第6話【Nightingale&Chatelaine Ⅲ】
「これは、お前が持っていなさい」
そう言って師匠は、モートに鎖を手渡した。
「後は手筈通りに」
師匠の言葉にモートは、緊張を取り戻し頷いた。
「さあ、ラグジュアリーな御婦人を丸裸だ」
師匠は指を鳴らしてそう言った。
「彼女は、必ずそれを取り戻しに、お前の前に現れるはずだからな」
「これは…そんなに大切な」
「そうだ、それは」
Fretus Libellum…依代。 そう言いかけて師匠は、その言葉自体が既に、この国の言語から失われていることに気がついた。
この国に、一神教、人格神信仰が根づいてから随分長い時が流れた。
樹木や自然界から派生した神を祀る、ケルトやドルイドの信仰には、依り代に該当する言葉も曾ては存在した。
しかし現在では絶対的一神教以外の信仰は神の愛人、偶像崇拝、ペイガニズムと揶揄され、唾棄すべき異教とされている。愛人は常に、騙し、誘惑し、奪う。
「鳥は何処に憩う」
師匠は弟子の少年に訊ねた。
「鳥は木の枝に…小鳥ならば、生まれた巣に」
「左様、その鎖はあの御婦人にとって、そういうものだ」
師匠はモートの耳元に囁いた。
「……さもなくば命も魂も呑まれる」
モートは唇を固く結び、師匠を見た。
「やれるな」
モートはその言葉に力強く頷いた。
師匠はグレートホールの暖炉に向かって、ゆっくりと歩きはじめた。
「鳥の名はナイチンゲールだ」
師匠は火の気のない、壁に穿たれた灰色の空洞を見つめて呟いた。
「棺桶の穴より、もっと大きな暖炉だ!そうは思わんか?モート」
「はい!」
「この暖炉は私の見立てでは、屋敷が作られた当初は、食事の煮炊きにも使われていた…ということは、この屋敷のキッチンは後から増設されたものだろうな…」
「師匠それが何か!?」
「ということはだ、この奥にあるキッチンはさぞかしコンパクトで可愛いキッチンであろうな!2つあるかも!可愛いキッチンが2つも!…うひょひょひょひょ」
「師匠!」
あ~あ!この人やっばり、魔法使いじゃなく、ただの建築マニアの親父だ!
スクリーム不動産だ!
「これ、モート気を抜くなよ」
帽子のつばの下から見下ろす師匠の瞳は、埠頭で出会った時と同じ、怜悧な魔法使いの眼差しだった。
モートが気圧されて、唾を飲み込む前に天井から魔物が降って来た。
「まだそちらに…御婦人が盗み聞きとは、些か御行儀がよろしくありませんな!」
胸のポケットから取り出したハンカチーフで埃を払いながら、師匠は貴婦人に言った。
同時に、師匠の目配せを見たモートは、直ぐに真後ろに飛び退く。
そのまま全速力で駆け出した。
師匠の言葉通り、彼女は歯を剥出しにして、ぎしぎしと音を鳴らしながら、モートの後を追って来た。
狭い廊下に入ると、両手で壁に爪を立て、壁でも天井でも自在に這い回る。
その速度は、人より蛇よりもはるかに早く、まるで氷上を滑るようだった。
経年のために、床や壁に積もった埃や蜘蛛の巣が、容赦なくモートの口や鼻に入り込む。
咳き込まずにはいられない。
目の前にある机や扉、邪魔になるものは魔物は素手でいとも容易く破壊した。
振り向こうなどとは思わない。
初めて邂逅した時の、優しげな婦人の面差は、既にそこにはなかった。
すぐに、伸ばした爪の先が、モートの貫頭衣を掴もうとする。
すんでのところで、モートはその手をかわし、斜めに倒れそうになりながらも片足で踏ん張り、ポケットから取り出したカードの束を四方に投げた。
それは修行と称して、モートが来る日も来る日も摸写をした、師匠の肖像が描かれた札だった。
一枚一枚の放たれた札は、床に落ちることなく、柱や壁に狙いすましたように、ぴたりと貼りついた。
モートは魔物の手や、鞭のように飛来する尾の攻撃をかわしながら、屋敷中を駆け回る。
魔法使いの弟子になる前から、かっぱらいは当たり前の日常茶飯事。
逃げ足だけは、誰にも負けなかった。
モートが、人智を越えた素早さと、力を持って追い縋る魔物の手をかわすことが出来たのは、師匠に予めこの屋敷の見取り図を見せられていたからだ。
「これから行く屋敷の見取り図を一晩で覚えろ」
そう言われていた。おかげで、屋敷の中で立ち止まることも、迷うこともせずに済んだ。
そうでなければ、忽ち魔物に捕まり、その体は引き裂かれていたはずだ。
しかし、いくら足に自信があるといっても相手は魔物。次第に息も切れて来る。
ようやく広間に戻りかけたその時、遠くで師匠の声がした。
「モート、首尾はよいか!?」
師匠が階段の上からこちらを見ている。モートは師匠に手を振り合図を送る。
そして打ち合わせ通りに、ウサギの耳当てを頭に装着した。
そしてズボンの後ろに隠してある、フライパンを二つ取り出した。
フライパンの中央にも師匠の肖像。
鋭い爪の一撃を、フライパンでなんとか跳ね返す。派手な音がして、丸大のような尾が首の根を直撃した。
薙ぎ倒されるような衝撃で、モートの体はそのまま壁に叩きつけられた。
壁に頭を強かにぶつけ、堪らず吐き出した唾液には、折れた歯が2本と血が混じっていた。
「し、俺…師匠…もう…お願いします…」
階段の上から見ていた師匠は、漸く動き出した懐中時計の蓋を閉じた。
「한 곡 노래합니다!(1曲歌います!)」
ハンゴッ ブルゲスムニダ!
イーアーイアイアイーーイーアー!!!
イーアーイアイアイーーイーアー!!!
御屋敷のホールに、師匠の叫びが木霊する。
スクリーム師匠は、精霊バンシーの血を受け継ぐ魔法使いだ。
バンシーが叫ぶ時、死者を悼み、血の涙さえ流すとも言われている。
しかし師匠はそうではない。
師匠が流す涙は血の涙ではない。
ただひたすらに、己の歌声に感動するあまりに流す、滂沱たる涙の滝であった。
師匠の声に呼応するように、フライパンに貼りつけられた肖像が正面を向いた。
屋敷の壁や柱に、逃げながらモートが貼りつけた師匠たちの顔も正面を向く。
その瞳が赤く妖しい光を放ち、階段の師匠の歌声とともに一斉に歌い始めた。
イーアーイアイアイーーイーアー!!!
イーアーイアイアイーーイーアー!!!
モートが師匠に言われて、毎日一生懸命描いた膨大な師匠の肖像画の札。
それ自体が魔法の回路であり、師匠の叫びを増幅させるための装置であった。
人ならば即死、悪魔でさえも怯むと言われた師匠の叫びが今屋敷中に木霊する。
先程までモートを追いかけていた蛇の貴婦人も頭を抱え、苦し気に床を這い回っている
魔物はモートを諦め、再び何処かに姿を隠そうとしていた。
「おし」
モートはふらつく足で、頭の痛みを振り切るように立ち上がった。
「今度はこっちのターンだぜ…ダーリン」
床に落ちていたフライパンを2つ拾い上げて、モートは言った。
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