二話 初恋

 



 あの若い男だった。


「女将さんは?」


「……おふろ」


「風呂か……じゃ、中で待たせて貰うか」


 男は客間に上がると、座卓の灰皿を手前に引き、胡座を掻いた。奈津は、どう対応していいか分からず、後ろ手でモジモジしていた。


「座らんね。名前は?」


 煙草に火を付けながら訊いた。


「……なつ」


 奈津は男の斜め横に正座すると、その横顔に目をやった。


「なっちゃんか。よか名前たい」


 奈津は恥ずかしそうに俯いた。


「おいは、木村努きむらつとむ。よろしくな」


 奈津は頷いた。


「何年生ね?」


「……四年」


「四年生か……。そん頃、なんばして遊んどったかな……ビー玉とかメンコかな……。ああ、竹馬とか缶けりばして遊んどったか。学校は楽しかね?」


 奈津は、まあまあと言うように、ゆっくりと頷いた。


「勉強したっちゃ、いっちょも役に立たんばってんが、仕方なかさ。義務教育やけんな」


 奈津は、ごもっともと言わんばかりに、納得しながら頷いた。


「甘いもんは好きね?」


 その質問に、今度は素早く頷いた。


「したら今度、お菓子ば買うてきてやっけん」


 奈津は目を輝かせて、ニコッとした。努は、洗い髪を手櫛でいたような清潔感があり、日焼けしたその顔を伝う汗さえも、奈津には爽やかに映った。


 その時、玄関の戸が開いた。奈津は反射的に立ち上がると、急いで客間を出た。階段から見下ろすと、案の定、洗面器を抱えた千草だった。




 それからは、努は千草が風呂に行っている時間を狙って、時々、奈津に会いに来た。努から貰ったキャラメルやキャンディを食べながら、庭を眺めながら煙草をむ努の横顔を見詰めるのが、奈津は好きだった。




 そんなある夜。階下からの声で目を覚ました。聞き耳を立てると、努と千草の楽しげな笑い声だった。――奈津は、努に裏切られた気がした。くれると言った大好きなお菓子を目の前にして、やっぱ、上げない。と意地悪された思いだった。


(……お兄ちゃんなんか、大嫌い!)




 翌朝、便所に下りると、努が客間から笑顔を出した。奈津は無表情で努を睨み付けると、無言で便所に走った。




 翌日、努の来る時間に奈津は二階の窓から曇天を凝視していた。


「なっちゃん、おるとやろ? 入るけん」


 膝を抱えた奈津は、窓の外に目をやったまま微動だにしなかった。


「キャラメルば買うてきたばい。おまけはなんやろね?」


 奈津の横に胡座を掻くと、キャラメルの蓋を開けてやった。


「お兄ちゃんなんか大嫌い! あげな汚なか女と!」


 奈津は涙を溜めて睨み付けると、努が持っていたキャラメルの箱を手で払って、出て行った。




 ――それっきり、努は『千草』に来なくなった。その日から、奈津は独り遊戯を始めた。

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