第17話 海生寺

 日置川をさかのぼるには、舟を使う。

 潮の干満を利用して、舟を遡上させるのだ。


 午後になり、ちょうど潮が満ちてきたタイミングで、川舟は湊を離れた。


 帆が風を受けて膨らむ。


 ゆっくりと川面を滑り出した舟の中で、初は義房よしふさの背を眺めていた。


 川舟は二艘。義房たちは、前を行く舟に乗っている。

 何かあれば、すぐにでも駆けつけるつもりだった初は、ひそかに冷や汗を流していた。


 日置川は、左右を山に囲まれた川だ。進んでも進んでも辺りには山しか見えず、時折、集落が現れるくらい。


 いま襲われたら、おそらく目撃者はいないだろう。人を始末するには、これほど適した場所もない。

 なんだか不安になってきた初の隣で、菊は泰然自若と構えていた。

 いつもなら不安を感じる無表情も、いまはむしろ頼もしい。


 じりじりと日差しが照り付ける中、舟は緩慢な速度で川をさかのぼっていった。


 そわそわと周囲を見回す初の背後では、聖がのんきに景色を楽しんでいた。帆を操る水主にちょっかいをかけながら、川で掬ったエビを生のまま齧っている。


 船頭が、棹の柄を胸に当てて体重をかける。

 蛇行を繰り返す日置川に沿って舟が曲がり、一行は少し開けた場所へとたどり着いた。


「あれが、海生寺でさあ」


 船頭が指さしたのは、川に突き出した斜面の突端だった。


 基礎を支える重厚な石垣に、見事な漆喰の土塀。陽光を照り返すいぶし銀の瓦屋根は、安宅館あたぎだてより立派かもしれない。


 しかし、それよりも初が気になったのは、向かって右手に見える河岸だった。


 船頭が中嶋なかしまと呼ぶ河岸には、いくつもの建物が建ち並んでいた。


 木造ではない。おそらく煉瓦と、あの灰色がっているのは牡蠣殻だろうか? たしか唐人町にも、同じような造りの建物があったはずだ。

 河岸には水路が作られ、川から引き入れた水を使って、水車がのろのろと回転している。


 そして何よりも初の目を引いたのが、煙突の群れだ。


 もくもくと煙を上げる煙突が密集している様は、ひどく初の心をざわめかせた。


「あれ、もしかして工場か?」


 うっすらとだが、金属同士が擦れ合う硬質な音が聞こえる。


 舟から身を乗り出しかけた初を、菊が慌てて抱き留めた。


「姫様、何をなさっているのです!」

「離せ。向こうが見えん」

「ダメに決まっているでしょう! 舟から落ちるつもりですか!?」


 菊を腰に貼り付けたまま、身体を伸び上がらせる。


 河岸の周囲は高い堤防で囲まれ、ここからでは中が覗けない。

 おそらく、産業スパイを警戒しているのだろう。堤防の上には要所要所に人が立って、鋭い視線を辺りに投げかけている。


「姫様には、鍜治場が珍しいですかな?」


 帆を操る手引てびきが、おかしそうに笑う。


 初は、菊に引っ張られて舟内に身を戻しながら、


「あそこは、何の建物だ? 鍜治場ってことは、刀を作ってるのか?」

「へえ。刀も作っておりますが、他にもいろいろですなぁ」


 舟を岸に着けながら、船頭が言った。


「あすこは流れの職人やら、唐人やらが集まってる場所でして。鋳物師に細工師、鍛冶師と大抵のものはそろっておりますな」

「この辺りは、青涯せいがい様を慕って、いろんな人間が集まってくるんでさぁ。ここだけじゃのうて、上流の向平むかいたいら久木ひさぎにも、似たような鍜治場がごぜえます」


 岸に降りながら、初は日置川の上流を見つめた。


 山の稜線の向こうには、たしかに煙がたなびいている。


 歩き出そうとした初の手を、菊が握って引き止めた。


「どこへ行かれるのです? 寺は、こちらですよ」

「あ、ああ……そうだったな」


 菊に諭され、それでも何度も背後を振り返りながら、初は海生寺へと向かった。

      







 見上げるような大門をくぐると、畑が広がっていた。


「……ここ、寺だよな?」

「そのはずですが」


 菊が、珍しく驚いた顔をしている。聞けば、海生寺へ来るのは、菊もはじめてらしい。


 茄子なす胡瓜きゅうり大根だいこんかぶから、あの赤い実は唐辛子だろうか?

 種々様々な作物が植えられた畑を、初は見回した。


 法堂や本堂など、寺院らしい建物もあるにはあるのだが、それらは敷地の端へと追いやられている。代わりに、ガラス張りとおぼしき建物がでっかく鎮座していたり、変な臭いを発する小屋があったりと、どう見ても寺院らしくない。


「まるで、農業試験場みたいだな」


 大学の敷地内にあった施設を思い出しながら、初は義房たちの後をついて行った。


 どうやら、法堂に向かっているらしい。漂流者たちは、そこで治療されるのか。

 山肌に、へばり付くようにして建った法堂には、すでに多くの人々が詰めかけていた。


 入口前には、脱ぎ散らかされた草履や足半あしなかが散乱し、中からは笑い声が響いてくる。


「お、今日は青峰せいほう殿だったか。こりゃあ、もう少し早く来るべきでしたな」


 訝しげな顔をする初に、聖は「ほれ」と法堂の奥を示した。


「演壇で説法をしている小坊主。あれが、青峰じゃ。青涯殿の弟子の一人じゃよ」


 小坊主、というには明らかに年を取りすぎた男が一人、演壇に座っていた。

 年の頃は、三十ほどか。切れ長の目元や、すっと通った鼻筋は、いかにもな美形である。


 青峰が朗々と響く声で喋ると、聴衆たちは吸い寄せられるように話へ聞き入った。身振り手振りで人目を惹きつけ、時に左手の拍子木を叩いて合の手を入れる。


 人々から喝采を浴びる青峰の姿に、初は目を見開いた。


 見台けんだい膝隠ひざかくし。左手に持っているのは、まさか小拍子こびょうしか?

 まごうことなき、上方落語のスタイルである。


(落語って、江戸時代に生まれたんじゃなかったっけ?)


 片眉を上げる初の隣で、聖は嬉しそうに頬を緩めた。


「元犬じゃな。わしは、この話が好きでなぁ」


 青峰の滑らかな語り口に、聴衆が沸き上がる。

 聖も、腹を抱えて笑い転げた。


「やはり、青峰殿は説法上手よな。こういう滑稽な話をさせれば、東西一じゃわい」

「そうかぁ? 私にはむしろ、へたくそに見えるが」


 初は顎をさすりながら、演壇に座る青峰を睨んだ。

 仕草がいちいち大仰だし、言葉のアクセントや選び方も、いまいちな気がする。小拍子だって、あんなやたらめったら叩くものではない。あれではまるで、講談である。


 オチを口にした青峰が、頭を下げる。


 やんやと称賛を送る人々に初が唸っていると、青峰はちらりと入口に目を向けた。


「……っ」

「どうなさいました?」


 急にうなじを押さえた初に、菊が怪訝な顔をする。

 初は「ああ、いや……」と言葉を濁した。

 うなじを掻いた手に目を向ける。


(なんで今、鳥肌が立ったんだ?)


 夏の盛りに寒気なんて。まさか、風邪でもひいたのか?


 初が首を捻っていると、聴衆へのあいさつを終えた青峰が、法堂の入口へとやってきた。


「義房殿、その方々は?」


 青峰は、一瞬だけ初に視線を向け、すぐに義房へと向き直った。


「日置浦に、寄舟が現れもうした。こやつらは、船とともに流れ着いた者たちにて」

「それはいかん! 早う和尚様に、お知らせせねば」


 漂流者たちを見るなり、青峰は周囲の者に呼び掛けた。


峰地みねじ、和尚様をお呼びしてまいれ。他の者は、この者たちの手当てを!」


 漂流者たちが、法堂に担ぎ込まれていく。


 先ほどまで青峰の落語を聞いていた者たちの手によって、法堂の床に畳が敷かれた。女たちは、湯を沸かそうと厨に走り、医術の心得があるらしき老人たちが、漂流者の脈を取り始める。


「身体が冷え切っておる。このままでは、弱る一方じゃぞ」

「どこぞに余った着物はないか。この者らに、何か羽織るものを」


 法堂に集まった聴衆が、次々と着物を脱ぎ始める。


 どうやら、本当に寺で治療してもらえるらしい。


 漂流者を介抱する人々の姿に、初は安堵した。


「どうじゃ、安心したかね?」


 聖の問いかけに、初はうなずいた。


「ああ。疑って悪かったな、義房さん」


 この見た目だ。てっきり、人買い商人の類だと思っていた。


 この時代では、普通に人身売買が行われている。喜多七たちに聞いた話では、戦で焼け出された人たちを狙って、野伏のぶせりや野盗が跋扈ばっこしているらしい。


 義房は、無言のまま頭を下げると、足早にその場を離れていった。自分の仕事はこれで終わり、ということだろう。


「姫様、もうお気は済んだでしょう。そろそろ、お館に」

「ん? ああ、そうだな」


 脱いだ着物の下敷きになった漂流者たちを眺めていた初は、どうやって菊を説得したものかと思案した。


 あの鍜治場の中を見学したい。


 漂流者に対する心配がなくなった今、初の頭はそのことで占められていた。


(こんな場所まで遠出できる機会なんて、滅多にないんだ。今を逃したら、今度はいつになるか)


 これを逃す手はない。

 初の雰囲気が変化したのを、敏感に察したのか。菊が、明らかに警戒し始めた。


「こちらでございます、和尚様!」


 寺男に先導されて、一人の僧侶が法堂前に現れた。


 じりじりと壁際に追い込まれていた初は、その僧侶に目を向ける。


 真っ黒に日焼けした顔に、麦わら帽子。墨染の衣は土で汚れており、首に巻いた手拭いや汚れた足元は、先ほどまで農作業をしていたことを物語っている。


「漂流者はどこだね? その者たちの具合は?」


 法堂に飛び込んだ僧侶は、着物の山に埋もれた漂流者たちに、面食らった。

 脈を診ていた老人たちに話を聞き、いくつか指示を出すと、僧侶は安心した様子で息をついた。


「これなら、大丈夫だろう。目を覚ましたら、少しずつ食事を与えなさい。できるだけ、消化に良いものを出すようにね」

「はっ、心得ておりまする」


 青峰に声をかけた僧侶は、ふと初の姿を目にして瞬きした。


「その方たちは?」


 菊に左腕をキメられていた初は「ほ、ほら菊! 和尚様に挨拶を!」「このままでもできます」「いや失礼だろ、この体勢は!?」


 何とか解放された初は、左腕をさすりながら、僧侶に会釈した。


「安宅初と申します。あの漂流者たちを見届けるため、ここまでついて参りました」

「おお、これはご丁寧に。この寺の住持をしております、青涯でございます」


 初は、ばれないように青涯の全身を観察した。


 なんだかイメージと違う。


 喜多七たちの話しぶりからすると、もっと威厳がありそうな感じだったが、実物はかなり腰が低い。年齢は、壮年に差し掛かるころのはずだが、全体的にくたびれているせいか、もっと年上に見えた。

 脂肪の少ない身体はほそっこく、小柄な身長も相まって、とても偉大な人物には見えない。


 たとえは悪いが、かりんとうみたいな男だった。


「初姫様にお会いするのは、数年ぶりですかな。幼い頃には、何度かお目通りしておるのですが」

「はあ……その、すみませんが記憶になくて……」

「いやいや、気にされずとも良い。まだ姫様が、言葉も覚えておらぬ時分の話でございます」


 口調は穏やかだが、青涯の眼差しには、妙な真剣みがこもっていた。


 そこに値踏みの色を見つけた初は、なんとなく居心地の悪さを感じる。


「どうですかな、茶でも一杯。この暑さです。さぞ、喉が渇いておいででしょう」

「いえ、お気になさらず。ちょうど今、帰るところでしたので」

「そう言わず、ぜひ一服していってくだされ」


 青涯は、まっすぐな瞳で初を見つめた。


「姫様の噂は、私も聞き及んでおります。ぜひ一度、お話をしたいと思っておったのですよ」


「実は姫様に、折り入ってご相談がございまする」そう言って青涯は、声を潜めた。


 こんな小娘に、いったい何の用があるというのか。

 熱を帯びた眼差しを向けられて、初はますます困惑した。


(まさか、ロリコンじゃなかろうな?)


 聖職者には、意外とその手の趣味が多いと聞く。


 身構える初に、青涯は距離を詰めた。

 最初はそろりと。初が身を引けば、その分だけ踏み込み、徐々に一歩が大きくなっていく。


(え、なに? なに!? どういう状況!?)


 背後へと後退しながら、初は混乱していた。


「せ、青涯殿! なぜ、追いかけてくるのです!?」

「姫様こそ、なぜお逃げなさる? わたしはただ、話をしたいだけですぞ」


 海生寺の境内を舞台に、男と幼女の追いかけっこが始まった。


 まわりの者たちは、何かのイベントだとでも思っているのか、遠巻きにするだけで助けてくれる気配はない。菊にまで白い目を向けられて、初は「違う! 私のせいじゃない!」と必死に合図を送った。


 ついに土塀の隅へと追い込まれた初は、青涯を見上げた。


 お互い、肩で息をしている。体力的にも、次の攻防で決着がつくだろう。


「ひ、姫様……わたしの話を」

「こ、こちらには……は、話など……ありませんと……言っているでは」


 ぜえぜえと息を荒げながら、青涯の隙をうかがっていた初は、伽藍の片隅を目にして動きを止めた。


 どくりと、心臓が鼓動を打つのを感じた。


 動悸が止まらない。息が苦しくなり、乱れた呼吸を抑えようと、初は胸元を握りしめた。


「な、なんで……なんであれが、ここに?」


 まさか、そんな、あれがこの時代にあるなんて、そんなはず──


 脂汗を流す初の様子に、青涯が眉根を寄せる。


 初はふらふらと、まるで夢遊病者のような足取りで、青涯ににじり寄った。

 当惑する青涯の袈裟を掴み、引き寄せる。


 初は、息がかかるほどの距離から青涯の瞳を覗き込んだ。


「なんでここに、ホスベーがあるんですか!?」

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