塗装の算段をつけようとする初に「それには及びませぬ」と、宗陽は首を振った。


「初姫様のお知恵が優れていること、すでに十分承知しております。姫様がお作りになられた品は、どれも素晴らしい。これほどの名声を得られた初姫様が、つまらぬ嘘を申すとは思えませぬ。初姫様が、一年保つとおっしゃられるなら、本当に一年は大丈夫なのでしょう」

「では、この塗料を、紅屋さんで扱っていただけると?」

「それは、もちろんのこと。それほど素晴らしい品ならば、こちらからお願いしたいほどでございます。されど──」


 宗陽は、わずかに困惑を含んだ眼差しを、初に寄越した。


「──よろしいのでございますか? この塗料を、わたくしどもが扱うということ。すなわち、安宅家以外の舟を利することに繋がりまする。その中には、海賊衆も含まれましょう。そうなれば安宅家にとって、面白からざる事態を招くことにも」

「ああ、それなら心配いりません」


 初は、言った。


「その塗料だけでは、何の意味もありませんから」

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