海賊の姫──熊野海賊興亡記──
うつみ いっ筆
第1話 勇魚取
弘治元年(1555年) 紀伊国
波頭の間を、無数の船が行き交っている。
赤や黄色など、きらびやかな色彩に彩られた舟たちが、波を蹴立てて駆け回る。朝焼けが照らす海に幾艘もの勢子舟が並ぶ姿は、まるで金色の野に錦の帯がはためているようだ。
勢子舟の舳先に立った
「
光定の指示に合わせて、鉦が、太鼓が叩かれる。
それぞれに符丁を聞き取った勢子舟たちが、15丁の艪を蹴立てて、見る見るうちに加速していく。
海面から、水飛沫が上がった。
身の丈、10間はありそうな抹香鯨が、海中で身をよじった。新たに突き刺さった銛に、身悶えているのだろう。
すでに三本の銛を突き立てられた抹香鯨は、身体のいたるところから血を流し、徐々に行き足を落としていく。
「
潮に焼けた胴間声を上げて、船頭の
光定は
「いや、いま少し様子を見よう。手負いの鯨は、怖いでな」
尾が一跳ねしただけで、人も舟もばらばらにされる。鯨の巨体に比べれば、光定たちなど、虫けらも同然だ。
案の定、再び息を吹き返した抹香鯨は、捕獲用に張り巡らされた網を避けて、沖へと逃れ始めた。
速度を上げる鯨の鼻先へ、一艘の勢子舟が回り込んだ。
舳先で銛を構えた四郎衛門の身体が、ぐっとたわめられる。荒縄のような筋肉の束が膨れ上がり、太い腕が引き絞られた弓のごとくしなる。
四郎衛門の放った銛が、海を穿った。
脳天に銛を食らった抹香鯨が、一度、大きく身を震わせる。
見る間に力をなくしていく鯨に
鯨から流れ出した血で、海面が真っ赤に染まる。鯨があげる断末魔を耳にして、光定は小さく口の中で念仏を唱えた。
こうなればもう、鯨は海に潜れない。
鯨を仕留め終えたのを確認した光定は、助三郎に命じて舟の進路を変えさせた。
「叔父上!」
捕鯨船団の後方に控えていた船に乗り込むなり、飛びついてきた
齢十歳。まだまだ稚気が抜けぬ鶴丸は、くりくりとした眼差しで、光定を見上げてくる。
「凄いです! あんな大きな鯨を仕留めるなんて!」
「はっはっはっ、そうだろうそうだろう! お前もいずれ、あの舟に乗るのだぞ。今のうちに、しっかりと見ておくがいい」
「はい!」
元気良く返事をした甥っ子が、船縁へと駆けていく。
鯨の姿にはしゃぐ鶴丸を見ながら、光定は大きく伸びをした。
鯨打は、一瞬の油断が命取りになる。舟に乗っている間は、常に気を張っておかねばならず、一仕事終えると、全身の筋肉が石のように強張った。
「どうじゃ、平蔵。ぬかりはないか!?」
バキバキと音を立てる肩を回しながら、光定は頭上に問いかけた。
船の帆柱に登っていた
問題はない。作業は順調の合図。
それにうなずきを返し、光定は船縁に立った。
新しい漁法だけに不安があったが、取り越し苦労だったか。鯨に縄をかける漁師たちの姿を見渡して、光定は胸の中に詰めていた息を吐き出した。
「いやぁ、しかし凄いですな。まさか、抹香を仕留められるとは」
隣に並んだ助三郎が、巨大な鯨に感嘆の声を上げた。
抹香鯨は、足が速い。銛を突き刺すだけでは、弱らせきる前に逃げられる。かといって不用意に近づけば、その巨体で舟を沈められるのがオチだ。
舟で囲んで銛を投げるだけでは、抹香鯨は仕留められない。
対して今回、光定たちが試したのは、網を使う方法だった。
苧で作った網を海中に張り巡らせて、鯨の逃げ道を塞ぐ。その上で勢子舟が連携して、鯨を追い込むのだ。
決して、鯨捕りが楽になったわけではない。巨大な網の用意や、それを運ぶための船を揃えるには、銭もかかる。
だがこの方法ならば、今まで相手にできなかった座頭鯨や抹香鯨を狙うことができる。これまで悠々と沖を泳ぐ姿を目にしながら、指をくわえて見ているしかなかった獲物を仕留められるのだ。
その事実は、安宅荘に暮らす漁師たちに希望を与えた。そして今日、その希望が決して夢物語などではないと証明して見せたのである。
「さすがは、
二艘の
あれだけの鯨だ。安宅荘どころか、熊野の浦々が皆、潤うほどの獲物である。
勢子舟たちは、互いに競うようにして
早く大手柄を自慢したくて、たまらないのだろう。伸びやかに艪を漕ぐ水主たちの姿に、光定は満足げにうなずいた。
「水主たちも良く鍛えられておる。一時は見る影もなかった我が家も、これなら堂々と熊野海賊を名乗れような」
「謙遜が過ぎますぞ、民部大輔様! 今の安宅家ならば、
助三郎が、胸を張って言う。
浜辺には、捕れた鯨を一目見ようと、大勢の人々が集まっていた。
これでしばらくは、食い扶持に困らぬ。いやいや、それどころか一財産。これだけの鯨ならば、骨も筋も皆、飛ぶように売れる──
まるで、この世の春が来たごとき騒ぎ様。
喜びを分かち合う民の姿に、光定は呵呵と大笑した。
──光の届かぬ船倉に、一つの人影があった。
薄暗闇の中、その人物は黙って手を動かしている。
かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。金属の擦れ合う音。
誰にも見咎められることなく、ただ無心に手を動かし続ける。
ふと、人影は顔を上げた。頭を左右にめぐらし、外から響く歓声を聞き取ろうと、耳を傾ける。
やがて興味が失せたのか、人影は再び手を動かし始めた。
かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。
まるで何かに憑り依かれたように、人影は手を動かし続けた。
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