第49話 慣習法1
拘束から逃れた童たちが、転げるように舷梯へと取り縋っていく。
「いかんなぁ、こりゃ……」
一連の騒動を見守っていた亀次郎が、ぼやいた。眉尻を下げ、いかにも迷惑そうな顔をする。
「なあ、亀次郎。あいつら何をやってんだ?」
「たぶん、物取りの類でしょうなあ。堺には、貧しい者たちも、大勢入り込んでおりますから」
「えっ!? だったら、急いで捕まえないと!」
これは一大事と腕まくりした初に、亀次郎は何とも言えぬ顔を向けた。
「それが、そういうわけにもいかぬから困っているわけで」
「なんでだ? あいつら、犯罪者なんだろ?」
「まあ、そうなんですがねぇ……」
亀次郎は、忌々しげに舌打ちした。
「あの馬鹿ども。よりによって、うちの船に乗ってから憑みやがって」
眉根を寄せた初の前に、ほどなくして疑問の答がやってきた。
「おい、貴様ら!」
人込みの向こうから出てきたのは、今度は侍の集団だった。
先頭に立っているのは、まだ幼さの残る若武者だ。おそらく、初と同い年くらいだろう。
若武者は、安宅家の船から顔を覗かせている童たちを、刺すような視線で睨んだ。
「その
「引き渡せとは、不躾な。そもそも、貴様らは何者じゃ。まずは、名を名乗るのが礼儀であろう」
船を背にした光定が、若武者の前に立ちはだかる。
どういうわけか、安宅家の水主たちも皆、剣呑な視線を侍たちに注いでいた。刀を手にした家臣たちが、盗人の童たちを、庇うような位置に立った。
「え、なになに? どういうこと?」
困惑する初の隣で、亀次郎が「あっちゃー」と天を仰ぐ。
しばし若武者は、厳しい顔で光定を睨んでいた。ぎりぎりと握りしめられていたこぶしが、ふっと緩む。
若武者は居住まいを正すと、光定に対して一礼した。
「──失礼した。某は
若武者の口上に「有馬?」と、初を庇う位置に立った大八が、口髭を震わせた。
「知ってるのか?」
「熊野の有馬荘を治める領主です。まあ、正確には、だったと言うべきですが……」
大八は、声をひそめて囁いた。
有馬氏は、元は熊野別当家(かつて熊野三山の統括に当たった役職)の出と言われる、由緒ある家柄だ。
数百年にわたって、熊野の有力国人として活躍した有馬家だが、十年ほど前に血筋が途絶えてしまった。
今より四十年ほど前。当時、有馬家の当主だった
本来なら、これで丸く収まるはずだった後継者問題だが、厄介なことに隠居した忠親に、実子が生まれてしまった。
自分の子に跡を継がせたいという親心が出た忠親は、忠吉を廃嫡、自刃させてしまった。
これに激怒した忠吉の親族は、忠親を攻め、破れた忠親も自刃。有馬家は、忠吉の子が継いだが、これまた子宝に恵まれず、血筋が途絶えてしまった。
そこに目を付けたのが、熊野新宮を本拠とする
当時、周囲に勢力を広げつつあった堀内氏と有馬氏は、幾度となく干戈を交えた間柄である。しかし、家督争いによって勢力を減退させ、嫡流まで途絶えたとあっては、有馬氏に抗えるだけの力は残されていない。
有馬氏は自家の存続を図るため、堀内家より養子を迎え入れた。それが今、初の前の前にいる若武者、有馬楠若である。
「今や有馬家は、堀内家に乗っ取られたも同然。家臣共は、へこへこと堀内家に尻尾を振る始末ですわい」
大八は、楠若の背後に立つ侍たちを見て、にやりと笑った。どことなく、相手を揶揄しているような笑みである。
さすがは戦国時代。なかなか衝撃的な話だが、それ以上に初が驚いたのは、大八である。
(この爺さん、小声でも話せたんだな……)
ひそかに衝撃を受ける初の前で、安宅家と有馬家の対立は、熱を帯びていった。
「わしら安宅家は、海賊衆よ。船は我らが屋形も同じ。そこへ
「そやつらは、我が有馬家の船より、積み荷を奪った罪人じゃ。それを庇い立てするとは、言語道断! 武家の風上にも置けぬ所業よ」
「貴様……有馬の
「誰が堀内の名を出したか!? わしは、有馬家の御曹司ぞ! 盗人を匿うような
「御曹司? はて、そのような貴人が、どこにおるのか。お前たち、御曹司様をお見かけしたか?」
光定の問いかけに、安宅家の家臣たちは揃って首を振った。水主たちまで「御曹司?」「はて、そんなお方がおったかいのう?」「
「おのれっ……」
額に青筋を浮かべた楠若が、腰の刀に手をかける。
「待った待った待った! お前ら全員、落ち着けって!」
さすがに、見ていられなくなった初が止めに入る。
(なんで、こんなことになるんだ?)
犯罪者を引き渡せば済む話なのに、この対応。さすがに子供を斬るのは看過できないが、光定たちの態度にも問題がある。
「なんで、いきなり険悪になってるんだ? こういうときは、お互い話し合ってだな、」
「姫様、お下がりくださいっ」
菊が、慌てた様子で走り寄ってくる。普段は能面のような顔が、珍しく蒼褪めていた。
「このままでは、巻き込まれます。早く、物陰に隠れてっ」
「だから、そうならないように止めてるんだろうが! だいたい、なんでうちの船が、盗人を庇ってるんだよ?」
「世間の習いに、なんでもへったくれもありません!」
一見、無秩序に見えるこの時代の日本にも、一応、法律は存在する。
武家の施政方針を定めた御成敗式目や建武式目、律令制を継承した公家法、本所法など。一般的には、これらの法令に従うことになっているのだが、それとは別次元で、村落や地域社会、職人集団内で通用する「傍例」や「先例」が存在する。
今現在起きている問題も、この「世間の習い」が関わっていると、菊は言った。
「あの者たちは、我が家の船に乗り込んで、憑むと申しました。我らには、あの者たちを守る義務があります」
武家や公家、寺社などの屋形に駆け込んできた者が、憑むと保護を要請してきた場合、相手が盗賊のような犯罪者であれ、なんであれ、屋形の主人は相手を保護しなければならない、という慣習である。
聞かされた初は、呆れるしかなかった。
(無茶苦茶だなぁ、おい)
犯罪者を匿うって、そんな真似がどうして許されるのか。
ともかく、このままではマズい。本格的な争いが発生する前に、止めなければ。
怒りで頬を震わせる楠若を、初は正面から見つめた。
「こんなとこで喧嘩したら、まわりにも迷惑だろ? ほら、荷運びの人らも困ってる」
初の言葉に、成り行きを見守っていた荷役夫たちが同意する。
「そうだそうだ!」「喧嘩なら他所でやれ!」
荷の中には、陶磁器や絹、薬のような高級品もある。傷つけられたら、どれほどの損害が出るかわからない。
周囲からの声で、多少は冷静になるかと思った楠若だが、実際は逆だった。
わなわなと唇を震わせた楠若の顔が、怒りと恥辱の色に染まった。耳まで真っ赤にした楠若は、初の制止を振り切って、腰の刀を抜き放った。
「貴様ら、このわしを愚弄するつもりか!?」
「ちょっ!? 何やってんだ、お前!」
それは、反射的な行動だった。
刀が抜かれるのを見た瞬間、初は楠若の腕に取りついた。自分でも、なぜそんなことをしたのかわからない。とっさの行動だった。
楠若は初の手を振り払い、手にした刀を振り上げた。
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