第58話 料理1

 使用人たちの手で、白い手巾の塊が運ばれてくる。


 大俎板の上に載せられた手巾を開くと、中から現れたのは、三尺近い大物の鯛だった。


「これはこれは」

「いやあ、実に見事な鯛ですな」

「しかも、突き獲りじゃ。これは新鮮な証ですぞ」


 銛を打ち込んだ痕がある鯛を前に、狩衣かりぎぬ烏帽子えぼし姿の宗陽は、包丁を掲げた。

 竹製の真魚箸まなばしを使って鯛を押さえながら、包丁で鱗を落としていく。


 包丁式ほうちょうしき、と呼ばれる技能の一つだ。


 この時代の日本では、客人をもてなすときに、主人が自ら包丁をとる習慣が存在する。その際、食材に手を触れず、箸と包丁だけを使って調理するのが、作法とされた。その作法をまとめたものが、包丁式である。


 公家や武家だけでなく、大衆に至るまで、一定以上の階層では、必須とされる技能だ。安宅家でも、宴会を開いた際には、安定が自ら包丁を握っている。


 鱗を落とし、頭とエラを取り除いた身が、三枚におろされる。

 宗陽の技は堂に入ったもので、真魚箸と包丁だけを使って、器用に大きな鯛を切り分けていった。


「ささ、初姫様。まずは、一切れ」


 大俎板の上に、鯛の身で出来た橋が描かれる。

 見事な盛り付けを崩すことに、若干のためらいを覚えながら、初は両手を合わせた。


「いただきます」


 僧形そうぎょうの客人のうち、幾人かが、わずかに顔色を変える。それに気付かぬまま、初は鯛の身を一切れ、箸で摘み取った。


 新鮮さを表すように、箸先から、まだ固い身の感触が伝わってくる。

 透き通るような白身を、初はまず塩でいただいた。


 こりこりとした鯛の身の食感が、心地良い。塩に引き立てられた甘味が、舌の上へ広がり、鯛の脂が喉を滑り落ちていく。


 満足げにうなずいた後、初は「美味い」とこぼれるように呟いた。客人たちの喉が、一斉に音を立てて上下する。


「下処理が良かったんでしょうな。生臭さもないし、身が締まっていて、歯応えが心地よい。実に良い鯛でございます」


 欲を言えば、もう一日、二日寝かせたほうが、初の好みではある。しかし、まともな冷蔵設備のないこの時代では、食材の熟成など難しかろう。


 次々と箸を伸ばす客人たちに、宗陽は微笑んだ。


「いや、安心いたしました。安宅家の方々は、皆、食通と名高いですからな。その舌を満足させられたのでしたら、これに勝る喜びはございませぬ」

「食通なんて、そんな大したものじゃ」

「ははは、ご謙遜を。安宅家の食膳の壮麗さは、わたくしどもも聞き及んでおりまする。阿波守やすさだ様は古今東西、あらゆる食材を、銭に糸目をつけずに集めておられるとか」


 たしかに、安宅館の厨は、様々な食材で満たされていた。

 客に外国人が多く、様々な料理を用意する必要性から生まれた習慣らしいが、堺ではそんな噂になっていたのか。


「それに、初姫様の料理は絶品だとか。先日の連歌会に参加為された方は、口々に初姫様がお出しになった焼き菓子を、褒め称えておりましたぞ」

「ほう、それは聞き捨てなりませんな」

「それほどの腕前ならば、ぜひとも味わってみたい」


 客人たちの視線が、初に集中する。


 煎り酒で鯛の身を味わっていた初は、急いで口の中のものを飲み込んだ。


「今からですか?」

「いえいえ。さすがに、お客様の手を煩わせるわけには」


 余計なことを口走ったと思ったか、宗陽はやんわりと周囲を制止しようとする。


「まさにまさに! 姫様が作られる料理は、天下一品ですからな!」


 赤ら顔になった大八が、大声で叫ぶ。すでに相当、出来上がっているらしい。徳利から直に酒を飲む顔は、茹蛸のように真っ赤だ。


「安宅家の料理人たちは、姫様から技を伝授されているほどですからな! 姫様が作られる料理を、ひとたび口にすれば、他では満足できなくなりますぞ!」


 集まった客人たちの目が、期待に輝く。


 周囲からの視線に気圧され、初は後退った。宗陽に無言で助けを求めるが、宴席の主催者として、強くは出られないらしい。


 むしろ、頼み込むような視線を向けられて、初は肩を落とした。


「……宗陽殿。厨を貸していただけますか?」

      







 さすが会合衆に名を連ねる豪商だけあって、紅屋の厨は立派なものだった。

 ずらりと五つの竈が並び、厨の中央には、十人ほどが楽に作業できる調理台。奥に設えられた棚には、味噌、酒、酢に薬味など、一通りの調味料が備えられている。


「これならいけるな。おい、材料を運び込んでくれ」


 屋敷の使用人たちが、ぞろぞろと厨へ入ってくる。使用人たちの手には、それぞれ小さな壺や瓶が握られていた。

 堺へ旅立つに際して、初が安宅館から持ってきた食材だ。


 安宅荘では浸透しつつある乳脂や乾酪も、堺では一般的とは言い難い。醤油は、まだ安宅荘でしか作られていないし、油の種類も限られる。旅先でも美味いものが食べたいと考えた初は、光定に頼んで、船に食材を持ち込んでいた。


 材料を確認した初は、調理台の前に立った。

 俎板を水洗いし、これも館から持ってきた自分の包丁で、ニンニクを薄くスライスする。

 まだ火が残っている竈に、屋敷の料理人から借りた鉄鍋を置き、熱する。温まってきたところで、初は油を投じ入れた。


 油は、安宅荘から持ってきた綿実油だ。この時代の油は、荏胡麻や菜種から採ったものが主流で、綿の実から油を採る方法は、まだ安宅荘でしか確立されていない。


 油にニンニクのスライスを入れて、軽く炒める。ニンニクがきつね色になり、油に香りが移ったところで、鍋を火から離し、油とニンニクを取り分けた。


「菊、盛り付けはできてるか?」


 調理台で作業していた菊が、無言で皿を突き出してくる。

 初を見つめる視線は、この上なく冷たい。先ほどの所業について、まだ許していないぞと、態度で示しているようだ。

 なるべく菊を刺激しないよう、初は素早く皿を受け取った。


 怒っていても、菊の仕事は確実だ。皿の上には、宗陽からもらった鯛の刺身が美しく並べられ、薬味として、カイワレダイコンが添えられている。

 先ほど炒めたニンニクのスライスを散らし、上からソースとして綿実油をかける。


「まずは、一品目。鯛の刺身のカルパッチョの完成だ」


 本当はオリーブオイルがいいのだが、綿実油も、サラダ油の王様と呼ばれている。ドレッシングにも使われるくらいだから、問題ないだろう。


 一品目を完成させた初は、屋敷の料理人を振り返った。


「卵ってあります?」

「はい、こちらにございますが」


 屋敷の料理人が、藁の中に包まっていた卵を持ってきてくれる。

 南蛮人も多い堺では、卵も食材として認知されている。宗陽もイケる口だったようで、庭で飼っている鶏から、卵を得ていると料理人は言った。


 鯛の刺身に塩と酒を振った初は、棚から紫蘇の葉と柚子。この時代は、南蛮胡椒とか番椒ばんしょうと呼ばれていた、唐辛子を手に取る。

 紫蘇の葉を細かく刻み、柚子の皮も同様に。唐辛子は、細く輪切りにする。


 器に卵、水、小麦粉を入れて混ぜる。衣液が出来たところで、初は「あっ」と声を上げた。


「いっけね。パン粉を忘れてた」


 屋敷の料理人に確認してみるが、さすがにパンは置いていなかった。


 安宅荘では、青涯和尚がパンの焼き方も広めている。中国料理にも揚げパンがあり、安宅荘では比較的簡単に手に入るので、すっかり失念していた。


 幸い高野豆腐があったので、これをパン粉の代わりにする。

 水で戻していない固い高野豆腐をすり下ろし、先ほど刻んだ紫蘇の葉、柚子、唐辛子を加える。


 塩と酒に浸けておいた鯛の刺身を水洗いし、綺麗な布で拭って水気をとる。

 鯛の刺身を衣液に浸し、次いで高野豆腐で作ったパン粉へ。

 鍋で熱していた綿実油の中に、鯛の刺身投じ入れる。


 すでに日は沈んでいる。厨の中を照らすのは、燈明の火が放つ最低限の灯りだけだ。目視で油の中を確認できないため、初は耳に全神経を集中した。


 油のたてる音が変化したのを聞き逃さず、初は菜箸で鯛の身を取り上げた。


「……うん、ちゃんと揚がってる」


 一口齧り、中まで火が通っていることを確認した初は、他の鯛の身も油からすくい上げた。


 皿に盛り付け、四等分にした柚子の実を添える。


 鯛の柚子と紫蘇と唐辛子の衣揚げの完成だ。


「さ、温ったかいうちに運んでくれ」


 屋敷の使用人たちが、料理を盛りつけた皿を捧げ持つ。

 使用人たちに先導されながら、初は急いで広間に戻った。

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