第50話 慣習法2
後ろから、ぐいと強い力で帯を引っ張られた初は、背後によろめいた。仰け反って倒れた自分の背を、熱く、芯のある塊が、柔らかく受け止める。
初は、自分を受け止めたものと目が合った。白い面に厳しい表情を宿したウヌカルが、がっちりと初の肩を抱きとめていた。
「えっと、いったい何が……」
「姫様、お怪我はっ!?」
菊の悲鳴じみた声。
取り縋る菊を見て、初は顔を上げた。呆然とする楠若と目が合った。
楠若は、何が起こったのかわからない、という顔で佇んでいた。振り上げていた刀をだらりと下げ、ぽかんと驚きを浮かべた目で、初を見つめてくる。
初は、ゆっくりと自分の周囲を見回した。
傍らに、つばのふちをぱっくりと斬られた、市女笠が転がっている。虫垂れが、しどけなく地面に広がり、泥で汚れて無残な姿をさらしていた。
刀で斬られたのだ──気付くのに、初は随分と時間が掛かった。そして気付くと同時に、殺されたかけたという事実が、徐々に重石のごとく圧し掛かってくる。
衆目にさらされた初は、だんだんと頬を蒼褪めさせた。対照的に、楠若は一度落ち着いた顔色が、再び朱の色に染まっていく。
「……おのれ、よくも我が家の姫を、」
「貴様ぁーっ!?」
あえぐような光定の声を遮り、大八はかつてないほどの大音声を発した。
背に負うた鞘から、四尺余りの大太刀を引き抜く。老人とは思えぬ膂力で、大八は大太刀を振り下ろした。
大道を舗装する石畳が、大太刀の一撃を受けて、砕け散る。
間一髪、背後の家臣たちに引き寄せられた楠若は、さっきまで自分の立っていた場所に突き立つ大太刀に、瞼を震わせた。
「……貴様ら、ただで済むと思うなよ」
押し込めた怒りによって、大八の声は低く凝っていた。常の大声とは違う、殺意のこもった野獣の声である。
全身から怒気を発し、頭から湯気を立てる大八を前に、有馬家の侍たちが、じりじりと後退していく。
「一人ずつ、手足をもいで、鮫の餌にしてくれる……貴様は、生きたまま全身の皮を剥いでくれようぞ」
「ぬ、ぬかせっ! 者ども、奴らに目にもの見せてやれ!」
「おうっ!」
有馬家の侍たちが、手に手に刀を抜き放つ。
安宅家の家臣たちも抜刀し、堺の湊は、一瞬にして戦場のごとき様相を呈し始めた。
「下がって、姫様」
いつになく固い声音を発した亀次郎は、ウヌカルから初を受け取り、背後にいざなった。いまだ顔色を失った菊が、しきりに初の背を擦っている。
「か、亀次郎……」
「安心してくだされ、姫様」
菊に初の身を預けた亀次郎は、妙に頼りがいのある顔で笑う。
「あいつら全部、ぶっ殺しますゆえ。何も心配することはありませんぞ」
いや、だから、そういうことではなく──
一触即発の空気の中、有馬家の侍の一人が、「あっ!」と船を見てと叫んだ。
「待て! 逃げるぞ、あいつら!?」
なにっ、と全員が船を振り返る。
足音を立てぬよう、そろそろと船から降りていた童たちが、周囲の視線に固まる。そして瞬く間に、堺の湊を走り出した。
「なっ!? 貴様ら!」
「追え! 逃がすなっ!」
安宅家、有馬家、双方の家臣たちが、童たちを追いかける。が、
(手慣れてんなぁ、あいつら)
安宅家の荷まで奪い、風のように去っていく童たちに、初は感心するやら、呆れるやら。
斬り合いを避け、浮桟橋の近くまで逃れた初は、ふと、木箱の陰に目を向けた。逃げ遅れた童がひとり、外の様子をうかがっていた。
「おい、お前! そこで何やってる!?」
十二、三歳ほどの少年は、水主の叱責を受けて、跳ねるように立ち上がった。
麻袋を抱えて、一目散に走り出す。前を見ぬまま走った少年は、ちょうど進路を塞ぐ形になった初へぶつかった。
腰が抜けていた初は、少年の一撃を受け止められない。ずしりと重い麻袋も相まって、初は少年と共に堤防の淵から海へと落下した。
「くっそ……今日は、こんなんばっかり」
「夜叉丸ぅっ!」
初は、湊特有の薄汚れた海水に顔をしかめる。麻袋を捨て、堤防に取りついた少年は、仲間に向かって呼び掛けた。
夜叉丸と呼ばれた少年は、ぎょろりとした目を堤防に向ける。
すでに他の童たちは、逃げおおせた後だ。殿を務める夜叉丸は、助けを求める仲間を見、追いかけてくる侍を見て、再び仲間を見やった。
痩せこけた顔の真ん中で、くわっ、と両目が見開かれる。
夜叉丸は少年に背を向けると、わき目も振らずに走りだした。
「すまんっ!」
「なっ」
絶句する少年の前で、夜叉丸は湊の隅に積み上げられていた木材を、蹴り倒した。丸太の群れが転がり落ち、けたたましい音が辺り一帯に広がった。
「姫様、お手を」
亀次郎に引き上げられ、石畳に両手を突いた初は、辺りの惨状を見回した。
崩れ落ちた丸太の群れが、そこらじゅうに散らばっている。穀物を運搬する荷車が巻き込まれたのか、辺り一面に、麦と米の雪原が出来上がっていた。
髪の毛に絡まった魚の骨やら藁屑を摘まんで、初は呻き声を上げた。
「今日は、厄日だ……」
「姫様、お怪我は?」
駆け寄ってきた菊が、初の全身を確かめる。旅行用にと、また
「早く着替えを」
「それより、風呂に入りたい……」
自分の身体から漂う悪臭に、初は鼻をつまんだ。
「この糞ガキっ!」
水主たちによって、海から引き上げられた少年が、蹴り飛ばされる。うずくまる少年に、水主たちは容赦なく拳を振り下ろした。
「憑んでおいて逃げ出すとは、何事か!」
「この落とし前、どうつけてくれる!?」
「おい! やめろ、お前ら!」
水主の一人が六角棒を振り上げるのを見て、初は慌てて止めに入った。
「そんなもんで殴ったら、死んじまうだろうが!」
「ですが姫様。こやつの仲間は、我らの下人となっておきながら、逃げだしたのですぞ!?」
他人の屋形に逃げ込んだ以上、その者たちの生殺与奪の権は、屋形の主にゆだねられる。この場合、逃げて行った童たちやこの少年は、安宅家の下人ということになるらしい。
「しかも、荷まで盗んでいきおって。恩知らずも甚だしいわい!」
「ここは一つ、手足の一本も、もぎ取ってですな」
「待て、貴様ら! その者は、我ら有馬家のものぞ!」
小麦粉で真っ白になった男たちが、水主の包囲を掻き分けて現れる。一瞬、誰だかわらなかったが、先頭にいるのは楠若だった。
口や鼻に詰まった小麦粉を吐き出しながら、楠若は訴えた。
「盗人は生かしておけん。この場で、成敗してくれる!」
「何をぬかす! この小童は、安宅家の下人。殺るなら、我らのほうが先じゃ!」
「道理が通らぬことを申すな! 黙って、そやつを引き渡さんか!!」
「おい。貴様らへの仕置きは、まだ済んでおらんぞ!」
大太刀を振り上げた大八が、楠若へと迫る。有馬家の侍たちが、大八を阻もうと刀を向け、安宅家も応じて刀を抜く。
再び異様な熱気に包まれ始めた湊に、初は息を呑んだ。
こんなの異常だ。どっちが盗人を殺すかで揉めて、お互いに殺し合いになるなんて、どうかしてる!
大八が刀を振りかぶり、今にも切り込もうとした時だった。
何か黒い物体が、安宅家と有馬家、双方の間に投げ込まれた。
「ご両家とも、諍いはそれまでにしていただきましょうぞ」
良く通る声とともに現れたのは、一人の僧侶だった。
先ほどの物乞いとは違う、立派な
「し、しかし……この者は、我らの荷を盗み取った罪人でっ」
「袈裟が掛けられた以上、その者は御仏の加護のもとにあり申す。それでもまだ、その者を殺めると仰られるのか?」
反論しようとした楠若は、僧侶の視線に黙り込んだ。
見ると、うずくまる少年の上に、袈裟が掛かっている。先ほど投げ込まれたのは、この袈裟だったらしい。
全身を丸めたまま震える少年を見下ろし、楠若は歯噛みした。渋々刀を収めると、背後の家臣たちを引き連れて去っていった。
「いやあ、何とか間に合いましたな」
騒ぎが収まり、弛緩した空気が流れる湊に、その男はひょっこりと顔を見せた。
辺りに散乱する荷に眉をひそめた男は、光定を見て破顔した。
「
「これは、
驚く光定に、四十絡みほどの男は、けらけらと笑った。
「湊で騒ぎが起こったと聞きましてな。安宅家の方々が巻き込まれてはいかんと、
宗栄というらしい僧侶は、いまだ地に伏せたままの少年を、優しく介護していた。蹴られ、殴られた傷跡を診て、手拭いを当ててやっている。
「あの、叔父上。この方は?」
一旦、少年のことは宋栄に任せ、初は目の前の男に向き直った。
渋い色の胴衣をまとい、茶人帽をかぶった男は、福々しい顔で、その場に佇んでいる。
「初、この者こそ、お前に紹介したかった御仁よ。名を、
これが会合衆の──
初は、男を見上げた。
紅屋宗陽は、商人特有の
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