0-1 序 - あの日の記憶
ランタンの光が淡く照らし出す室内で、ひとりの青年が、ベッドに身を横たえた女を見つめていた。
カーテンの開いた窓の外に、月はない。都世界を照らしていた太陽であり月だった光球は、災害たるあの魔術師によって落とされ、光を失ってしまった。
何もかもが手遅れだ――青年は思った。
都世界のことだけではない。彼の目の前の女もまた、すでに手のつけようがないほど弱り切っていた。
「ベルリオーズ先生……」
青年は口を開いたが、それ以上は言えなかった。何より、女――ベルリオーズ自身が死を受け入れ切った状況で、死なないでほしいなどと言えるはずがない。
ふと。ぼうっと天井を見つめ、その時を待っていたベルリオーズが、今にも消えそうな声で笑う。
「自分のことなど、どうなってよいと思っていたのに……。この子のことだけは、惜しいと感じます。私の――」
――たったひとりの、家族。
ベルリオーズは震える腕を持ち上げ、毛布越しに、膨らんだ腹を撫でる。彼女の動きに合わせて、枕に広がった短い赤髪に、光が伝う。
ろくに感情を見せなかったベルリオーズの笑みに、青年は喜ぶより、胸が苦しくなるのを感じた。彼女の瞳は、もはや天井をすら見ていない。青年のほうなど、見てくれるはずもない。
ただしそれは、なにも今だけのことではなかった。ずっとそうだった。彼女は多くの弟子を抱えていたが、その誰にも心を開いていなかったことに、青年は気づいていた。
「けど……父親があの男なら、先生のお腹の子は、人の形さえしていないかもしれません」
「この子が人の体と心を持って生まれたとすれば……私のあやまちは、いずれ、この子が裁いたでしょう。そうでなければ、それまでのことでした」
愛した人との子ではないその子どもを、ベルリオーズは心から愛している。それを哀れと取るべきか、狂気ととるべきか、それともそれが母親というものなのか、青年にはわからなかった。
ベルリオーズが、しばし沈黙する。いよいよかと思ったころ、彼女が深く息を吸い、急いた様子でこう言った。
「私が死んだら、ここを立ち去りなさい。わがままに付き合わせるばかりで、私はあなたになにも与えられなかったのですから。ただ、心がまだここにあることが、苦しい……」
彼女が本音らしいことを口にすることは、ほとんどなかった。それが今、こんなにも心の内を露わにしている。
青年はたまらず、膨らんだ腹の上に置かれたベルリオーズの手に、自らの手を重ねた。師の手はひやりとして骨ばっていたが、まだ生命の柔らかさがある。
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