第18話 青涯

 ──ホスベー。


 正式には、回転式魚天日干し機。あるいは単に、魚類乾燥機などと呼ばれる装置の通称である。


 日本は四方を海に囲まれた国だけあって、古来から盛んに漁が行われてきた。その際、捕らえた魚を保存するために開発されたのが、干物だ。


 古くは奈良時代に宮廷への献上品とされた干物は、時を経ても製法はそれほど変化しなかった。


 魚を開いて内臓を出し、あとは天日にさらして乾かすだけ。あらかじめ塩水に浸けるなどの手間をかけることはあっても、この基本は変わらない。それゆえに、干物特有の問題点も、連綿と継承され続けてきた。すなわち、鳥とハエである。

 

 生の魚を屋外に放置すれば、どうしても匂いにつられて、鳥やハエなどの害虫が寄ってくる。

 鳥についばまれ、ハエに卵を産み付けられた干物に、商品としての価値はない。それを防ぐため、漁師たちは魚を獲っては天日に干し、鳥やハエを追い払うために手拭いや箒を振り回す日々。


 そんな状況を一変させたのが、ホスベーだった。


 リング状の鉄の輪にフックで魚介類を吊り下げ、モーターで回転させるだけというシンプルな装置は、その見た目に反して実に画期的な代物だった。


 回転する魚には、鳥もハエも近づけない。しかも、回転させることによって、干物は早く乾燥する。


 漁師たちの長きに渡る苦闘と戦いに終止符を打ち、干物業界に福音をもたらした存在。

 ホスベーは、日本の干物界に革命を起こした、真に偉大な発明だった。







      

「──はじめて見たのは、家族で城之崎へ旅行に行った時だったんですけどね。いやぁ、感動したなぁ。あんな単純な仕組みで、長年の問題を解決するなんて、すごいじゃないですか? ちょっと考えれば思いつきそうなもんなのに、それまで誰も考え付かなかったんだもんなぁ」


 初は、ホスベーとの出会いを熱く語った。


 抜けるような青空の下、海を背景にくるくると回転する干物の姿は、今でも瞼の裏に焼き付いている。あんな単純な仕掛けが、多くの人々の役に立っていると知ったときは、言いしれない感情が全身を駆け巡ったものだ。


 自分もこんな製品を作りたい。人の役に立つ発明をしたい。


 思えば、あの出会いこそが、自分がエンジニアを志した理由なのかもしれなかった。


「技術屋ってのは、世の中を一変させるような発明をするのも大切ですけどね。でも、そういう生活の不便を取り除くような、ちょっとした製品の開発も重要だと思うんですよ。人間って、ついつい派手なほうへ目が行きがちですけど、技術っていうのは人の役に立ってナンボですからね。そういう意味で、あのホスベーは実に画期的な発明だったわけです。それに、こんな時代で出会えるなんて!」


 勢い込む初に、青涯は「まあまあ、落ち着いて」と手のひらを掲げた。


 海生寺の境内に建てられた、茶室でのことである。


 ホスベーについて問いただす初を、青涯はこの茶室へと案内した。


 斜面の頂に建てられた茶室からの眺めは、なかなかのものだった。周囲を一望、とまではいかないが、それでも寺の周辺を見渡すことはできる。


 向平むかいたいら久木ひさぎ、さらに上流の宇津木うつぎ玉伝たまでに至るまで。

 各所から上がる鍜治場の煙に、初は興奮を隠せなかった。茶室に入った当初は、しばらく窓の前から動けなかったほどである。


「和尚様、お茶をお持ちしました」


 躙口にじりぐちが開かれ、盆を捧げ持った少女が現れる。


 まだ十代前半ほどの少女は、しずしずと初と青涯の前に進み出た。


「すまないね、レイハン。お茶は、そこに置いておくれ」

「はい」


 静かな所作で茶碗を並べていく少女を、初は観察した。


(外国人か?)


 白い面に、形の良い眉。けぶるような睫毛に彩られた琥珀色の瞳は、こぼれ落ちそうなほど大きい。


 日本人とは違う、どこかエキゾチックな雰囲気をたたえた少女は、初の視線に気づいて会釈した。それほど年は離れていないはずだが、薄く笑みを浮かべた口元が、なんだか妙に艶めかしかった。


「彼女は、ウイグル人なんだ」


 初の疑問を察したのか、青涯はレイハンと呼ばれた少女を示した。


「私の身の回りの世話をしてもらっていてね。いつも助けられている」

「レイハンギュルと申します。どうぞ、レイハンとお呼びください」


 滑らかな日本語が、転がり出る。

 美声をたとえて鈴を転がすようなというが、これほどその表現が似合う声を、初は他に知らなかった。


「レイハンさんも、青涯和尚を慕ってここへ?」

「ああ、いや。彼女は、ちょっと事情があって……」

「明で人買い商人に売られたのです」


 面食らう初を、レイハンは夜の湖みたいに静かな瞳で見つめ返した。まるで、こちらの胸の中を透かし見るような眼差しだった。


「漢人たちが西遼と呼ぶ土地で、私は生を受けました。私の家は貧しく、弟たちを養うため、私は売りに出されたのです」


 レイハンの口調は、淡々としていた。


 壮絶な経験のはずなのに、そこには怒りも憎しみも感じられない。ただあるがままを語る。そういう口調だった。


「いくつもの山と谷を越え、奴隷市場に並べられた私を、和尚様が引き取ってくださいました。無学だった私に読み書きを教え、この寺に住まわせてくれたのです。和尚様には、どれほど感謝してもしきれません」


 澄んでいたレイハンの瞳に、かすかな感情が宿った。


 熱っぽい瞳で見つめられた青涯は、なぜか苦し気に顔をしかめた。


「わたしは、大したことはしていないよ。学を身に着けたのは、君の努力の賜物だ。わたしのしたことなど、たかが知れている」

「いいえ、和尚様。あなたのお陰で、私は救われたのです。それは間違いのない事実でございます」


 レイハンは、縋り付くようにして青涯の肩に触れた。


「もし、和尚様に引き取っていただけなかったら、私は今頃どうなっていたでしょう? どこぞで、見知らぬ相手の慰み者になっていたかもしれません。たとえ売りに出されなかったとしても、その時はこうして広い世界を知ることもなく、無学な人間として一生を終えたはずです。和尚様に出会わなかったら、私は……」


 青涯を見つめるレイハンの瞳には、とても強い心情がこもっていた。


 声を詰まらせ、うるんだ瞳で、ただただ青涯を見つめる。そんなレイハンを、青涯は苦し気に見つめ返した。まるで、痛ましいものでも見るような、目つきだった。


「……渋っ」


 初は、一口飲んだ茶に顔を歪めた。


 それまで茶室に充満していた、何とも言えない空気が霧散していく。


 渋みと苦みで痺れた舌を、んべっと突き出した初は、二人の視線に慌てて、


「あ、すみません。このお茶が、あんまり渋かったもんで、つい……」


 レイハンの瞼が、すっと細められた。しかし次の瞬間には、あの静かな眼差しに戻っている。


「……茶葉を間違えたようです。淹れなおしてまいります」


 茶碗を盆に戻したレイハンは、入ってきたときと同じように、しずしずと躙口から去っていった。


「申し訳ありません。お恥ずかしいところをお見せした」

「いえいえ、お気になさらず」


 見せられたというか、見せつけられたというか。何とも表現しづらい情景だった。


(そういや今は、女の身体なんだよなぁ)


 初は、遠い目をして考え込んだ。


 お年頃なのだろう。この時代は、現代に比べて結婚も早いし。警戒とかマーキングとか、まあ、いろいろとあるのだろう。

 あえて指摘はしないが、青涯には年長者として節度あるお付き合いをしてもらいたい。


 気不味い空気を、初は咳払いではらった。


 座布団に座りなおした初は、あらためて青涯と向き合った。


「それで、私に話っていうのは?」


 ある種の確信を込めながら、初は問いかけた。


 予感はあった。この時代に来てから、違和感は感じていたのだ。


 矢代村にあった石鹸、風車、村人が使っている農具の数々。

 それらはすべて、ここ二十年ほどの間に登場したと聞いている。それをもたらしたのが、海生寺の青涯和尚だとも。


 手のひらにかいた汗を、着物の裾で拭う。


 緊張する初に、青涯は澄んだ眼差しを向けた。


「矢代村に、風車があるんだ。それを改良したのは、君だと聞いてる」


 本当かい? と問いかける青涯に、初はうなずいた。


「その知識を、君はいったいどこで得た? 誰かから、教わったのかい?」


 ──これは、核心へ踏み込む質問だ。


 そう感じた初は、小さく息をつくと、まなじりを決して青涯を見つめ返した。


「──俺は、遠い未来からやってきました。本名は、大崎慶一郎おおさきけいいちろう。大学の工学部に通う学生です」


 どうだ、と初は青涯の反応をうかがった。

 こちらは、すべてをさらした。向こうは、どう出るか?


「そうか」と青涯は、噛みしめるように口にした。


 初を見つめる眼差しが熱を持つ。膝の上に置かれたこぶしが握りしめられ、痩身がわずかに震えたような気がした。


「ありがとう。正直に話してくれて」


 固く握られていた拳が開かれ、青涯の瞳に暖かな光が宿る。


 息を詰める初に、青涯はゆっくりとした調子で話し始めた。


「私の本名は、加藤亨かとうとおる。日本の、現代の農学者だ」

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