血河演説

 『血の河の戦い』ブラッディリバーの直前。

 兵士たちは明確に浮足立っていた。当然であろう。敵軍は陸海空全ての範囲で規模に勝り、もっともマシな陸軍でさえも叛乱軍の三倍の規模を持つのである。この時点で逃亡兵が殆ど居なかったという事実も存在するが、これは叛乱軍の兵士はどのような形であれ『処分する』という鎮圧軍の宣言が先にあったからだ。彼女たちは、陸戦条約に則った扱いを希望するということをしない。その程度の条文なぞ、実際の戦場では紙切れとしての意味合いすら持たないということを、彼女たちは理解していた。

 そこで……当時、陸軍元帥を名乗っていたメグミ・トーゴーは演説を開始した。

 兵士たちはまるで羊のように彼女を見上げた。彼女はそこに居た。恨みがましい目で、兵士たちは彼女を見る。

 彼女は沈黙が場を支配するのを待った。じきにそうなった。無駄口を叩くにも気力が必要なのである。

 彼女は、言った。

「兵士諸君」

 少しの間、彼女は沈黙した。たかだが三十秒程度であったその沈黙は、兵士たちにとっては永久のように感じ取れたという。

 彼女は言った。

「この沈黙は、先に散っていった兵士たちに対するはなむけである。私は彼女たち先駆者に感謝の意を示さなければなるまい。何故なら、今我々がこうして歴史的会戦に臨むには、彼女たちの献身がなければならなかったのだから」

 彼女は続ける。

「私は、私自身の目的のために犠牲にした兵士の名前を一人一人、この場で暗唱することができる。嘘だと思うのであれば、全てが終わった後に私に会い、それぞれの戦闘における死者の名前を言ってみろと聞けば良い。私はこれを一人一人、呼ぶことができる」

 後に一人の兵士が上級士官となった際に、実際に彼女に対してこの言葉の真意を問い質したことがあるらしい。曰く『血の河の戦い』における死者の名前を全て暗唱して欲しい。質問者は、これを不可能だと思い込んでいた。何故ならば『血の河の戦い』における死者は万を越えるからである。

 しかし、彼女は言ってのけた。一人目から順番に、その戦死した時刻さえ正確に述べてみせたという。この暗唱は朝に始まり、終わる頃には既に日を跨ぐ頃合いであったという。しかし、なんであれ彼女は『血の河の戦い』ブラッディリバーにおける戦死者の名前を暗記し尽くしていたというのは、ほぼ事実であったと言って良いだろう。

「兵士……否。もはや、諸君らは兵士ではない。君たちは今や正規の軍籍からは離脱しており、多国籍軍や国連軍……或いは、それぞれの国家の軍隊から君たちは明確に敵視されている」

 しかし。彼女は言う。

「その代わりに私は、諸君らに全てを与えると約束しよう」

 彼女は言った。まるで踊るように。

「戦友を。財産を。名誉を。国家を。栄光を。墓を。家庭を。生活を。歴史を……そして、名前を、諸君らに与えよう」

 同志諸君に、私はたった一つのことを望む。

「戦えとも言わない。泣くなとも言わない。死ねとも言わない。守れとも言わない。たった一言だ」

 たった一言。彼女はそう繰り返した。

「恐れるな。ただそれだけだ。諸君らは恐れなければ良い。何も恐れるな。敵を恐れるな。『彼ら』を恐れるな。死を恐れるな。生を恐れるな。守ることを恐れるな。攻めることを恐れるな」

 諸君らは今、どこに居る? 彼女は兵士たちにそう、問い質した。

「今諸君らが居る場所はどこだ? 地面か? 空か? 海か? 草原か? 荒野か? 街頭か? 海岸か?」

 そうではない。全て違う。彼女は宣言する。

「今、諸君らは歴史の上に立っている。全ての歴史だ。人類が繰り返した壮大にして愚かなる全ての戦史の上に、立っている。人類の歴史の全てを諸君らは今、足下に置いているのだ」

 この戦いは、空前絶後である。

「最初で、最後だ。この戦いから、歴史の車輪はあらぬ方向へと走り出す。しかしその起点となるのは諸君らとその戦闘である。我々の戦いによって、である」

 繰り返す。彼女は叫んだ。

「恐れるな。私が諸君らに求めるのは、ただそれだけだ」

 さあ。

「共に、血の河を渡ろう」

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