“あの子”のための選択

 イライラしたときに、あの子を抱くのが当たり前になっていたある日のこと。


 あの子が俺に尋ねた。


「他の子にも、こんな激しくするの?」


 俺は首を振って答える。


「ううん。お前だけだよ。他の子はもっと優しく抱く」


「そっか」


 あの子は一瞬傷ついたような表情を見せるも、すぐに笑顔を作った。その笑顔は昔のような純粋な笑顔ではない。どこか、無理をしたような、しかしそれを隠すような複雑な笑顔だった。


 そんな笑顔を見ながら、そういえば、と考える。


 いつからか、あの子は出会った頃のような笑顔を見せなくなった。いつも、どこか無理をしたような笑顔だ。


 気が付けば、俺はあの子にそんな笑顔しかさせられなくなっていたらしい。そのことが、俺に自責の念を抱かせた。


 ――どうにかして、あの子を解放させてあげられないだろうか。


 まだ自分からあの子を手放す勇気がなかった俺は、あの子に選択肢を与えることにした。


「逃げたきゃ、逃げてもいいよ?」


 あの子は首を横に振って、俺に身体を預けてくる。そして、優しく笑いながら言ったのだ。


「私だけが君の孤独を知っている。それだけで、いいの」


 本当はあの子に拒絶して欲しかったのに、あの子の俺を受け入れる言葉が聞けて何故か安心してしまう。


「ふふ、独占欲ってやつ?」


 ふざけて言う俺にあの子も笑い返す。


「かもね」


 変わらず優しいあの子に、このままではいけないと脳裏で警鐘が鳴った。


 ――あの子は俺みたいな奴と一緒にいるべきではない。


 いつもは無視をする警鐘も、この日から無視できなくなった。あの子を傷つけるだけじゃ飽き足らず、俺はあの子から笑顔を奪った。その事実に気付いて、俺は俺を許せなくなったのだ。


 ――あの子が俺を捨てられないのなら、俺が別れを告げるしかない。


 俺は、あの子との関係を断ち切る覚悟を決めた。




 そして数日後、俺はあの子の部屋を訪れた。


 いつものストレス解消のためではない。あの子に、別れを告げるためだ。


 あの子は、珍しい俺の来訪に驚いた様子だったが、俺を快く招き入れてくれた。

 不思議そうな顔で、座るように促す。俺はその誘導に従って、あの子の目の前に座った。


「どうしたの? うちに来るなんて、珍しいね。用があるなら私から行ったのに」


 そんなあの子に、俺は優しく笑いかけた。そして、話を切り出す。


「今日は、お前に話したいことがあってきたんだ」


 あの子は一瞬、目を見開いたが、すぐに微笑んで俺に話の続きを促す。あの子の瞳が少しだけ、揺れていたような気がした。


 俺は慎重に言葉を選んで、あの子に別れの言葉を告げる。


「お前は、俺と一緒にいるべきじゃない。もう、終わりにしよう」


 あの子は覚悟を決めていたのか、笑顔のまま返事をくれた。


「分かった」


 そう頷くあの子の目は、少し潤んでいた。俺はそれに気づかないふりをして席を立つ。これ以上優しくするのは、余計にあの子を傷つけるだけだと思った。


 俺は「それじゃあ」と言うと、後ろを振り向かずあの子の部屋を出る。最後にあの子がどんな顔をしていたのかは分からないし、俺にそれを知る権利もないだろう。



 ――本当にこれでよかったのか、今でも分からない。


 もしかしたら、俺はあの子を「愛していた」のかもしれない。あの子を幸せにする努力を怠っただけなのかもしれない。


 しかし、俺は最低な人間だ。大切な人ほど優しくすることができない。あの子を傷つけるくらいなら、これでよかったはずだ。


 俺は自分にそう言い聞かせて、今日も胸の痛みに気付かないふりをしていた。

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