02_その日

 翌朝、明るい日差しに、意外と早く目が覚めた。ひとつ伸びをして、隣のベッドを見る。

 かつて俺の母親が使っていたベッドに、今はプライムが眠っている。これが、結婚生活というやつか。悪くないな、と俺は思った。レースのカーテンが揺れて、常夏の島の潮の香りが入ってくる。いつ雨戸を開けたんだろう。もう起きているのかもしれない。俺はプライムを呼んでみた。

 反応はなかった。まだ疲れているんだろう。特に疑問は持たなかった。二度寝しようか考えて、一度くらいは他人に起こされずに支度して行ってやろう、と思い直す。客が待っているとはいえ、新婚夫婦の寝室に上がり込んで支度を促す世話役というのも、考えてみれば随分と無粋だ。そりゃ初夜はお預けだよな、とひとり苦笑する。

 先に着替えてしまおうとして、それじゃ結局、支度に時間のかかるプライムを置いてけぼりにするだけだと気づく。可哀想かとも思ったが、他人に揺り起こされるよりマシだろう。俺は声をかけながらそっと、プライムを揺すった。

 プライムはまだ眠っている。おい、プライム、朝だぞ。少し強めに肩をゆすって、ようやく俺は異変に気付いた。


 プライムが、息を、していない。


 俺の全身から血の気が引く。自分の指先が冷たくなるのがわかる。おい、嘘だろ? 強く、強くプライムを揺する。おふざけならこの辺にしてくれ、早く、笑いながら起きてくれ。揺する両手に、冷たい汗がにじむ。頼む、やめてくれ、目を覚ましてくれ。プライム、息を、息をしてくれ!


 俺がプライムの名を叫ぶ声を聞きつけて、村の人間が集まってきた。人だかりができて、医者が呼ばれる。村唯一の老医師はプライムの呼吸と脈を診て、喉の奥を覗き込む。いきなりプライムをベッドから下ろすと、床の上で胸のあたりを押しはじめた。しばらく押して手を止めると、俺に、プライムの鼻をつまんで口から息を吹き込めと言う。言われた通りやってみると、プライムの胸が呼吸するように動いた。だが、それだけだ。また医者が胸を押しはじめる。

 繰り返し、繰り返し、繰り返す。たぶん、これは祈りだ。魂を呼び戻すための儀式だ。俺は無心で、プライムに息を吹き込み続けた。医者が胸を押すのをやめても、俺はやめなかった。周りの人間に止められても、振りほどいて息を吹き込み続ける。いつの間にか教会の神父が来て、神の導きがどうだの御心に従う魂がどうだのぼやいていやがる。うるせえ。プライムが目覚めるのなら神だろうと悪魔だろうと従ってやる。だがこれが神の御心だと? こんな仕打ちを黙って受け入れろと? 気がつけば、神父は顎を押さえてうずくまっていた。すべての苦しみが神の試練なら、俺の見舞った拳骨もたぶん、神の与えた試練なんだろ。ありがたく御心に従えよ。


 ぱぁん、と不意に、俺の頬に痛みが走った。我に返る。目の前にもうひとりプライムが立っていると錯覚したが違った。真っ赤に目を腫らしたプライムの母ちゃんは、俺の肩を包むように抱きしめた。

「もういい、もういいんだよスコウプちゃん……!」

 そのまま、俺の胸で泣き崩れる。本能的に俺は彼女を抱きとめた。両親を失ってから俺を育ててくれた、第二の母親といってもいい存在。

「プライムは、死んだんだよスコウプちゃん。もう、どうしようもないんだよ……!」

 足の力が抜けて、彼女と二人で床にへたり込んだ。這うようにして俺はプライムの顔を覗き込む。唇が濡れているのは、俺が息を吹き込み続けたせいだろう。薔薇色の頬、綺麗な黒髪、なにも、なにひとつ、変わらないじゃないか。


 そう、なにひとつ。なにひとつ、死体の特徴がない。


 俺は振り仰いで窓の外を見た。

「今、何時だ!?」

 俺たちを取り巻いていた人垣がざわ、とかすかにどよめく。

「もう、昼時もだいぶ過ぎちまってるよ」

 誰かが答える。最低でも数時間が過ぎてるってわけだ。俺はプライムを抱き上げた。

「よく見てくれ! プライムの息が止まってるのに気づいてからどれだけ過ぎた!? こいつが本当に、死人の顔か!?」

 腕に当たる首筋が、確かに温かい。俺は確信した。プライムは、生きている。

 人垣を村医者が割って出てきた。

「……確かに、いくら呼吸を補助していたとはいえ、硬直もなければ死斑もない。しかしな……」

 俺が抱き上げたままのプライムを触って、首をひねる。

「体温も……いや、しかし……」

 しかしもカカシもあったもんじゃねぇ。死んで数時間たって、こんなに血色のいい死体があるかよ。

 もう一度よく診ろ、と、俺はプライムを医者にぐっと差し出した。だが、医者は首を振ってみせた。

「いや、ありえんわい。いくら血が澱まぬからとて、呼吸と心拍は止まっとる。つまりは死んどるんじゃ。女神の御許に旅立ったと考えるのが自然じゃろう」

 俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。ああ、間違いない。この確信。咄嗟の激情なんかじゃない。殺意に近い、強い怒り。


 俺の足払いで、老いた村医者は激しく転倒する。悲鳴とどよめきで騒然とする自分の実家を、俺は飛び出した。

 こんな島の、こんな医者だからわからないだけだ。帝都なら。帝都ならきっと、プライムを助けてくれる優秀な医者がいるはずだ。俺が必ず、プライムを助ける!

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