通り雨のあとに青空が広がる今日の蒸し暑さは、天使日和にちょうどいい。
彩
第1話
「あ、今なら天使になれそう」
「は?」
ぼんやりと窓の外を眺めていたはずの日菜美が不意に呟いた。
返事の代わりに思わず真顔で低音の一文字を返してしまったのも、無理はないと思う。
会話の流れを無視した意味のわからないことを急に言われたら、誰だってこうなるはずだ。だって、脈絡がなさすぎる。
すっかり忘れていたけど、この日菜美という少女は、そういう突拍子もないことを言うような子だった。
たとえば小学校のときの夢は『アイスが好きだからアイスになること』だったし、紫陽花のことを「桜になりたい花」なんて言うし。
この際、アイスのことは置いとくとして。
紫陽花についての感性はすてきだと素直に思う。思うけれども。日菜美について理解できないことの一つが、こういうところだ。本当、こんなところはいつまでたっても理解できない。できる気がしない。幼い頃からずっと一緒にいるのに。
きっと、こういうところをマイペースだとか天然だとかって、大多数の人は表すのだろうなと思う。
「ねえ、そう思わない?」
問いかけられた鞠香は、間を置かずに首を振った。もちろん横に。
「全然」
そう思う根拠を教えて欲しい。できるだけ簡潔に、しかもわかりやすく。
窓の手摺に凭れ掛かると、嫌でも彩度も明度も共に高い鮮やかな色が目に入る。
雲ひとつない空だけど、通り雨がついさっきの授業中に降ったため、朝より湿気がひどい。そのせいだろう、とても蒸し暑い。
こんなときに使う言葉としては、「溶けそう」というのが正解ではないのか?それがなぜ、『天使になれそう』?
そんな意味合いを込めて日菜美を見るが、当の本人は気にもしていないようすで。
「そっかー、鞠香にはわからないかぁ」
なんて言ってる。
だから説明してってば。じゃなきゃわかんないから。もったいないなぁ、じゃないってば。
口を開くのと同時に、
「あ、そろそろ時間だね〜」
ふわふわした口調で、足取りで、日菜美は自分の席に着いた。
「あ、ちょ、日菜美……」
思わず伸ばしかけた手は日菜美の背に掠りもせず、名前を呼んだ声は休み時間の喧騒に消え失せた。
なにをどうすればあんなマイペースな子が出来上がるのだろうか。
思わずため息を吐こうとしたところで、チャイムが鳴った。
意味は無いとわかってはいるけれど、ジトッとした目でスピーカーを睨む。
お願いだから、ため息くらいは吐き出させてよ。
入ってきたのは体育教師。外は雨で予定していたことができないからと、急遽、座学になったのだ。体育館を使えばいいのに。っていうか、雨っていっても通り雨じゃん。どうせグラウンドだって、ちょっと湿ってるくらいでしょ?
ああそれに、できればこんな日には理科の授業がいいな。嫌いだけれど、あんな教科を一生かかったって好きになることなんてできないだろうけど、今なら分かり合える気がするのだ。
だというのに、よりにもよって体育の座学。
それもこれも全部、この天気のせいだ。
指名された日菜美が、ふわりほわりと教科書の文を読む。まだギリギリ午前中だというのに眠気を誘うその読み方に、ふいに塩素の匂いを思い出した。
あのプールの、鼻に入った水のツンとした痛さ。記憶の中の塩素の匂いは青い色をしていた。
まったくと言っていいほど泳げないけど、プールの授業が恋しくなる。授業よりも、あのプールサイドが。
鞠香ってときどき変だよね、とは確か日菜美の言葉。日菜美って名前の字面はまるで春なのに、夏を感じてしまうのは、もう朧気にしか思い出せないクロールのフォームのイメージが強いからだろう。
そういえばしばらくあの泳ぎを見てないなと思った。あの、まるでお手本のような、普段の様子からは想像もつかないキリッとした泳ぎを。初めて彼女の泳ぎを見た人が驚くのを見て、少し誇らしくなったのは鞠香だけの秘密だ。
この学校では水泳の授業はないから。泳げないから嬉しいけれど、鞠香にとって水泳の授業は夏の風物詩の一つでもあったから、ないのは少し寂しい。というか、物足りない。卒業まであと一年を切った今でもその空虚さにはまだ慣れないし、これからもきっと慣れることはないのだろう。
自分から市民プールのようなところに行ってもいいけど、それじゃあなんだか違うのだ。
嫌々だからこそ、ちょうどいい。
でも、今年でこの学校で過ごすのも最後なのだし、せっかくだから日菜美を誘ってプールにでも行ってみようか。うん、いいな、そうしよう。
いつの間にか真っ青な空には雲がかかっていた。しかも、灰色の。白じゃない。
これはひと雨くるのかも。
思ってる間に青の面積が狭くなる。灰色が埋めつくしていく。
厚くはない、どちらかというと薄いグレーは水分を降らせる。霧のようなそれはすぐに止んだけど、またアスファルトの色が濃くなった気がする。ついでに緑の匂いも強くなった。
こんなに弱い、雨ともよべない雨だからなのか、蝉たちに休むつもりなどないらしい。霧雨と一緒になって、蝉時雨を降らせていた。
降ったり止んだりを繰り返す霧雨が世界をすっかり湿らせた頃、ようやく下校となった。
薄く広がっていた灰色の雲はどこかへ消え失せ、遠くの空に白い雲が見える。
その雲に見え隠れするような太陽が水分を蒸発させていく。
朝よりもよほど暑いこの空気は、なんだかプールの後に似ている。鞠香が夏を感じる、あの倦怠感に。
プールで泳ぐととても疲れる。一回だけ、水に慣れるために軽く泳いだだけでも。
だからといってその授業中、休んでいられるわけもなく。
先生の指示に従うように、下手くそな泳ぎを繰り返して、繰り返して。
やっとのことで授業が終わると水から上がり。プールの水より冷たいシャワーを浴びに行くまでの、プールサイドで感じる身体の重たさ。水の中より軽く動く足や腕。
制服に着替えて校舎に戻るまで、プールの匂いを、空気を感じて。蝉たちの激しい自己主張に、ああ夏だなあ、なんて思って。
そのときの足取りは熱に浮かされたように感じるけれど、たぶんしっかりしているのだ。だって、周りがそうだから。
そして、そのときの倦怠感に身を任せると、すぐにでも眠ってしまいそうになる。
それがどうしようもなく、好きだった。
「ねえねえ。やっぱり、天使になれそうだよ」
意識が過去から現実に帰ってくるきっかけは、日菜美の声。否、「天使になれそう」という言葉。
休み時間にも聞いたそれに、けれど鞠香は否定しなかった。
さっきは意味がわからなかったのに、今ではわかる、と思ってしまったのだ。
でも「わかる」と言うのはなんだか癪だわ。
だから否定しないに留めておく。
そんなことを気にする日菜美ではなく、彼女は不意に立ち止まり、青を見上げた。
日菜美の視線を途中まで追いかけて、でも、目を地面に落とした。
ちょうど二人がいたのは水溜まりの
コンクリートに広がった、今日の天気の割には大きいそれに、日菜美が広げた翼が見えた気がした。
その翼は天使の羽。日菜美の、日菜美だけの天使の羽は、ゆっくりと水溜まりの空に溶け消える。
人は水溜まりくらいの水があれば溺死する、と何かで聞いた。これだけ大きければ、確実に人は死ねるのだろう。なんて、笑えないことを考えた。
鞠香は持っていた傘の先で、水溜まりを掻き混ぜた。理由なんてない。強いて言うなら『なんとなく』。別に、一秒前に考えていた物騒な思考を追い払うためではないのだ。
デタラメな傘の動きに合わせ幾つものの波紋が揺れて、模様を描き、途端にすべてが掻き消える。
鞠香は顔を上げて空を見た。
広がる青い色はまるで夏みたいだ。みたい、ではなく、本当に夏なんだけれども。現実味の薄い空は、塩素の匂いとプールの倦怠感と、それから蝉時雨を感じさせた。
ああ、天使というのは、天使になれそうだって錯覚してしまうのは、きっとこれのせいだ。
これが、私にとっての天使で、その羽なんだ。
鞠香は弾かれたように地面を蹴った。
理由もなにもないのに走り出すなんて、アオハルかよ。そんなのもう使い古された表現だって。
そう思いながら。アオハルでも、使い古しの表現でも、なんでもいい。そんなの、構わなかった。関係なかった。
この思いを、感情を、衝動を、確かに表すにはこれが一番ちょうどよかった。ただそれだけだ。
炎天下、天使の羽根を撒き散らしながら、鞠香の姿はアスファルトを歪める陽炎と混ざりあった。
通り雨のあとに青空が広がる今日の蒸し暑さは、天使日和にちょうどいい。 彩 @fi_na
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