卵とバター

火星七乙

第1話 兄と、料理と、日常

 部屋に帰った瞬間、頭に靄がかかる。

 会社では優秀らしい母が、家では無神経だったのも同じ理屈なのかもしれない。文字通りオフなのだ。

外では完璧な自分を演じているから、家ではスイッチが切り替わる。

今の私みたいに。もちろん、私は母とは違って無理やり自分のいいところだけ凝縮して演じたって完璧にはなれていないのだけれど。





 大学に進学してから三年半住み続けた賃貸マンションの玄関で、半日見栄だけで伸ばし続けていた背を丸め、履き慣れないパンプスを脱ぎ散らかす。冷たい空気がストッキング越しに靴擦れに当たってひやっととした。


 先の尖ったまだ硬い革の下で自分の薄い爪や小さな指がぐちゃぐちゃになっている映像が浮かんで足を見てみたけど、小指の皮が少しめくれているだけだった。


 もうちょっと痛ましい姿になっていたらよかったのに。


 この程度の靴擦れで足を引きずって歩いて馬鹿みたい。何の絵にもならないじゃん。

 まあ足がぐちゃぐちゃになってても困るけど。グロい絵だし。


 低い溜息をつきながら重たい就活バッグ――四月から通勤バッグになるそれを投げるように床に置いてから、デパートで買った食材が入った袋をそーっと置いた。


 中に卵が入っている。内定先の会社の近くにデパートがあるからって寄るんじゃなかった。化粧品にも洋服にもバッグにもさして思い入れのない私は、結局一番興味のある地下一階の食品コーナーに入り、スーパーでも買えるようなラインナップの食材を割高な値段で買って、揺れるバスの中で卵を割らないよう一生懸命抱えて帰る羽目になった。

 思えば、今日の内定式が終わった時点でとっくにスイッチが切れていたのかもしれない。



「だるぅい」


 玄関でスーツのジャケットを脱いで廊下に放り、そのまま床に座ってストッキングに手をかける。


「うお、何。おかえり」


 いつの間にか玄関に通じる廊下をのぞき込んでいたきいちゃんが、半分ストッキングを脱いでいる不恰好な私を見て呆れながらも、律儀に出迎える。


「おう、ただいま」


 私はスカートがはだけてないことだけを確認し、後は何も気にせずストッキングを脱ぐ。


「とても四月から社会人の二十二歳女性(独身)の姿とは思えん」


「かっこ独身かっこ閉じるはいらんでしょ。……もうめちゃくちゃ気い使って疲れた、今日」


「まあ気い使うよな。でもあんまりしっかり演じ過ぎんなよ。大学ぼっちはまだいいが会社でぼっちは笑えん」


「ちょっと韻踏んでんじゃん」


「何が?」


「何でもなかった」


「よく分からんけど、ユキは外でも俺に話すみたいにすればいいのに。ずっと演技だと人が壁を感じちゃうよ」


 きいちゃんは同い年のくせに時々保護者ぶったアドバイスをする。生まれに一年近く差がある同級生がいる中で、同じ日に生まれた私たちの序列なんて記号みたいなものだ。それでも、きいちゃんの中では兄は兄なのだそうだ。


 すらっと伸びた背に彫の深い顔。ダークブラウンの硬い髪に、切れ長の目、高い鼻。今日も端正なお姿で。私も男に生まれたら良かった。私たちは一卵性ではないけれど、身体の特徴は同じ部品を使ったかのようによく似ている。


 でも高い身長も彫の深い顔も硬い髪も切れ長の目も大きい鼻も、女の私にはマイナスに働いててなんとも可愛くない。男だったら私もイケメンだったかもしれないのに。それで、きいちゃんみたいに柔和でふわふわしてて、真っ直ぐで優しい生き物になれていたかもしれないのに。同じ家庭で育ったのに私の心はひねくれて歪で、きつそうに見える容姿で人からちょっと怖がられて、勝手にしっかり者だと期待されて、勝手にがっかりされるのが嫌で外で演じて。


 それでこれからは演じた私を買って内定を出した会社で何十年も働くんだ。なあんでこんな生きづらい生き物になっちゃったんだろう。


「ねえユキ、俺の話聞いてる?」


「聞いてる聞いてる。今日の晩御飯ね、チキンバターカレー」


「聞いてねー」


「なんと、卵を乗せてドリア風にします」


「やった」


 きいちゃんはオムライスとか半熟卵とか、とにかくとろとろの卵が大好物だ。

 私も好き、というか、私たちは食の好みが全く同じだ。それは私たちの数少ない内面の共通点で、きっと母の料理に原因がある。


 多忙な母はあまり食に関心がなく、料理は家事の一環、食事は栄養補給としか考えていなかったようで、パックのまま醤油をぶっかけた冷奴とか、茶碗の中で味噌を溶いた具なしの味噌汁とか、冷蔵庫のしなびた野菜の欠片と冷凍肉を塩だけで炒めた肉野菜炒めとか、不味くはないけれど決して美味しくもない料理がよく食卓に並んでいた。


 当時不満だったかと問われたらそうじゃない。


 母は私が六歳のときに父と離婚して、ほとんど女手一つで育ててくれたのだ。

 売れっ子営業ウーマンのくせに家ではデリカシーがなくて、どちらかと言えばそっちに傷付くことはあったけれど、とても忙しいのに添加物なんかを気にして毎日料理を手作りしてくれていることや、身体にいいからと和食を多めに出してくれていることにはとても感謝していた。


 でも、実家を離れて自炊するようになって、大学一年生の春に思いつきで本物のバターを買ったときに価値観が変わってしまった。


 今まで給食の安価なマーガリンしか食べたことがなかった私はバターの風味にガツンと衝撃を受けた。とろけるミルクの結晶だった。

 ただの食パンが死ぬほど美味しくなって、もう脳から幸福な物質が出まくってるのが分かるくらいに美味しくって、憂鬱な気分も忘れて美味しい以外何も感じなくなるくらい美味しかった。


 その翌日、味を占めた私はハニーバタートーストにしようと少し高級なはちみつを買ってきて、まずスプーンで一匙すくってなめてみた。

 黄金の甘い液体は喉にひっかからずとろっと流れていって、今まで食べてきた安物特有の金属みたいな嫌な匂いなんてしなくって、鼻の奥で花の香りがしたような気さえした。昔流行ったゲームに出てきた、何でも回復できる魔法の花の蜜ってこんな味なんだろうなと思った。

 ハニーバタートーストはもちろん涙が出るほど美味しくて、それから料理に執着するようになった。


 私たちは今まで食べていなかった濃厚な洋食が大好きになって、このマンションに引っ越してきてからは洋食をメインに自炊している。


 エンゲル係数はめちゃくちゃ高いけれど、地元の隣の県の大学に進学して友達らしい友達ができなかった私は他にお金の使いどころがなく、母からの仕送りと、半年前までしていた居酒屋のバイトの給料の貯金でやりくりできている。


 母からの仕送りを受け取るのは少し気まずいけれど、母の仕事はインセンティブ制で、幸いなことに母は売れる営業ウーマンだ。多忙な代わりにお金には困っていないらしく、私は私立の女子大で好きな勉強ができていた。


「今日疲れたなら俺が料理当番代わるよ」


 きいちゃんが腕まくりをしながらそう言う。相変わらず透けるような白い腕だ。




 いつか、本当に透けてしまいそう。





「いや、内定式半日だけだったしいいよ。もう大学も週一回しかないから、久々に外出て疲れたように感じただけ」


「そう? いつでも代わるからな。どっちが作っても同じ味なんだし」


「三年以上も交替で作ってたらね。ま、社会人になったらもっと疲れるだろうし今のうちに慣らしとくわ」


 私はストッキングを脱衣所のかごに入れてから手を石鹸で洗い、スーツのスカートはそのままに廊下のキッチンに立つ。スーツは四月まで着ないからどうせクリーニングに出すし。


 きいちゃんが私が投げ捨てたジャケットや鞄を移動してくれていたのか、床には食材の袋だけが残っていた。


 料理を洋食に絞っていると、冷蔵庫にある程度特殊な調味料をストックできていい。チキンバターカレーは月に一、二回作るのでガラムマサラとかターメリックとか、にんにくなんかは残っていた。もちろんバターも。


 冷凍保存していた鶏肉を解凍して下味をつけている間に鍋にバターをたっぷりと入れ、絶対に焦がさないように、バターが熱い口の中で溶ける様子をイメージしながらじっくり溶かす。

 すりおろしたにんにくを入れ、みじん切りにして保存していた玉ねぎを入れる。にんにくの香りに集中しながら、玉ねぎが石英みたいに透き通るのを待つ。

 この時間が一番重要だ。ここで気を散らしたら絶対に失敗する。でも大切に待てばこのチキンバターカレーはぐんと美味しくなる。

 今だ。

 スパイスとトマト缶を入れて火加減を調整して煮込む。絶妙な火加減でとろりとしてきたカレーを見ていると、なんだかドリアにして焦がすのがもったいなくなってくる。


「きいちゃん」


「なにー?」


 リビングの方から間延びした声がする。私は味を調えながら、少し声を張って聞く。


「今日、ドリアにしない方が美味しい気がするから、ノーマルなやつでいい? 別で温泉卵つけるから」


「温泉卵があるならいいよー」


「よっしゃ」


 私は火を止め、器にチキンバターカレーを注いで、片手で生クリームのパックを開けた。


 そしてそっと弧を描くようにくるりと生クリームを垂らす。


 昨日炊き立てのうちに冷凍しておいたお米をレンジで解凍する。

 カレールーが滲みることを考えたら今炊いたご飯でなくても構わないだろう。

 ラップ越しに丸く成形したそれをカレーの中心に置いて、粉パセリを魔法の粉のように振りかける。

 できたての内に食べたい。

 温泉卵は水を張った耐熱皿に生卵を入れる裏技で作ろう。口の中に唾液がじゅわっと出てくる。


「できた?」


 匂いにつられたのか、きいちゃんが廊下のキッチンまでやってくる。

 四角いナチュラルウッドのお盆に丁寧に乗せられたカレーを見て、きいちゃんがほほ笑む。


「ユキ、天才」


「どっちが作っても同じでしょ」


「じゃあ俺も天才。持ってくね」


 きいちゃんが機嫌よさそうに温泉卵が乗っている方のお盆を運ぶ。鍋にお湯を入れて漬け置きしてから、私ももう一つのお盆を運んだ。


 リビングにはダイニングテーブルとテレビと本棚しかない。

 六畳のリビングにダイニングテーブルを置くために、勉強机はダイニングテーブルと兼用にすることにしたのだ。

 私は丸いテーブルにお盆を置き、きいちゃんの向かいの椅子に座る。


「いただきます」


「いただきます」


 日々の中で一番幸福な時間だ。

 きいちゃんと私は、つややかで美味しそうな香りのチキンバターカレーに銀色のスプーンを入れた。


「うっま」


「そうでしょうそうでしょう」


 しばらく夢中で食べ進めた後、きいちゃんが温泉卵が入った白いココット皿に手を伸ばす。


「最初の一口ちょーだい」


 きいちゃんはいつも、一皿しかない料理を食べるときに最初の一口を食べたがる。

 子供っぽいなとも思うけれど、私はいつも兄らしく振舞うきいちゃんの唯一のわがままが何だか可愛くて好きだった。


「うん。それきいちゃん用だから全部食べて」


「やった」


「あと、それはレンジでやった」


 手抜きでごめん、と私はあらかじめ断りを入れた。


「普通に温泉卵だよ。だしがうまいよ」


「白だし、いいやつにしたからかな」


 温泉卵にはチキンバターカレーほどの情熱をかけられなかった。

 いつかしっかりと和食も作れるようになりたい、そう思いながらも濃厚な洋食を前にすると気が散ってしまう。


「そういえばさ、明日飲み会だから」


 私はオレンジ色のカレールーの中で、嘘みたいに白い生クリームの線を伸ばしながら言った。


「えっ。ああ、会社の」


 飲み会なんて大学のゼミの歓迎会くらいでしか縁がなかった私に、きいちゃんがわざとらしく驚いてみせて、いたずらっぽく笑う。


「えって。うざ。……そう、なんか入社前に懇親会しようって話になって、内定式終わりに新入社員(仮)の四人で連絡先交換した」


「あ、新入社員かっこ仮かっこ閉じるオンリーの飲み会なんだ」


「そうかっこかっこのところは復唱しなくていいのにかっこ閉じる」


「かっこのくだりくだらねー」


 小学生みたいなやりとりだけど、私はきいちゃんと美味しいものを食べながら泡みたいに取りとめのない話をしている時間が好きだ。

 外では事務的に振舞う私にとって、意味のない会話をしてくれるきいちゃんにどれだけ救われたか分からない。


 会話の内容ではなく、私が会話をしていることに意味を見出してくれるのが嬉しい。大学生になってからは特にそう思う。


 母はいつもぐったり疲れていて子供との会話すら家事の一環みたいなところがあったし、そもそも今は住んでいる県が違うから盆と正月くらいしか会わないし。


 小、中、高校生のときは嫌でもクラスメイトと話す機会があって、そこで「なあんだ、ユキちゃんって冗談とか言えるじゃん」と打ち解けられることもあったけど、大学生になったら各々が講義を選んで、毎回違う席に座って、講義が終わったらすぐに帰っていくから、自分から声を掛けたり、連絡先を聞いたり、飲み会を開いたりしないとどんどん孤立してしまうのだ。


「……懇親会しようって言った岸元って人、大学でもリア充だったんだろうな」


 ぽつりとつぶやいた私に、きいちゃんが反応する。


「じゃあ、飲み会で仲良くなったらいいじゃん、キシモトさんと。男? 女?」


「男」


「男かあ」


 きいちゃんが両腕で頬杖をついて目を閉じる。私もきいちゃんもすっかり食べ終わっていた。


「心配? きいちゃん」


「えー。でも、ユキがぼっちな方が心配かな。変なやつかどうかは見極めてほしいと思うけど」


「あんまり話してないから分からんなあ」


 私はスマホから、やたら抑揚をつけて喋っていたリア充男の名前を探す。

 そういえばなんか「コンシンカイ」のイントネーションが変だったな。

 「カレシ」みたいに、リア充(というか普通の若者)独特のイントネーションがあるのかもしれない。


 じゃあ非リアはイントネーションでバレるのか。行きたくなくなってきた。




「あれ、名前岸元じゃなくて西元だった」


 沈黙。


「……ユキってさ、よく名前聞き間違えるよね」


「え? そう? 私あんまり間違えた記憶ない」


 記憶にないまま失礼なことを何度もしていたのかと、普通に焦ってきいちゃんの顔を見る。きいちゃんが何だか意味ありげな表情をしていたので、他人を不快にさせることについて気にしてしまいがちな私は動揺して背筋がびりっとした。


「……いや、俺も過去一回しか記憶なかった」


 きいちゃんがぱっと表情を変えて言う。


「なにそれ」


 また冗談、そう安心する私を見て、きいちゃんがなんとなくぎこちなく笑う。


「とにかく仲良い人ができるといいね。できれば女の子で」


「私以外男です」


「マジか、門限十時ね」


 過保護か、と私は笑ったけど、きいちゃんの目は結構マジだった。


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