脳の中の砂

f

雷鳴


 僕は壁の中で暮らしていた。

 壁の中にいるのは、僕とチャーリーだけ。


 チャーリーは僕の友だちだった。彼は僕のすべてを知っていて、僕は彼のすべてを知っていた。

 彼はゆるぎなく、完璧な存在だった。


 壁の中はごく淡い灰色で、とても静かで、平和だった。

 僕はチャーリーといろんな話をした。

 いったい何を話したのか、いまでは思い出せないけれど。


 時おり壁の外で、稲妻が光り、雷鳴が鈍く唸るのを感じたが、僕は何も気にしていなかった。

 壁の中は安全だ。

 チャーリーはいつも僕と一緒にいた。

 彼は僕のすべてだった。



 いつからか、チャーリーはこんなことを言うようになった。

「お前は俺を忘れ、壁の外へ出ていくだろう」

「チャーリーを忘れる?どうやって」

「その時が来れば分かる」

「チャーリーがいないなら、壁の外には行かないよ」

 僕がそう言っても、彼は淡々とこう答えるだけだった。

「お前が出ていかなくても、雷がお前のもとにやって来る」


 僕はチャーリーのことばを理解できず、不安になり、混乱した。

 僕が何を聞いても、彼はこう繰り返した。

「時が来れば分かる」

 むくれた僕は食い下がった。

「時ってなんなのさ?」

「時とは非情なもの」

 彼は言った。

「時は、何もかも連れ去ってしまう……何もかも変わってしまう」



 ある日、目が潰れそうなほど白い光と、巨人の咽び泣きのような恐ろしい音とともに、壁が壊れた。

 そしてチャーリーはいなくなった。


 それはあまりにもあっけない出来事だった。

 僕の中から、チャーリーという存在がごっそり抜け落ちてしまった。


 僕は何かを失った。

 いったい何を?

 彼が何だったのか、僕は分からなくなってしまった。

 この空洞はあまりにも重かった。

 僕は動くことができなかった。地面にくずおれることも、俯くこともできなかった。

 ただ呼吸も瞬きも忘れて、立ちつくすことしかできなかった。


 崩れた壁の向こうから、唸り声とともに、雷たちがやってきた。

 入れ替わり立ち代わり、数を増していく像の群れ。

 彼らは確かに僕のもとにやって来たが、彼らが何を話しているのか、僕には分からなかった。


 かかしのように突っ立っている僕の上に、囁き声のような雨が降ってきた。

 雨は僕をびしょぬれにし、大地は巨大な水たまりになった。

 静止した僕の内側とは裏腹に、雷たちは激しく瞬いていた。

 水浸しの蒼白い世界で、僕の血管は暗くなり、心臓は冷たい鉛の塊になった。


 僕は大きく息を吸い込み、喉からことばをひねり出そうとした。

 叫ばなければ、この空白を吐き出さなければ、自分がばらばらになってしまいそうだった。

 でも、何も出てこなかった。

 当たり前だ――僕は空っぽなんだから。

 僕はただの、チャーリーの抜け殻にすぎなかった。


 眼球は焼けるように熱かったが、どんなに瞬きをしても涙は一滴も出てこなかった。

 僕は目を閉じ、歯を食いしばり、拳に爪を立て、肌の上の雨を感じた。

 僕の耳に雨音は聞こえなかった。

 ただ雷鳴だけが響き渡っていた。



 やがて雨は止み、地面は乾いた血のような錆色になり、ひび割れた。

 ひび割れから、ぽつぽつと小さな緑の芽が顔を出した。

 僕はしゃがみこみ、長い間その芽を眺めていた。

 芽はゆっくりと成長し、やはり小さいが美しい花を咲かせ、枯れた。

 花の骸から、丸い種がぶら下がっていた。

 僕がふうっと息を吹きかけると、種はひび割れの中に落ちた。


 僕は自分の足元に、黒々とした影ができていることに気づいた。

 僕はやっと顔を上げた。

 太陽は無慈悲に僕を見下ろし、空は突き射すように青かった。

 世界はあまりにも鮮やかで、容赦なく僕を苦しめた。

 僕はただじっと耐えることしかできなかった。


 僕の周りでは、相変わらず雷たちが会話をしていた。

 僕は彼らのことばを理解できなかった。

 それはただの唸りに過ぎなかった。


 僕はチャーリーが言っていたことを理解した。

 何もかも変わってしまう――僕は変化した。

 僕は大人になった。

 これから僕は、壁の外で生きていかなければならないのだ。



 大人になってずいぶん経ったいまでも、僕には雷たちが言うことのすべては分からない。

 幾つかの――何人か、と表現すべきだろうか――雷とは、友人のような関係を築いたが、チャーリーほど親密にはならなかった。

 雷たちは、遠い轟き、一瞬の閃き。

 彼らは僕のもとにやって来るが、僕のもとにとどまりましなかった。


 僕は変化する。

 僕はチャーリーを忘れた。

 彼は決して変わらない、彼はとどまり続ける。

 もはや彼は誰でもなかった……きっと彼は、初めから誰でもなかった。

 僕の “友だち”は、チャーリーは、僕の想像の産物でしかなかった。


 僕は考える――永遠に壁の中で、チャーリーと一緒にいることができたなら。

 そんなこと考えても意味はない。

 壁は壊れ、僕は彼を失ってしまった。



 いまの僕は一瞬の閃き、いまの僕のことばはただの雷鳴。

 チャーリーはいまの僕のことを理解できないだろう。

 だから彼はいなくなったのだ。

 変わってしまった僕の中から。

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