第31話 日記
「いやぁ、よかったよかった! まさか、ここまで上手くいくとはなぁ」
夕餉を終え、自室に戻った初は、すこぶる機嫌が良かった。
懐から取り出した木札を眺めて、にやにやする。鹿のように軽やかな足取りは、ステップを踏むようで、今にも踊りだしそうなほど弾んでいた。
──お披露目の後、初のもとを工人の少年が訪ねてきた。
『師匠が、これからは自由に鍜治場へ出入りしていいって。姫様に、これを』
少年が差し出したのは、鍜治場へ入るための割符だった。
今朝は、青海の口利きで入れてもらったが、これからは、いつでも好きな時に鍜治場へ行ける。
それはつまり、初も鍜治場の一員として認められたに等しい。
小躍りする初に、少年はもじもじと指先をこすり合わせながら、
『あの……ときどきでいいんで、これからも姫様のお話を聞かせてもらえますか? 俺、感動したんです。姫様が言う、誰も見たことがないものを、俺も作ってみたくて……だから!』
腕の立つ協力者は、何人いても構わない。
二つ返事で了承した初に、少年は顔を真っ赤にしながら走り去っていった。
知識を学ぶことに、喜びを感じるとは。将来は、いい技術者になるに違いない。
思わず鼻歌を歌いだした初に、菊は釘を刺した。
「言っておきますが、姫様が海生寺への出入りを許されたのは、お稽古に差し障りのない範囲でのこと。もし、ご自身の責務を、少しでもお忘れになるようなことがあれば、わたくしにも考えがございますので」
冷えた眼差しを送ってくる菊に、初は口先を尖らせた。
「わかってるよ、それくらい。だから、ちゃんと父上にも許可をとっただろう?」
「
興味がないの間違いじゃないか?
初は、夕餉での出来事を思い返した。
さすがに反対されるだろうと思い、ドキドキしながら海生寺の青涯和尚の下で働きたい、人々を助ける手伝いをしたいと申し出た初に、安定はあっさりとうなずいた。
「御仏の道に寄与するならば、わしも安心だ。心して精進するがよい」
あまりに簡単だったせいか、拍子抜けすると同時に、初は憤りを覚えた。
自分の子供が、見知らぬ他人と触れ合うのだ。それも子供にとっては、危険の多い鍜治場へ出入りすると言ったのに、あの落ち着きようは何なのか。
相変わらず底の見えない眼差しに見つめられたせいか、初は無性に苛立たしかった。
(小夜さんも、兄上たちも、くすくす笑ってるだけだし。やっぱ期待されてないのかね、俺?)
必要なものがあれば揃えるし、銭まで出してくれると安定は言ったが、体よく育児放棄された気がしてならない。
だがしかし、ちゃんと安定の許可を取ったのは、たしかだ。もう菊や大八の目を盗むたに、あれこれと工夫する必要はないし、堂々と鍜治場に出かけられる。
気を取り直した初は、部屋の隅に置いた長櫃に手をかけた。
見事な蒔絵が施された朱色の蓋を開けると、中には大量の本が、びっしりと敷き詰められている。
「どこにやったかなぁ? たしか、このへんに……」
上半身を突っ込み、長櫃の中を漁る。
慎重に本の山を選り分けた初は、目当ての本を見つけて手に取った。
それは記憶だった。
初が、この時代で物心ついてから、今日に至るまで、毎日書き続けてきた日記の一冊である。
人間の記憶というのは存外、頼りにならないものだ。どんなに大事なことでも、ちょっと気を抜いた隙に忘れてしまう。
この時代で目覚めた当初、当然のことながら、初は混乱した。
まわりに知り合いは誰もいないし、性別は幼女に変わっているし、その上、戦国時代だ。正気を保てというほうが無茶だろう。
はじめの頃は、未知の状況におびえていた初も、だんだんとその異常さに慣れていった。と同時に、現代の記憶が薄れ、最初から自分が、この時代の住人だったように錯覚し始めた。
いくらストレスフルな環境だからといって、正気を失うわけにはいかない。
自分の頭が頼りにならないと気付いた初は、自分の本当の記憶を保存することに決めた──
炎の灯りを頼りに、自分で記した日記を読み込んでいく。
日記には、現代の家族の記憶と並んで、大崎慶一郎が、大学院まで学んだ、学術的知識が記されていた。
こうして定期的に、内容を読み返すことによって、現代の記憶を脳に焼き付けていくのだ。
二十数年分の記憶は、膨大な量に上り、同じように日記を詰め込んだ長櫃が、あと三つ、今は蔵の中に収められている。
「この辺が、いけそうかな? いや、今は実績作りが第一だな。となると、もっと手早く作れて、効果の高そうなものは……」
ぶつぶつと呟きながら、紙面に目を凝らす。
やはり、炎の灯りでは字が読みづらい。
初が使っているのは、アルコールランプを真似て作った照明器具だ。陶製の小瓶に、い草の芯を差した簡便な構造で、この時代で一般的な燈明皿よりも、火事になる危険性が低い。
使くやすく量産しやすいということで、今では安宅家のいたるところで使われている。
本当は、灯火部分をガラスで覆いたかったのだが、この時代のガラスは割れやすいので断念した。
こいつも、これからの課題だな。
陶製ランプを睨みながら、初は心の中で呟いた。
────────────────────────────────────
──その夜のことだった。
床についていた初は、慌ただしく廊下を行き交う足音に、目を覚ました。
「何の騒ぎだ、いったい?」
眠い目をこすりながら、襖を開ける。
隣の部屋で控えていた不寝番の侍女たちが、不安そうな顔で振り向いた。
「辰、若菜、何があったんだ?」
「それが、その……何分、急なことですので」
二人の侍女は、共に事態を把握していないらしい。
仕方なく、寝巻の上から小袖を羽織り、初は自ら騒ぎの中心へと向かった。
真夜中の館の廊下は暗く、侍女たちが灯りで足元を照らしても、わずかな距離しか見通せない。
まずは電球の設置が急務だな、と心に誓いながら、初は手探り足探りで、慎重に廊下を進んだ。
「兄上、これは何事ですか?」
ちょうど広間へ入ろうとしていた頼定を捕まえて、初は事情を尋ねた。
広間の中央では、安定と直定、それに叔父の光定が、額を突き合わせて、何事か話し合っている。
いずれも真剣な面持ちで、普段は穏やかな直定でさえ、厳めしい眼光が、おぼろげな灯りの中に浮かんでいた。
「どうやら、戦が起きたらしい」
「戦?」
「隣国の大和に、三好の軍勢が攻め入った。すでに筒井、十市は攻め落とされ、平群谷が焼き払われたと」
現実味のない話に、初はどう反応していいかわからなかった。
それを不安の表れと受け取ったのか、頼定は強張っていた顎を緩めた。
「案ずるな。大和と熊野の間は、山で遮られておる。吉野の周辺には、恐ろしい僧衆もおるでな」
初の頭をひと撫ですると、頼定は評定の輪に加わるべく、広間への中へと歩き出した。
「戦とは、恐ろしげな……もしや、三好の軍勢は、紀州へも攻め込んでくるのでは?」
「畠山様は、未だご家中がまとまっていないとか。そんなところを攻められたら……」
侍女たちの会話を遠くに聞きながら、初は戦という単語を反芻した。
ここが戦国時代だというのは、なんとなく理解していた。だが、身近で本当に戦が起こったのは、これがはじめての経験である。
初は、開け放たれた雨戸の外を覗いた。
月明かりの中に、ぼんやりと熊野から紀伊山地へと続く山々が、浮かび上がっている。
あの向こうで、戦争をしている。人が殺し合っている──
何の現実味もわかないまま、初はただ、ぼーっと暗闇に沈む山々を眺めていた。
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